花の慈雨よあなたに降り注げ ファウ晶♀ エルダーの花が小雨のように降りしきる。地面を見れば白色の花の絨毯が一本の道を作り、その道の上を青い影と黄金の木漏れ日が彩っていた。
葉の影に縁取られた木漏れ日の光はどこからか吹いてくる風に合わせて形を変え、その様相はまるで万華鏡のようだった。深い森であったが不思議と暗い印象は無い。髪、肩、ときどき鼻先。花の雨は晶の体に優しく降った。夢のような光景に一瞬惚けて、次いで心を動かされたが、晶は自身が置かれている状況を思い返し気合を入れるためにも自身の両頬をぺちんと叩いた。
ある日、晶は偶然魔法舎のキッチンでファウストと居合わせ、流れで一緒にお茶をすることになった。そこで話題として出たのが東の魔法使い達みんなでファウストの隠れ家へ行った、という話だった。
嵐の谷のファウストの隠れ家に東の魔法使いたちが度々出かけていることについてそれとなく知っていた。友達の家に遊びに行くみたいな感じかな、と思えば微笑ましかったし東の魔法使いである彼らがそういったふうに交流を深めていけるのはとても良いことだと思っていた。
「遊びに行ったんですか?」
弛む口元をティーカップで隠しながら晶が聞けばファウストはちょっとだけ顔をしかめて彼女に視線を寄越した。
「違うよ。課外授業をしに行ったんだ。……まぁ、そのあとハーブを摘んだり、お茶もしたけど」
バツが悪そうに事実を述べ、魔法使いは紅茶で口を湿らせる。そんな彼に晶は笑みを抑えられなかった。
「顔がものすごくにやけてるぞ」
「ふふ、すみません」
ファウストは音もなくソーサーにカップを置く。洗練された所作だった。
「エルダーの花がそろそろ時期だけど、今度行くときはきみも来る?」
「良いんですか?」
「家主が誘ってるんだ。良いに決まってる」
二つ返事で晶が答えればファウストは眉を下げて笑ってみせた。穏やかな午後の、やわらかく降り注ぐ日差しのような表情だった。
「良い返事をしてもらってなんだけど、大したもてなしは出来ないから期待はしないように」
そして後日、晶は東の魔法使い達と共に嵐の谷へと足を踏み入れた。嵐の谷は精霊が数多く息づく場だ。そんな場の精霊にはどうやら晶もファウストの知り合いと思われているらしかった。魔力のない晶にはよく分からなかったが、精霊の気配を感じられる魔法使いの彼らが言うのだからそうなのだろう。警戒心のそこそこ強い猫が、顔を合わせるうちに警戒を少しずつ解いていくような……触らせてはくれないけど存在は認められているような……そんな感じなのかな、と晶は独自に解釈しているがそれが正解かどうかは分からなかった。
ファウストとネロは畑の世話を、シノは森の中を散策すると言ってその場を去り、残った晶とヒースクリフは共にファウストから渡された木編みの籠の中にエルダーの花を集めていた。
初めは雑談を交えながら花を集めていたが、少し経つと二人の間に会話はなくなりそれぞれ揃って黙々と作業をこなした。ヒースクリフは元々作業に熱中するタイプであったため晶は彼の邪魔にならないよう、しかし熱中しすぎて休憩時間を設けない彼の様子をときどき見ながらその場から離れないようにしていた。離れないよう、気を配っていた。
草木の呼吸を風が運んでくる。晶はマイナスイオンについて名前しか知らなかったが、ここはそこらじゅうにマイナスイオンがありそうだなと俗っぽいことを考えていた。
俯けていた顔を上げて深呼吸。さてまた花を拾おうかなと頭を下げかけ、ささやかな違和感に動きを止める。頭を再度持ち上げ周りをじっくり観察して、晶は小首を傾げた。花のたくさん入った籠を抱え直し、ぽつんと呟く。
「ここ、どこだ……?」
晶は一言呟いた。ヒースクリフが消えた。晶は一瞬そう思ったが、周りをきちんと見渡してみて考えを改めた。明らかに、さっき自分がいたところと景色が違う。
数歩歩いた先に道があった。道というものは踏みならさないと出来ないものであるが、さっきまで自分のいたところにこれ程踏みならされた道は存在していなかったはずだった。彷彿として浮かんだのは桜並木の歩道である。エルダーの木が道の左右に植わっていた。
今が盛りらしいエルダーの花は満開で、風が花々を撫でるたび不自然なくらい整えられた道が白く染まっていく。一瞬で空間転移でもしたような。しかしここにはオズもミスラもいない。晶は狐につままれたような気持ちになった。連絡をとろうにも、ここは電話もスマホもない異世界である。まさかこんな形で迷子になるなんて。
「迷子になったときは動かない方がいいんだよね」
当然、答えてくれる人は誰もいない。どうにか不安な気持ちが顔を出さないよう努力はしたが、気はあまり紛れなかった。
「みんな、心配してるかな」
一緒にいたヒースクリフは特に責任を感じてしまうだろう。早く合流したいな。そんなことを考えているときだった。籠の中身を全て攫って行ってしまいそうなくらい強い風が晶を揉みくちゃにした。目にゴミが入らないよう瞼をぎゅっと閉じ籠を守るように抱えて数秒。晶は嵐が到来したのかと思った。
やがて風は止み、晶が目を開けると馴染みのない白色が視界の端でちらついた。さっきまでは無かったはずの動く何か。晶はほとんど反射的に視界の真ん中へその白色を映した。
「あ、」
白い、何かの装束を纏った人だった。晶に背を向けひたひたと花の絨毯の上を歩いている。その人が身に纏う真っ白の衣服はところどころが破けていたり、汚れていたりした。
森の中でその装いは明らかに浮いていたし距離もそこそこあったため晶は声を掛けようか掛けまいか大いに迷ったが、結局背に腹はかえられず彼女は思い切ってその人に声を掛けた。
「すみません!」
幽鬼のごとく歩いていたその人はぴたりと止まる。振り返ったその人の顔は晶がよく知る人の形をしていた。
表情には何の感情も浮かんでいなかった。一度だって見たことのない表情だったが、ファウストだ、と晶は思った。
彼を認識した瞬間、強い違和感が彼女の中に生まれた。ファウストの形をした、ファウストじゃない何かであることはすぐに分かった。ただならぬ様子だったし、何より、再度吹いた嵐のような風に攫われてたちまち偽物のファウストは消えてしまったからだ。晶が今しがた起こった出来事に呆けていると足元でにゃあという鳴き声がした。猫の、何の変哲もない鳴き声だった。
「いつのまに……」
四足歩行の小さな獣は晶の足元から前へ、花の絨毯の上をとことこ歩いていく。数歩先を歩いて晶を窺いながらにゃあと鳴く動作を数回。着いてこい、と言っているらしかった。
悪意は全く感じなかった。理性と好奇心が喧嘩して、短い葛藤のすえ晶は白色の絨毯の上に一歩踏み出した。
猫の形の何かに案内をされて、辿り着いた先にあったのは一際大きなエルダーの木だ。神社にあったなら御神木として大切にされていそうな、荘厳な気配のある大きな木だった。木の根のところはちょうど虚になっている。人が一人入れそうな隙間の中に、晶を案内していた猫がその身をするりと滑り込ませた。
そして、またたきの間に猫は姿を変える。ファウストの形を丁寧に模倣し虚に腰掛け、それは晶をじっと見つめた。
いつかあったことの再現。過去の出来事として語られたそれが晶の目の前で再現されているのだろう。彼女はそう思った。
傷ついた肉体、傷ついた精神。この谷にきたばかりの頃、木の洞で雨を凌いでいたと言っていた。彼の苦しみを癒やしたのは果たしてこの場所だったのだろうか。再現はただの再現で、過去に干渉することは許されない。
ふと、その人が手招きをした。晶は場を踏み荒らさないようそっと近付いてその人の様子をうかがった。言葉無く、籠を指差して鮮やかな紫色が彼女を見る。指示通り籠を静かに差し出せばその人は両手のひら沢山のエルダーフラワーを籠の中に落とした。
「わぁ」
抑えきれない喜色の呟きに、音もなく目の前の人が笑う。悪意も害意もそこには無い。そしてなんとなく、ほんとうに何となく晶は理解できたような気がした。谷から外へと出て行く愛しい友人を気にかけるような、そんな気配がある。精霊達はファウストを好いている。意思疎通の術は無かったが、共通点は二者間の心の距離をほんの少しだけ近付ける。
「しばらくの間ファウストをお借りしますね」
光溢れるその場所で花の雨はずっと降っていた。
「晶!」
焦ったような呼び方に彼女の意識は急浮上した。ゆるゆるとまぶたを開ければファウストの紫の瞳が心配そうに晶を覗き込んでいる。安心させるように晶が笑いかければ、いくらか気勢を削がれたらしい。ファウストは溜息を吐いて「どこか違和感のあるところは?」と彼女に問うた。
「いえ、特には」
木の虚に、腰掛けるようにして晶は眠っていたらしい。陽は随分と傾いていて、まわりは薄暗くなっていた。小雨のように降る花々も花の道もあの人の姿も泡沫のように消え去り、どれもこれももしかしたら夢だったんじゃないか、と晶は思った。
「いきなりきみが消えたから、みんな心配してる」
「すみません」
「いや……きみのせいではないよ。精霊があんな連れ去り方をするとは思っていなかったから。きみには精霊が悪さをしないようまじないを掛けておくべきだった」
「えっと、多分悪さはされてませんよ」
彼女の言葉を受けてファウストはじっと晶を見つめた。虚に腰掛けている晶と視線を合わせるため、ファウストは膝をついていた。だから自然と二人の距離は近くなる。
正しきを行くひとに無言で見つめられると、どうにも落ち着かなくなった。やがて彼はおもむろに腕を持ち上げ、そうっと彼女の髪に手を伸ばす。色のついたガラスの向こう、揶揄うような眼差しがそこにある。
「そうだな。むしろ、歓待されていたみたいだ」
髪を漉いて撫ぜるような手つきでファウストは彼女の髪に絡まったエルダーの花を取ってみせた。降る花々が夢でなかったことを、そのとき晶は知った。
「わ、ありがとうございます。まだ付いてますか?」
「鏡で見せてあげようか」
「お願いします。うわ、ちょっと恥ずかしいくらい大量に絡んでる……」
「そう? 愛らしいし、ネロやあの子たちにも見せてあげれば」
「……冗談ですよね?」
「はは」
くすくす笑われながら晶は髪に絡んだ花を一つ一つとっていった。「鏡、ありがとうございました」と礼を言いつつ何か微笑ましいものを見るようなファウストに対して晶は子どもみたいに口を尖らせる。恥ずかしさを誤魔化しながら晶は彼へと手を差し出した。
「少しだけ不安だったんです」
彼女の言葉を受け、魔法使いは躊躇いなく手を差し伸べた。
「なら、きみの不安が無くなるまで僕の手を握っているといい」
人の心を無碍にしないひとだった。痛みを伴う過去があってなお優しさを失わずにいたこの人がどうかこの先、沢山の幸せと出会えますように。願いを込めながら、賢者は魔法使いの手を握った。
「それで一体何があったんだ?」
「ええと、恋人のご両親にご挨拶にうかがう、みたいな出来事が……」
「は?」