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    コウヤツ

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    コウヤツ

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    燐光の日々よ 魔法使いと晶「コーヒー豆を花の種に変えたんだ。喜ぶと思う? 怒ると思う? なら本当は何が欲しかったんだと思う?」

     夜明けのことだ。陽はまだ登っていなかったが、早起きの小鳥たちは囀り、光が徐々に天際から世界を染めていく最中だった。朝早くからトレーニングに勤しんでいるカインやレノックスが起きてくるよりもまだ早い、珍しい時間に起きてしまった晶は妙に冴えてしまった頭で少し思考したのち、むくりと起き上がる。 いそいそと靴下をはいたあとベッドのすぐ近くに揃えて脱いであった靴へつま先を引っ掛けた。そのまま横着して手を使わず、歩きながら足をぐいぐいと靴の中に納める。日本の一般的な家庭で育った晶は魔法舎に住み始めた当初、こちらの世界の土足文化に強い違和感を感じていたが寝起きで靴を履くという行為にも随分慣れた。慣れてしまえるほどの時間を、晶はこの世界で過ごしている。
     毛糸で編まれた薄手の上着を羽織って晶はそっと自室の戸を開ける。ひやりとした廊下の空気が彼女の頬を撫でて、その冷たさに肩が小さく震えた。
     薄暗い魔法舎の廊下はしんと静まりかえっている。依頼や訓練、余暇で誰かが出払っていても大抵誰かしらは魔法舎にいるため、これだけ舎内が静かなのも珍しかった。本当に珍しい時間に起きてしまったな、と晶は思う。同階の魔法使いたちが起きてしまわないよう晶は慎重にドアを閉めた。静かさが逆に耳に痛くて、そんな耳の痛みを紛らわせるように彼女は階段を足早に降りた。
     中庭に続く木製の開き戸を開けると水の流れる音が彼女の耳朶に触れた。噴水の音だ。晶はふぅと息を吐く。晶は空を見上げて、ほとんど無意識に月の居場所を探した。魔法舎の建物に囲まれた中庭から見上げる空は四角く切り取られている。空が明るくなりつつあるせいで星は見えない。彼女の瞳に映るのに、星の光度は足りなさすぎた。星とは逆に、月はその存在を強く主張するように浮かんでいる。雲も星もない一天で、月は真夜中より光を失い青白い顔をしていたが、その存在感は彼女の瞳にひときわ焼き付くようだった。
     元の世界のそれよりも大きい天体は、この世界では厄災を振り撒く存在であるという。大いなる厄災。この世界の多くの人々が畏怖する存在。
     異界から訪れた賢者には幼い頃から刷り込まれたそういった知識がない。しかしそれによる被害は実際に目で見ていた。オズと双子がいなければ世界は終わっていた、と教えてもらった。喪われたものがどれだけあったか、伝え聞いていた。弔花を手向けにいった優しい人のことを知っている。近付きすぎて魂が砕け散った魔法使いがいる。傷跡に煩わされている魔法使いが少なくないことを知っている。
     けれどそれらと月という天体とを強固に結びつけることはとても難しいことだった。元いた世界でその天体はただ浮かんでいるだけで、悪さなんてしてくるはずもなかった。そういうものだったのだから当たり前だ。しかし、この世界で晶の当たり前は通用しない。
     晶の元いた世界とこの世界は相違点だらけだ。そんな異界で晶は日々前を向いている。
     前を向こうと努めることは特別苦に思わなかった。もちろん大変なことは沢山あったが絆を築きたい、友達になれたら嬉しい隣人のことを大切に思っていたから。けれどそんな晶の気持ちとは裏腹に日々の疲れは晶の体にストレスを与えているようで、寝付きが悪くなかなか眠りにつけない夜が時々あった。早すぎる時間に起きてしまうことはあまりなかったが、彼女が変な時間に起きてしまったのにはそういった事情がある。
     夜に冷やされた空気はただそこにいるだけの晶の体温を奪っていく。寝起きで火照っていた体がゆるやかに夜の気配を纏った空気と馴染む。ふらりと中庭に出た晶は特に何も考えず噴水のところに腰を落ち着かせた。
     しばらくぼんやり空を眺めていた晶の思考を乱したのは「やぁ、こんばんは。賢者様」という涼やかな声だ。よく知った声。存外近くで聞こえたような気がした。けれど姿はどこにも見えない。
    「オーエン?」
     きょろきょろと忙しなく視線を動かす賢者の姿は向こうから丸見えのようだった。どこから見ているのか、くすくす笑う声だけが水の音にかき消されることなく晶に聞こえてくる。
    「ばぁ」
    「ぎゃっ」
     危機に直面した鳥のような声で晶は悲鳴をあげた。本来なら聞こえてくるはずもない背後からの声に背筋がピンと伸びる。反射的に晶が振り返ると白く浮かび上がるような存在感の魔法使いがそこにいた。白っぽい衣服に身を包み色素の薄い髪色をした青年。青年の瞳だけ、二種の色味だけが鮮やかだ。靴先がちょうど濡れないくらいの絶妙な浮遊。そこに地面があるかのように浮かぶ芸当はきっと繊細な魔力のコントロールが必要で、青年の力の強さの一端を垣間見せる。噴水の水の上で佇むように浮揚し、彼は賢者を見下ろした。
    「おはようございます、オーエン」
    「締められるときの鳥みたいな声で今日も元気だね。賢者様」
    「オーエンが驚かしてくるからですよ……」
     乾いた笑いを溢す賢者に、賢者の魔法使いはきれいな微笑みで応える。無邪気に邪気のあることを好む魔法使いだ。今日は一体どんなことを言われるんだろう。興味半分、身構え半分。いつも意地悪なことを言われるわけではないが、見惚れるような笑みを浮かべた彼はたいてい意地悪にすぎる言葉の羅列を晶にもたらした。そういった種類の言を身構えなしで受け取れば大怪我すること間違いなしだ。だから身構えたのに、身構えた分だけ晶は拍子抜けした。
    「コーヒー豆を花の種に変えたんだ。喜ぶと思う?」
     ずいぶん、メルヘンチックな話だと思った。魔法のある世界なのだからメルヘンチックな事象なんてそこかしこに溢れている。けれどそんな御伽噺めいて愛らしいことを目の前の魔法使いが、不気味だのなんだのと恐れられることの多い、目の前の北の魔法使いがしただなんて。コーヒー豆を花の種に。突飛で愉快で、それは、とても——
     胸の底がくすぐられているような感覚に晶は口をムズムズさせた。気付かれてはならない。気付かれたならきっと彼は機嫌を損ねて去ってしまう。それはあまりにも惜しかった。もう少しオーエンと話がしたい。賢者としてではなく、晶として。笑みを溢してしまいそうで口唇を開けない様子の晶に、オーエンは特別疑念を抱かなかったようで構わず音を繫いだ。
    「怒ると思う?」
     一番に見つけるのは誰だろう。キッチンは共用であるけど、主な管理は魔法舎のお料理担当といっても過言ではないネロが担っている。ネロが一番かな。いや、もしかするとヒースクリフが一番かも。彼は魔法を使わずコーヒーを自分でドリップするから、淹れる前に異変に気付くに違いない。きっと二人とも、困惑する。けど多分怒ったりはしないだろうな。これがリケやミチルやルチル、それから西の魔法使いだったら喜ぶのかも。
    「オーエンは怒って欲しいんですか」
    「さぁ」
    「喜んで欲しいんですか」
    「どうだろうね」
     ふわふわと掴みどころのない幻みたいな返しだ。
    「私は何だかうれしいです」
    「おまえの気持ちは聞いてないけど」
     にべもない。
    「どれも求めているものとは違うんですね……?」
    「そうかも。ねぇ賢者様、なら本当は何が欲しかったんだと思う?」
     僕に詳しくなったら、僕に教えて、賢者様。いつか受け取った言葉が奥底から引き出される。理解の及ばないことはこの世界に沢山ある。けれど感覚として捉えきれなくても、今は理解できずとも、知ろうとすることを諦めてはいけない。
    「私にも分かりかねるので、一緒に考えませんか?」
     差し伸べた手は毎回取ってもらえるわけじゃない。こと目の前の魔法使いに関して言えばスルーされることの方が多い。けれどそれも彼の味であると思えるくらいには交流してきた。
    「やだよ」
     瞬きの間にオーエンはその場から姿を消してしまった。否の言葉に晶は傷付かない。あまりの彼らしさに抑え込んでいた笑みをぽろぽろ溢して、次いで晶は悪戯めいた気持ちになる。誰が一番に花の種を見つけるだろう。空はいつの間にか光に溢れていた。

     □

    「賢者様もコーヒーを飲みますか?」という問いへ二つ返事をする前に、晶は一瞬だけ迷った。けれど言葉は問いに対する肯定のものしか出ていかず、あとは変な表情を作ってしまいそうになる顔の筋肉を叱咤してこっそりその繊細な手元を見ることだけ、それだけが晶がその場で出来る全てのことだった。
     正直な話、晶は少し心配していた。マグカップを取りに戸棚へ向かったとき、食材を腕に抱えたネロとすれ違った。そして「おはよう賢者さん、何かいいことでもあった?」と晶の顔を見てネロが言ったものだから、ヒースクリフに何か疑念を抱かせてしまうのではないかと冷や冷やしていたのだ。けれどもそれは全くの杞憂に終わる。晶の表情筋は見事耐え切って見せた。
    「あれっ」
     ひっくり返った声音に、悪戯が成功したような達成感が晶の胸の内に花ひらく。晶は仕掛けた張本人ではないけれども、ドッキリで言えば仕掛け人側であるためそういった達成感が生まれてしまうのも仕方のないことだった。マグカップを両手に持った晶がそわそわと隣でヒースクリフを観察している間に、己の手元をじぃっと凝視する彼の表情は驚きから困惑へと徐々にスライドしていった。
     ヒースクリフはメジャースプーンですくった明らかにコーヒ豆でない物体を矯めつ眇めつ眺めて「えっと、これ……花の種、でしょうか?」と困惑しきりである。晶は表情の緩みが抑えきれず、悪あがきで誤魔化すように「一番はヒースでしたね」と困り顔の少年に声をかけた。
     コーヒー豆以外のものがたっぷり入れられたジャーと晶を見比べて、ヒースは「一番?」と頭の上に疑問符を浮かべる。ああもう堪えきれない、と言わんばかりにくすくす笑いだした晶に、ようやく合点のいったヒースは完璧な碧色を少しだけ恨みがましい色に染めた。
    「知ってたんですね……」
     常ならばコーヒー豆の入っているジャーに、花の種が入っていること。首肯すれば「ムルですか?」と間髪入れずに問いが返る。小首を傾げたヒースの、セットされた金糸のような髪が一房だけはらりと零れて彼の碧い目の近くに落ちた。この、自身が持ち得ない色彩を見るたび晶は綺麗だなとしみじみ思う。精霊が留めておきたいと思うのも無理はない、とそこまで考えて晶は脱線しそうになった思考を元あった位置に軌道修正した。
     ヒースの問いに対して、悪戯好きで猫みたいな西の魔法使いの「にゃーん」と鳴く姿が晶の頭の中に思い浮かぶ。確かに、何も知らなかったら自分も真っ先にムルのことを思い出すだろうな。そう思いながら晶は首を横に振った。えっ、と彼は驚いたような声をあげる。本日二度目の驚き声だった。
    「オーエンです」
     犯人の名前を聞いて、ヒースはちょっぴり神妙かつちょっぴり微妙な表情を作った。しっかりとジャーの蓋を閉めて彼は卓の上にそれを置く。
    「何か、いわくつきの種ですか……?」
    「いや……特に聞いてはいないですね」
     花の種、というフレーズがいかにも可愛らしかったためそういった観点で考えることを晶はうっかり忘れていた。「す、すみません。花の種にあまり危ないイメージが無くて」と慌てたようにおろおろ視線を散らしはじめる晶にヒースは愁眉を開いて控えめに笑った。口元を手で隠すようにしてヒースクリフは上品に笑う。晶よりいくらか歳下の少年であるが、出自が出自であるせいか歳上の晶よりも幾分洗練された振る舞いをする。
    「魔力とか嫌な気配は無いので、もし何かいわくがあるとしても今すぐ何か起こるわけではないと思います」
    「あ、それならよかった。……もう、笑いすぎですよ、ヒース」
     上品な笑みがほどけていって、ほどけた先で顔を出したのは子どもらしい年相応の笑みだ。立場とか、歳とか、魔法使いとか、人間とか、異世界のひとだとか。そんなもの、全部関係なしに心が通うような感覚。晶もつられて笑ってしまった。晶がこの世界に初めて来て、一番初めに飲んだものはヒースクリフに淹れてもらったコーヒーだ。魔法やシュガーの話をして、彼は歩み寄るように笑みを浮かべていた。とてもぎこちない笑みだった。それが今ではこんなにも自然な笑みを見せてくれている。
    「あはは、すみません。賢者様がすごく慌てだすから」
     ひとしきり二人で笑いあって、ふと、ぱちっと目が合う。笑いすぎたのが恥ずかしかったのだろうか。晶と目が合ったヒースはじわりと目元を淡く染めて晶から目を逸らした。
    「賢者様も」
    「はい」
     もじもじと何かを言いづらそうにしている。やがて意を決したように控えめに上げられた視線は、やわらかく晶を捉えた。
    「子どもみたいなことをするんですね」
     意外な言葉を聞いて晶は思わずぽかんとしてしまった。年長の、それこそ数百年も生きているような人たちのいるこの魔法舎で、晶は確かに若い部類に入るだろう。けれど晶はヒースより歳上で、かつ賢者という立場の上に立っている。自分が立場的に賢者の魔法使いたちより上である、という気持ちは晶の中に全く無いが、ヒースは晶にいつだって礼儀正しかった。そんな折り目正しさと少し離れた発言であるように思えたのだ。先の発言は。
     思慮深い彼は晶の沈黙を悪い方向にとってしまったのか、慌てて「すみません、馬鹿にしているわけではなくて……!」と弁明に入る。なんとか安心させたくて「馬鹿にされた、なんて思いませんよ」と晶は微笑んで返した。こまやかな心遣いのできる人にそんなことは思わない。賢者の穏やかな眼差しに彼はホッと胸を撫で下ろす。
    「さっき花の種について黙っていたの、そんなに子どもっぽかったですかね?」
    「それは……はい。賢者様はどちらかというと先生たちみたいに、大人と同じように俺とかシノに接してくれるので、意外でした」
    「改めてそう言われると何だか恥ずかしいな……」
     照れ隠しに晶は苦笑する。ヒースはそんな晶の表情を認め、口角を少しだけ上げた。
    「俺は、良いなと思いました」
     おずおずと窺うように。それから、はにかむように。何だかとても照れ臭くて、こそばゆくて、でも全く嫌な気持ちではない。
    「ありがとうございます」
     晶が礼を言えばヒースはゆるりと頬を弛ませた。彼の白さ際立つ肌はすぐ淡い紅色に染まる。うつくしく笑う男の子だった。
    「今日は紅茶を淹れましょう。それと賢者様、朝食を食べ終わったら、ファウスト先生にこれが何の花の種か聞きに行きませんか?」
     始まったばかりの一日だ。今日のスケジュールはまるきり白紙で、だから素敵な誘いに晶はすぐ乗っかった。
    「ぜひ!」
     ジャーの中で眠る種たちが一体どんな花を咲かせるのか。もし可能なら、魔法舎のどこかに植えてみたい。伝えればヒースは「それは良いですね」と応えた。
     会話がひと段落したところで晶は自分のお腹がとても減っていることに気がついた。空腹に気づいてしまうと、芋づる式に朝食の良い匂いが漂ってきていることにも気づいてしまう。
     晶がネロのいる方向に目を向けると二人の視線はばっちり絡んだ。どうやらとっくに朝食を作り終えているようだった。話し込んでしまったなと少し反省。
     ネロは晶とヒースクリフの会話が途切れるタイミングを見計らっていたようだ。少しバツの悪そうな表情を浮かべている。今日はカナリアが遅く出勤してくる日だった。晶はヒースと顔を見合わせて、どちらともなくネロの近くに寄っていった。寄ってくる二人に対してネロは口元に笑みを浮かべ、白旗をあげるみたいに眉尻を下げてみせた。
    「配膳の手伝いを頼みたいのと、外にいる連中に朝食が出来たって知らせたいんだけど」
    「私、知らせに行きますよ」
    「じゃあ俺は配膳を手伝おうかな」
     ネロはじぃっと二人のことを見ていたかと思うと息を吐くようにして笑って「よろしくな、二人とも。デザートにおまけつけてやるよ。コーヒー豆は新しいの出しとくから」と悪戯っぽく目を細めた。
     素敵な一日になりそうな予感が、じわじわ晶の胸を満たしていく。キッチンから出ていく彼女の足取りはとても軽やかだった。

     □

     花壇の土を掘り返していると小学生の頃を思い出すなぁ。小ぶりのシャベルでさくさくと土を弄りながら晶はぼんやり思う。
     朝食後、食堂から退室しようとしていたファウストを捕まえて晶とヒース(と、朝食後に合流したシノ)はジャーの中に入れられた花の種がなんの花の種であるか教えを乞うた。結果わかったのはそれがフォスフォレッスセンスという、百合に似た花を咲かせる花の種であるということと、その種自体が毒を含むものであるということだった。
     毒と聞いて晶とヒースは揃って「え」と声をあげてしまったが、教えた本人はそんな二人を嗜めるように「別に、植物が毒を持つことは不思議なことじゃない」とジャーの蓋を締めながら言った。ジャーはファウストの手から晶の手へと渡された。
    「植物が自身の身を守るための毒だよ。炒って食べようと思わなければなんの害もない」
    「そうそう。それに少量なら鎮痛剤として使われたりもするよ」
     ファウストの背後からひょっこり顔を覗かせたのはいつの間にか話を聞いていたらしいフィガロだ。フィガロの側からは見えないがファウストは闖入者へ対して少しだけ眉根を寄せた。晶は反対に眉を下げて笑う。
     フィガロは後ろの方にいたルチルとミチルを見やって「ついこの間教えたけど、二人は覚えている?」と小首を傾げた。ルチルは微笑んで「はい」と返事をしてミチルは元気よく「もちろんです! 夜間にだけ咲いて、月と星の光を集めて光る花ですよね」と答えた。月と星の光を集めて光る花。なんともロマンチックな話だ。
    「光るんですか? すごい」
    「ぼんやり、青白くね。でもこれどうしたの? ここらで咲く花じゃないから、そこらへんじゃ売ってないでしょ」
    「オーエンがいたずらで、コーヒー豆とすり替えたんです」
    「ああ、なるほどね」
     ほんの少しの躊躇い。ヒースの隣にいたシノが「賢者?」と怪訝そうに声を掛ける。迷いの気持ちが消えないまま晶は言葉を外へ出した。
    「……あの、この花って魔法舎でも育てられますかね?」
     ファウストとフィガロは揃って発言者である賢者を見た。あ、今の発言、軽率じゃなかったかな。晶は頭の片隅でひっそり思った。白く不透明なホーローのジャーを握る手に力が入る。
    「賢者」
     二人の視線に耐えきれずジャーの蓋を見つめていた晶の視線が呼びかけにぱっと持ち上げられる。褐色に色づいたガラスの向こう、透度を柔らかく丁寧に重ねたような瞳が晶を見ていた。ぱちりと目が合う。眼鏡越しのその眼差しは、春の陽光のようなおだやかな温度をしている。無駄に力の入っていた晶の手から余分な力がするするとほどけていった。
    「気候的には問題ない。この土地でも育てられるよ。あいにく、僕ら東の魔法使いたちは午後から遠くに訓練へ行く予定だから今日植える手伝いはできないけど」
     南の先生役としてのフィガロにファウストは水を向けた。丁寧にそれをすくって南の優しいお医者さんことフィガロはぱちりとウィンクをしてみせた。
    「今日の座学は薬草についてやろうと思ってたんだ。教材にもちょうどいいし、一緒に植えようか」

     賢者様、こちらをどうぞと羊飼いの彼から渡されたつば広の麦わら帽子は晶の髪が焼けるのを防いでくれていた。けれどずっと日の下で作業をしていると熱が体内にこもって仕方ない。じわりとした暑さが首を焼いているような気がした。
     十数年前のことであるから詳細なことは覚えていなかったが、小学校低学年の晶は学校の花壇に何かの種を植えた。校庭の隅にある、そこそこ大きな花壇だった。多分、理科の授業の一環だったに違いない。化学だとか、物理だとか、生物だとか。そういう専門的な教科になる前の科学の授業。星座の名前はオリオン座しかきちんと覚えていないし、個人で育てた夏野菜の種類は覚えていてもクラスみんなで植えた花がなんだったのかは覚えていなかった。確か、実った種が弾け飛ぶ花だったような。この世界にもあるのかな。
     ほぐされた柔らかな土が自身の手により畝になっていく。濃い赤褐色の、湿った土のにおいが嗅神経を刺激する。単子葉か、双子葉か。網状脈か平行脈か。昔習った単語が晶の頭の中でふわふわと漂っていた。
    「賢者様」
     声変わりの終わっていない少年特有の、少し高めの声が晶を呼んだ。ゆるゆると晶が視線を上げると、いとけない眼差しに捉えられる。声の主であるミチルはその手に水筒を持って、畝と畝の間でしゃがんでいる晶へと視線を合わせるようにその場へしゃがみ込んだ。
    「霍乱病になるといけないからきちんと水分をとるように、ってフィガロ先生が」
     カクラン病? と疑問が顔に出ていたらしい。ミチルは「えっと、太陽の光をずっと長い間浴びているとなる病気で……吐いちゃったり、頭が痛くなっちゃう病気のことです」と説明を付け加えた。あ、熱中症のことかなと心当たりを見つけた晶は水筒を受け取りながら「ありがとうございます。こちらではそう呼ぶんですね」と麦わら帽子の影の下から笑いかけた。
    「熟した群青レモンの果汁と、魔法使いのシュガーと、ほんの少し嵐塩が入ってるんですよ」
     味の予想がつかなかったが、飲んでみると元いた世界で飲んでいたスポーツドリンクに似た味をしていた。とても冷えていて、甘くてほんのり酸っぱい。
    「すごくおいしいです」
     晶の感想を聞いたミチルはぱぁっと明るい笑顔で「よかったです! 実はその飲み物、フィガロ先生に教えてもらいながらボクが作ったんですけど……お口に合うか分からなかったので」と言ったあと魔法舎の建物が作る日陰でこちらを見守っているフィガロへ「先生! 賢者様、美味しいって言ってくれました!」と大きく手を振った。視線を向けた先のフィガロはミチルと晶に向けてひらひら手を振り微笑む。
    「ミチル、賢者様! プレートが出来ました!」
     舎内の訓練場でプレートを作っていたルチルとレノックスが共に花壇に向かって歩いてくる。五枚の、木製のプレートはレノックスが抱えていた。
     花壇の畝は全部で五列あった。それぞれ一人一つの畝を担当して、仕上げに自分の名前を綴ったプレートを立てる手筈になっている。ミチルはすっくと立ち上がって四角の花壇から走って出て行った。腰の重い先生の元へと駆けていくミチルの背を、レノックスが歩いて追いかける。舎内で一番年少のミチルは少し甘えたがりなところがあった。彼はぐいぐいとフィガロの腕を引っ張り、レノックスは何がしかをフィガロに告げ、フィガロはそんな二人へ苦笑を漏らしている。何だかとても微笑ましくて晶は笑ってしまった。
    「畝、とても綺麗に出来ましたね」
     花壇のなかにいる晶の方に来たのはミチルの兄であるルチルだった。ミチルがいたところに今度はルチルがしゃがみ込む。
    「懐かしい気持ちになりました」
    「まあ、賢者様、花壇で花を育てたことがおありなんですか?」
    「ミチルより小さなころに、学校で」
     ルチルの耳飾りのタッセルがゆら、と揺れる。
    「小さな賢者様は、とても可愛らしかったでしょうね。あ、今も可愛いですよ!」
     ストレートな褒め言葉を言われ慣れていない晶は、時々どう返事をしたらいいのか分からなくなる。テンポ良く進んでいた会話がほんの少し調子崩れになってしまった。ルチルは晶が被る帽子のつばの下を覗き込む。
    「あ、賢者様照れてる。やっぱりかわいい」
    「……からかってますね?」
     問いに答えず彼は「ふふ」と笑った。誤魔化す心算のようだった。晶は帽子のつばを少し持ち上げて、こもっていた頭の熱を外へ逃す。話題の転換が必要だった。
    「プレートには名前を彫るんですよね」
    「はい。名前を彫って腐食しないよう魔法をかけるんです」
    「名前かぁ。こちらの文字は難しいですよね。前にルチルに教えてもらいましたし、書類にサインすることもあるので、そろそろ、自分の名前くらいは認識できるようになってきましたけど……」
     漢字を読めてもいざ書けと言われたら書けないことがある。それと同じで、なんとなく読めても書くのには不安があった。正直に言えば、お手本が無ければ書くのは少し危うい。晶の不安を察したのかルチルは生徒に向けるような表情で晶を見る。
    「わからないところは教えます。ぜひ聞いてください」
    「ありがとうございます」
     ルチルの、揺れる耳飾りに目がいく。畝を観察するように下げた頭と動きを同じくして、耳にかけられた彼の線の細い髪が重力に負けてさらりと落ちた。麦穂の色の向こうに静かな横顔がある。大魔女の子ども。いつだって楽しくお喋りをする彼の様子と少しだけ違った。帽子の影の下で様子をうかがう。そして新緑は晶を見た。
    「あの、こちらの文字は教えられますけど、それとは別に賢者様の世界の言葉で賢者様のお名前を彫っていただけませんか?」

     □

     月影降り注ぐ夜のこと。月の光に淡く照らされたプレートに彫られているのは、ルチルのカリグラフィーを目で見て真似てこちらの文字の形で表された自身の名前と、その下、異界の文字に読み仮名を振るみたいにして表された彼女にとって馴染み深い漢字一文字だった。
     花の世話には、南の魔法使いはもちろんのこと、花が咲くのを楽しみにしているリケやクロエ、洗濯の合間に気がついたカナリア、そして言い出しっぺである賢者が参加した。
     《発芽後に出た葉は単子葉、平行脈でつるりとしたような感じ。》
     日々賢者の書を書くのと並行して晶はここしばらく観察日記をつけている。小学校で植物の観察をするのに絵付きの観察日記をつけていた、という話を晶がルチルにしたところ「それって楽しそうですね! 私たちもやりましょうよ」と誘われたのがキッカケで、フローレス兄弟とともに晶は観察日記をつけることになったのだ。
     《発芽して◯日目。茎も葉も萎れることなく青々としている。蕾はまだ小さい。》
     晶は一つ一つ丁寧にノートへ記していった。観察経過を記すためのノートは、晶の世界でいうところの大学ノートのような装丁のあっさりしたもので観察用にとルチルから譲って貰ったものだった。
     花は、どうやら通常よりも早く成長しているらしかった。〈大いなる厄災〉が今年は各地で異変をもたらしているため、それが原因なのではないかとファウストが予測を立てていたが本当のところは花に聞いてみないと分からない。早送りで日々育っていく花の観察は魔法が存在する世界の作法に正しく則っているようで、晶は観察の時間が来るたびプレゼントを開ける前の子どものような気持ちを抱いた。
     《発芽して×日目。蕾がとても膨らんできた。そろそろ開花しそうでみんなも私もわくわくしている。》
     そして満月が煌々と光る夜、ついに花が咲いた。夕食終わり、とっぷり日が沈んで数刻。南の魔法使いと、リケ、クロエとラスティカ、ヒースクリフとシノ、そして生徒二人に連れられたファウストがそこに集まった。
     四角く煉瓦で縁取られた花壇のなか、列になった花々は淡く青白くその花弁を光らせて厄災へと頭をもたげている。聞いていた話通りその花は百合と言えばこんな感じ、を具現化したような白い花で草木に詳しくない晶には百合とその花の見分けはさっぱりつかないように感じられた。
     開花の喜びを音符にして音楽家が軽やかな音を奏でる。その場にいた魔法使いたちは聞き入ったり、隣人の手を取って共にステップを踏んだり。そうしていると楽しそうな音色に誘われて出てきた魔法使いが加わって、いつの間にかちょっとしたパーティーみたいになっていた。
    「賢者様! 踊ろうよ!」
     月下で魔法使いがくるくる踊る。すみれ色の瞳の魔法使いが笑顔で晶に手を差し出す。花が咲いただけ。言ってしまえばたったそれだけだ。それは確かに喜ばしいことだったが、晶一人では踊り出してしまうくらいに喜べたか分からない。けれど目の前の魔法使いは開花の祝いをとても素直に喜んでいる。
     ダンスの誘いの受け方なんて身につけてこなかった。だから初めのうちは誘われる度にまごついて、おそるおそる手を取っていた。
    「よろこんで!」
     それが今はすんなりと手を差し向けることが出来るようになっている。
     まるで、心の在り方を、改めてこの世界の人たちに教えられたような。
     晶は踊りが上手いわけじゃない。むしろ下手な方だ。けれどそんなことは全く関係ないのだと言わんばかりに魔法使いは音を鳴らすし体を揺らすし踊りに誘ってくる。不恰好でも何でも、ただ心のままに。そういった魔法使いたちの在り方がどれだけ晶の心を支えたか。晶本人にも分からなかった。
     色んな魔法使い達とかわるがわる踊り踊って、流石に疲れた晶はいつのまにか用意されていたノンアルコールカクテルで喉を潤す。星天をそのまま写しとったかのようなカクテルだった。
     光る花の咲く中庭で、色んな魔法使い達が共に踊っている。その中で人間は晶ただ一人だ。それが少し奇妙で不思議で、晶は心浮き立つような気持ちになった。花々は柔らかく吹く風に合わせさやさやとその体を揺らしている。花も踊っているみたいだった。
    「賢者様」
     晶に声をかけてきたのは頬を上気させたリケだ。手に何かが入った包みを持っている。
    「ネロがクッキーを焼いてくれたんです。あっちのテーブルにはしょっぱいものもあるみたいです」
     リケが指さす先には、平時に中庭にないはずのテーブルが出ていた。飲み物とちょっとしたつまみが並んでいるようだ。酒類は西の、バーを営んでいる魔法使いが。食事類はきっと料理人である東の魔法使いが用意したのだろう。
    「おひとついかがですか?」
    「じゃあ貰いますね」
    「賢者様はここで何をしてたんですか?」
    「たくさん踊って疲れたので、休憩していました」
     リケから渡された一口サイズのクッキーには星屑のようなざらめがまぶしてある。晶はひとくち、クッキーを齧った。バターの香ばしい匂い、大粒の砂糖のざらりとした舌触り。晶にクッキーを手渡した少年はその真っ直ぐな眼差しを花壇へ向ける。透明な眼差し。神の使徒、という言葉は晶にあまり馴染みのないものだった。けれどリケのこういうところを見るたび、晶は馴染みのない単語に少しずつ輪郭が与えられるような気持ちになる。
    「一日しか咲かず、一日しか光らないのだと聞きました」
     その声はすこし寂しげだった。
    「毎日、様子を見るのが楽しかったのに」
     花の命は短いからこそ美しいのだ、という話を晶は思い出す。一瞬だから美しい。確かにそういった見方もあるのかもしれなかったが、少年へその言葉を渡すことは躊躇われた。
     パーティーの終わりはいつも少し寂しい。良識ある魔法使いたちが子どもはもう寝る時間だとアナウンスしている。終わりが近いのに、うまい言葉が出てこない。結局晶の口から出てきたのは「このクッキー、とても美味しいですね」という無難な言葉それだけだった。はぐらかした、と思われても仕方なかった。けれどリケは隣の晶を見て嬉しそうに笑う。
    「ネロが作る料理は毎日美味しいです」

     真夜中でも時々賑やかなのが魔法舎だった。しかしその夜は天井が落っこちるくらいの爆発も、どこかの誰かが建物内を騒ぎ立てながら駆け回ることもなく静かだった。
     一目、寝る前に花が光る様を目に焼き付けようと晶はそっと部屋から抜け出した。ランタンを片手に持って抜き足差し足で廊下を進み、階段を下る。外へ繋がる扉を開けば月明かりに照らされた中庭と光る花々が彼女の目に映る。
     中庭は静寂で満ちていた。数時間前の賑やかさが嘘のようだった。ランタンを噴水の縁に置いて、晶は花壇へ近付く。自分の名前のプレートが挿してある場所のあたりで腰を落とし、花の匂いを嗅いだ。百合の花のそれよりも、柔らかくひんやりとした心地の香り。
    「賢者様!」
     花の香りを嗅いでいると頭上から声が降ってきた。夜ということもあり、常より抑えられた調子の呼び方はそれでもなんだか溌剌としていた。
     月を背に魔法使いが箒に乗ってこちらへ向かってくる。彼の白銀の髪は淡い光を浴び、星辰のごとくきらめいていた。そこそこの速度で降りてきたかと思うと着地は優雅に、マントをふわりと靡かせ彼は晶へおっとりとした笑顔を見せた。
    「こんばんは、賢者様。夜更かしですか?」
     頷いたのち立ち上がろうとした晶に手のひらを見せることでアーサーは待ったをかける。そして彼はごく自然な動作で彼は晶の隣にしゃがみ込んだ。気品がありつつも、どこか気安さの感じられる彼の雰囲気には彼にしか出せないであろう居心地の良さがあった。花壇の中ですっと背筋を伸ばすように咲いている花へと視線を向けて、アーサーは口元を綻ばせる。まるく美しく桜貝のように整えられた爪の乗る指先が花弁にそっと触れた。
    「きれいな花ですね」
    「はい。とても綺麗ですよね。……アーサーは今帰ってきたんですよね? お疲れ様です」
    「ありがとうございます。花が光るうちに、どうにか帰ってこられてよかったです」
     花が一日しか光らないことを知っているらしい。アーサーは花に触れた手で今度は土に刺さっているプレートへと指を向けた。晶の名前が彫られているものだ。人差し指で一文字ずつ文字を触り「あ、き、ら」と彼は発音した。そうしてその下部に彫られた、晶という文字に触れる。
    「賢者様の世界の言葉ですね」
    「はい」
    「これは一つの文字ですか?」
    「そうです。これ一つであきら、と読みます」
    「なるほど」
     窓が三つあるみたいです、とアーサーがわらう。確かに、そう言われてみればそう見えるかもしれない。
    「ではこの列の花は晶様のお花なのですね」
    「他の皆さんにもお水を貰ったりしていましたけど……そうですね」
    「ここにある花達は皆、生き生きしているように見えます」
    「言われてみれば、そう見えるかもしれません。無事に咲いて良かったです。けど、一日しか光らないっていうのは少し寂しいかもしれませんね」
     賢者の言葉を受けてアーサーはそっと隣の彼女に視線を向けた。賢者の横顔は彼女のその長い髪によって隠されている。思わず、指先が伸びた。
    「あ」
     晶が気の抜けた声を出す。視線が絡んでするりと解けた。
    「すみません、どうしてもお顔が見たくて」
     困ったように笑う王子様に思わず晶は照れ笑いを零した。髪を耳にかけてもらう動作を他人にしてもらうのは初めてだった。
    「この花は一日しか光りません」
     広大な空のようであり雄大な海のようでもあった。そんな瞳を輝かせて魔法使いは言う。近距離で見るには少しだけ眩しさが強いような、そんな印象を抱いた。
    「けれど、花実の間隔が短く沢山の種を残します」
     なので繋いだ命がまた輝くのです。
     心底愛おしそうに彼は言う。そんな言葉に寂しい何かが掬われるような、行きどころのない寂寥が救われたような。
     賢者の魔法使いで、なおかつ人間の国の王子様は、そのどちらの立場でもない表情で「晶様が育てたこの花に晶様の名前をつけてしまいましょうか。図鑑に賢者様の名前を載せるんです」と悪戯っぽく笑ってみせる。随分スケールの大きい冗談だが、やろうと思えば彼には出来てしまうだろう。つられて笑いながら晶は答えた。
    「職権濫用はだめですよ」
    「これは悪いことにあたりますか?」
    「あはは。そうですね、多分悪いことだと思います」
     いつか見た表情でアーサーは晶に言葉を返す。
    「悪いことだってしますよ。魔法使いですから!」
     一人の少年が楽しそうにしている。忘れてしまう日々なのかもしれない。忘れられてしまう日々なのかもしれない。けれどこの瞬間、確かに在ったやり取りを覚えていたいと思ったことは紛れもない事実で。空想の上にしかないような花が在るのも事実で。子どもみたいに胸の高鳴りを覚えたのだって、この上なく事実だった。
    「今度種を植えるときには私も呼んで欲しいです」
    「分かりました。次はアーサーにも手伝ってもらいますね」
     約束にも満たない言葉を交わす。物語は賢者の書に積み重ねられていく。ただ一人、賢者の役目を負った晶が、賢者の任を解かれるまでその手で積み重ねていく。次に繋がるかは分からない。けど、綴らずにはいられなかった。
    「賢者様? 何かありましたか?」
    「いえ。綺麗なものが見れましたし、明日も頑張らないとなって思ったんです」
     そして晶は花笑みを溢す。彼女の魔法使いはそんな賢者の笑みに一瞬目を見開いて、次いでまばゆいものを見るように目を細めた。
    「晶様」
    「はい、何でしょう」
    「一日の終わりに、晶様とこうして花を見ることができて良かったです」
    「それは」
     密やかなやり取りが一つ。あまりにも照れくさいから、このやりとりは書かないで胸に秘めておこうかな。なんて考えながら、彼女は「私もです」と答えたのだった。
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    コウヤツ

    DONE
    りんごひとかけぶんの理性 ネロ晶♀ マグカップを両手で包んで晶は息をふうと吹き掛ける。弾みで耳に掛けられた髪が、丁寧に織られたカーテンのように彼女の横顔を覆い隠した。隣で見ていて、あ、とネロは思ったが彼の指先がその髪に触れることはなかった。
     触れたらいけないような。空夜に触れあいを咎める者はいないけれども、そんな意識が働いてネロの指はこれっぽっちも動かなかった。
    「ネロは私のことを子どもみたいに思っているんじゃないかって、たまに感じるんです」
     拗ねたような響きにどう反応するべきかネロの胸に迷いが生じる。全く思っていないと言えばそれは嘘になる。けれど本当に思っていることを伝える気はさらさらなかった。
    「賢者さん」
     正面、シンクの方を向いていた視線が隣のネロに向かう。乾燥させたりんごは、彼女の、引き結ばれた唇のあわいへ寄せられた。りんご一つ隔てれば触れることは容易かった。それは逆を言えば直接触れられないことの証左であったが。ぱちりと目があったかと思えばりんごのスライスはあっという間に半分が齧られる。手ずからりんごを食べる、その姿はどこか小動物めいていた。もっと躊躇ってくれたらやりやすかったんだけど。かといって拒まれたら拒まれたで傷の生まれることは必定だ。難儀なこと。りんごを味わっている間は目が口ほどにものを言った。
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