# 今はまだ、28度に達さない◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
特定の話題を避けて言葉を交わすというのは、空々しく薄っぺらい。
だから今更____そう、今更取り繕って振る舞う必要もないだろうと考えたのは、どうやらフェイスだけだったようで。
「…………最近は、どうしている」
「っ、ぷ……ちょっと、父さんみたいなこと言わないでよ」
当たり障りの無い話題の切り出し、定番とされるラインナップの上位に食い込むだろうフレーズを、ブラッドがどこかぎこちなく口にした。
これまで幾度となくフェイスの心をちくちくと突き刺していた荊の棘を抜き落として、メンターリーダーという立場を抜きにして。ただ自然に、なんとなしに投げかけるだけの言葉を紡ぐのは、そんなにも難しいことだろうか。
冷たく突き放して、厳しく当たる日々を当たり前のように何年も続けていた目の前の男は、兄としての顔を忘れてしまったのではないか____などと。ここ数年ですっかり定着してしまった卑屈な思考ごと笑って捨ててしまいたくて、フェイスは「……まあ、似てきたのかもね? 声とか」と言って、くすくすと喉を鳴らした。
「電話口で、母さんが間違えたことはあったが……」
「ぶっ……ねえ、だから、笑わせないでってば」
どうして弟が吹き出してしまうのか理解できていないらしいブラッドは、眉を僅かに下げてわかりやすく疑問符を飛ばしている。
少し前までのフェイスであれば気がつくことはなかっただろうし、これまでのブラッドであれば、フェイスに気づかせるほど気を緩ませていなかっただろう、些細な変化____迎えたモーダルインターチェンジは、どちらかの歩み寄りによるものなのか、両者の意識の変革が齎したものなのか。
なんとも形容し難い、やわらかでこそばゆい感情が、フェイスの心の内側をそっと灯す。
「…………お前は、本当にショコラが好きだな」
緩んだ口元は、気に入っていると話したガトーショコラによるものだと受け取ったのか。穏やかな声が、懐かしむように言った。
年長者が持ち得る記憶の中の自分自身と比較されても、甘い幸福だけを与えてくれるchocolat(ʃɔkɔla)をいつから好んで求めるようになったかなど、生憎と今のフェイスは覚えていない。
「味覚って、そんな頻繁に変わるものでもなくない? ……あんただって、寿司が好きでしょ。ずっと」
「……ああ、そうだな」
変わってしまうもの。
変わっていくもの。
変わろうとするものがあるように、変わらないものも、確かに在って。
ブラッドの口から話せることがないのならば、フェイスから踏み込むことはしない。
それは、『知りたくない』と同義ではないけれど____
「……あんたの、さ。俺を、最初に突き放したときの、声が……それまで聞いたことないような、ううん、一度だって聞いたことがなかった、固くて、冷たい声が、すごく…………すごく、嫌だった。きらいだった」
「…………そうか」
____どうして。なんでなの、ねえ、お兄ちゃん。
拾われることのなかった幼い嘆きの声に、今ならそっと寄り添ってやれる気がした。
「……でも、今は……っていうか、最近は、かな? そんな感じ、もうしないし。とくに今日みたいな……今みたいな声なら。俺は、すきだよ」
「っ……?! そう、か……」
「アハ、なに動揺してるの? へんなの」
「……フェイス」
同室の相棒を揶揄ったときに向けられるような瞳を、今の兄から向けられる日がくるだなんて。そう考えるとやたらと可笑しくて、なんだか面映くて。
少しだけ素直に、そして奔放になった弟が、悪戯心を引き連れてひょこりと顔を出す。
「あんたの事情と都合ってやつで、わけもわからず振り回されてきたんだから、このくらいは大目に見てよ。オニイチャン?」
「……あまり、揶揄うな……大体、お前はそうやってすぐ、」
「あー、はいはいっと。お小言なら、また今度ね」
今はまだ、このなんとも言い難い温度に微睡んで、揺蕩うのも悪くはないかもしれない。
ひらひらと片手を宙で舞わせて、フェイスは めのまえのすきなもの を堪能する穏やかな時間を受け入れることにした。
Fin.