同棲ラン暦モーニング 重さにうなされるように目を覚ました。居間でうっかり寝てしまうと、双子の妹に乗られていることはよくある。ぼんやりと名前を呼びかけたところで、違うだろ、ともう一人の自分が突っ込んだ。
どうにか開けた目に映るのは、木造の茶色い天井ではなく、白い色のみだ。壁も全部白い。匂いも慣れ親しんだ自分の部屋とは違う。けれど落ち着く、心地良い空気。ああ、そうだ。この重みと温度は。
「……んぁ」
ただ薄らと目を開けただけの状態から、もう一段、意識が浮上する。指に絡む柔らかい感触と、腕の痺れを自覚する。次いで、控えめな寝息。正体が妹ではないことは、もう分かっている。
何というか、ランガが俺の胸で眠ってる、みたいな状況だ。服は二人とも着ているものの、誰かに目撃されたら、間違いなく関係を誤解される。いや、まぁそういう関係であることに間違いはないのだけれど。
……俺、結構しっかりこいつに抱かれてんだけどな。
自分で言っておいて(心の中だけど)自分で恥ずかしくなり、空いている方の拳を握り締めて耐えた。
無意識のうちに、ちゃんと頭に手を置いていたらしい。そっと滑らせると、ランガはむずがるような声を漏らした。
起こしてしまったと思う間もなく、髪が垂れて表情がよく見えない顔が、ぱっとこちらを見た。寝起きのその状態でも、俺を見つけるのは早い。
「れき……」
「はよ」
「おはよう。お腹すいた……」
第一声がそれか。今更呆れることもないけど、脱力はしてしまう。ふにゃふにゃの声を追うように、布団の中から小動物の鳴き声みたいな音がした。
ランガが身を起こすと、のし掛かっていた重さがなくなって楽になる反面、触れていたところがひやりと寒くなる。思わず、背を丸めて浮き上がった掛け布団の中に潜り込んだ。
「暦、何食べたい? パンは昨日買ってきた。ご飯は冷凍のしかないけど」
「んー……」
そうだ、今は自分たちだけで暮らしているから、食べたいものを自由に食べられる。ただしそこには金銭面やら料理の腕や手間などの制約がある。弁当や菓子はコンビニよりスーパーの方が安いということくらい知っていたけど、ウインナーやベーコンがあんなに高い物だとは思わなくてちょっとショックを受けた。
その辺はランガが遥かにきちんとしているから、これはディスカウントストアの方が安いとか、保存がきくものはネットで買うとか、半ば任せてしまっている。
肩身が狭いと感じつつも、ランガも割と楽しそうに食材を買ったり料理をしたりしている。だからこうして何が食べたいか——何を作ってほしいかと尋ねられるのは、無性に嬉しい。
考えるために軽く瞼を閉じると、また緩やかな眠気に包まれる。シーツに残った温度に縋るように、身体がどんどんうつ伏せ気味になる。ランガと同じく空っぽの胃が、辛うじて意識を引き止めていた。
「何だっけアレ……先週作ってくれたやつ……フワフワしてる……」
「フレンチトースト?」
「それ。食いたい」
「分かった」
元々パンより米が好きだし、ランガも普通に白米も食べる。メープルシロップかけると美味しいよ、と言われても、朝から甘いものかぁとちょっと躊躇った。もちろん一口食べたらそんなことは消し飛んだし、添えられたベーコンの塩気がより美味く感じた。
今の今まで忘れていたのに、急にあの味が恋しい。
「できたら呼ぶから、少ししたら顔洗って」
「ん」
起き上がったランガが顔を覗き込んで、こめかみと頬を啄む。反射的に目を閉じてしまって、開けた時にはランガはもうベッドから降りて部屋を出て行くところだった。
あんなにべったり張り付いていたのに、メシのことになるとあっさり離れる。当たり前か。腹が減ってなければもう少し寝顔を眺めるとか(重いけど)、ぬくい布団の中でくっついていられたのか——
(いやいやいや。何やってんだ俺は!!)
何だよフワフワしたやつって! それこそ七日と千日じゃねぇんだぞ!? いやあいつらもだいぶ喋るようになったからそれ以下かも……
急速湯沸かし器のレベルで顔に熱がのぼる。布団を掴んで丸まってみたり、転がって簀巻きになってみたり、最後は壁にぶつかるのがお決まりだ。
次第に恥ずかしさが引いてくると、次にくるのは情けなさだ。
手間がかかるのかも、と意識の遠いところでは思ったものの、リクエストというよりはおねだりのような口調でそのまま伝えてしまった。いくら二度寝しそうな眠気の中にいても、数分前の自分は本当に自分だったのだろうか。
「暦、まだ寝てる? どこか辛いのか?」
ランガが扉の隙間から覗き込んだ。寝癖は完璧に直ってはいないけれど、顔はさっぱりとしてエプロンをかけている。がばりと起き上がってベッドに正座した。
「べっ別にどうもしねー」
「もう少しで焼き始めるから」
それだけ告げて、ランガは戻っていった。もんどり打っているのは自分だけで、特に変にも思われていないらしい。
のそのそと部屋を出る。途端に、食欲をそそる匂いがした。甘いパンではなく、ベーコンの脂が跳ねる音がする。ぐう、と遅れて腹が鳴った。
「この前より甘くないよ。足りなければシロップ多めにかけて」
洗面を終えて部屋に入ると、今度はバターの匂いが広がっていた。実家では嗅いだことのない朝食の香りだ。
卵とパンと牛乳があったって、目玉焼きとトーストと普通に牛乳として飲むことくらいしか自分では思いつかない。それが何というか、カフェで女子が食べてるやつみたいな姿になって出てきたから驚いたものだ。
「砂糖減らした方が、暦は食べやすいかと思って」
いただきます、と手を合わせてから、迷った末にグラスに作り置きのお茶を注いで飲む。カフェでも女子でもないから、そこは勘弁してほしい。
使い慣れていないナイフとフォークでも、柔らかいパンにはすぐ刃が通る。一口含むと、確かにこの前よりも淡白な味がした。
「んー……うん。そーだけど、これは甘いのでいいよ」
待てよ。いいよって何だ。上から目線じゃねぇか。
「いやそうじゃなくて……甘い方が好き、かも」
かちん、とフォークが皿に当たって高い音を出す。美味いのに、そこで手が止まってしまった。
「何か暦、変。いつもだけど」
「うっせー!」
心配そうというよりは訝しむように、ランガはそう言った。手元では四角いパンを四分の一サイズに切って、嘘みたいに吸い込んでいく。
「いや……だからこう……お前が作ってくれるのすげー嬉しいっつーか……嬉しいんだけどもっと有り難く思わないといけないっつーか……」
「何だよそれ」
「……夕飯は俺が作ります……」
「やっぱり変」
もぐもぐと動いていた口が止まり、喉が動く。卵と牛乳がしみたパンは、飲み物のごとくランガの胃におさまっていく。
一方で、一口分だけ欠けたパンと睨めっこしている。
「何か、寝ぼけてお前に甘えまくってんのすげー情けなくなった」
「何でだよ。何が食べたいって俺が訊いたのに」
「そーだけど……俺が作るとか手伝うとかもっと簡単なやつにするとか……あるじゃん」
出来立てを冷めないうちに出してくれたのだ。そう思ってナイフとフォークを持ち直す。
「普段の家事はそうだけど、その、今朝みたいな時は俺がやりたいし」
淡々と喋っていたランガの声が、少しだけ揺れる。俺の身体も合わせてもぞもぞ動く。分かっている。多分、世話を焼きたいんだろうということくらい。ただ、それに慣れないのと、慣れてしまうことに葛藤があるだけなのだ。
「母さんも休みの日の朝に、よく食べるんだ。暦、好きか分からないけど試しに作ってみたから、また食べたいって言われて嬉しかった」
ランガが笑う。心から表情筋まで、何の引っかかりもなく溢れ出るからそんな顔になるんだろう。
「そーやってお前が何でも喜ぶからさぁ。俺どんどんダメな奴になるじゃん」
「ダメなことないだろ」
今度はむすっと口を引き結ぶ。怒ってはいないけれど、気に食わないという顔。
そのままの顔で、ランガはメープルシロップが入った小皿を手に取った。スプーンを手に取ると、ほとんど減っていない俺の皿に、たっぷりとシロップを追加した。
「うわっ何してんだよ」
「言ったろ。甘さ控えめにしたって」
乗り出した身と小皿を戻しながら、ランガはそう言った。
「次はまた分量戻す。けど、シロップは好きなだけかけて」
それだけ言って、ランガはまた自分のナイフとフォークを手にした。何せもう一枚が下にある上に、昨晩作りすぎたポテトサラダも横に控えている。腹ぺこイエティはそろそろ我慢の限界だろう。
自分の皿が、さっきよりも琥珀色に輝いている。何よりこのメープルシロップがいっとう高級品なのだけれど、さすがにランガは妥協しなかったし、しろとも言わなかった。
芳香漂うそれを口に含む。くらくらするほどに甘い。甘いけれど、さっきよりもずっと食欲が増して、次の一口を求めてしまう。癖になる香りと甘みだ。
まぁ、これと比べたら俺なんてマシか、なんて意味不明なことを思いながら、こんがり焼けたベーコンはやっぱり塩辛くて美味かった。