AIと逃避行 パラロイオー晶♀「映画を見にいくよ」
というシンプルな音声メッセージと共に受信したのはメモリに搭載してあるカレンダーへのリマインドだ。ほぼ強制的に予定を入れられた日付は奇しくも晶の予定がまっさらな日だったが、彼のことを考えればそれくらいは把握しているのだろうなと納得せざるを得なかった。
何でも知っている全知全能の神様みたいなアシストロイド。そんなオーエンが映画を? そもそもこうして遊びに行くような間柄でもないのに何故? と一瞬晶は疑問に思ったが、溶けて垂れそうになっているCBSCの薄紅色が彼女の意識を攫っていった。ぺろりと舐めとったそれは冷たく甘やかで、CBSC特有の春の匂いは鼻へと抜けていったのだった。
そしてその数日後。晶が指定された映画館に赴けば、飲み物とキャラメルポップコーンとチュロスを二人分買ったオーエンに出迎えられた。何の説明もなく「はい」と渡された飲食物の乗ったトレーを慌てて受け取るのと同時に、電子チケットのデータが送られる。オーエンの手際の良さに晶は身を任せることしか出来なかった。
チケットを提示して入場を済ませ、大きなコンパスで先行するオーエンに晶は気持ち早歩きで着いていく。そして彼が向かったのは十二番スクリーンだった。重たい扉は開かれている。そんな扉のちょうど近く、柱に貼られたポスターには美男と美女が並んでいた。どうやらラブロマンスものの映画らしかった。ラブロマンス。……ラブロマンス?
彼がとった席はスクリーンから最も遠い後方、端っこの席だった。晶は腰を落ち着けて、ついでに動揺した気持ちも落ち着けようとしたがそれは上手くいかなかった。揚げたてほやほやのチュロスを齧りつつ、ざっと周りに視線を巡らせる。あっちにカップル、こっちにカップル、あそこにもカップル。点在するカップルの数を数えて晶はここに混ざる私達もまたそう見えるのかな、とチュロスをさくさく食べているオーエンを盗み見た。
「あの」
「何」
「何でこの映画なんですか?」
薄紅色の瞳が真っ直ぐに晶を捉えた。
「ここの劇場でみてないのがこれだけだから」
こともなげに言って、そして視線は外された。静かに照明が落とされて、非常口を知らせるマークが入り口のところで光る。コマーシャルが始まる。いよいよ晶は映画が終わるまで何も聞けなくなってしまう。焦る晶の気持ちとは無関係に、大きなスクリーンは映像を流し続けた。オーエンとラブロマンスがどうしたってイコールで繋がらず、映画見始め十数分で隣人がスクリーンから出て行かないか、内心晶はそわついていたがそんな心配は杞憂に終わった。エンドロールをきっちり見終わるまで、オーエンは席を立たなかった。
「どんなものかな、って思って」
改めて晶が聞くとそんな答えが返ってきた。
「たまたま会ったクロエが近況を教えてきたんだ。最近見た、映画の話。あの映画を見て泣けた、って言うから」
映画館程近くの公園にCBSCのワゴンが来ていた。ホログラムとネオン光る夜の街で、晶とオーエンの二人は並んで甘味を堪能する。オーエンは通年で出しているスタンダードなフレーバーを、晶は季節限定の、初夏の匂いのフレーバーを頼んだ。
「特別興味をひくようなものでもなかったけど、二人が逃避行するところは良かった」
記録を引っ張り出して「ああ、あれは正に愛の逃避行でしたね」と晶が答えればオーエンはその目を意地悪げに細める。
「そう、愛の逃避行」
雲行きの悪さを彼女は肌で感じていた。晶が疑問を口にする前にCBSCをコーンまで綺麗に食べ終わったオーエンがゆったりと口を開く。
「ベイン署長が遊んでくれることになってる」
楽しそうで、おどけた声音だった。唐突な話題の転換。聞き慣れているような、そんな声のテンション。
「クロエが好きだって言ってたスパイ映画、晶は分かる?」
「え、はい。わかります。見ましたから……」
「僕もやってみたくて。敵から逃げるやつ」
「はい。……えっ」
晶が彼の言葉の意味を正しく理解する前に、彼女のCBSCを持っている方の手がとられる。端正に作られた彼の顔が近付いてきて口が開く。オーエンの赤い舌に視線が釘付けになる。そこに何か、あるはずの何かは無い。あるはずの何か? 何かって何だ? 考えてみてもわからない。答えが出ない。ぱくり、と音をつけるならそういった音。ソフトクリームは彼の口の中にあっけなく消えていった。
初めて季節限定のフレーバーを食べたらしい。薄紅色の目をまん丸にして「おいしい」と呟いてもう一口。晶のCBSCは大部分がオーエンの口の中あるいは腹の中に収まってしまったが、晶の頭の中は大量の疑問符が原因で処理落ちしそうだった。それどころではなかった。
遠くからサイレンの音が聞こえる。
「監視の目を誤魔化したんだ。だからシティポリスに連絡がいって、あいつら、じきに僕を探しにくるだろうね」
フィガロ博士はオーエンに監視をつけた。それはオーエンという存在が人類にとって脅威になりうるからだ。晶の手をCBSCごと握るオーエンはアイス部分だけでなくその他の部分も平らげるつもりらしい。彼はワッフルコーンをざくざくと齧っていく。
「な、何故そんな……」
晶から小さくなったコーンを奪い取って、オーエンは微笑む。あ、これは答えてくれないやつ。晶の予想はぴたりと当たった。彼女の言葉を無視してオーエンはワッフルコーンの最後の一口を噛み砕く。
「ついでに逃避行もしてみようかな」
やったことないし、と言いながらオーエンは晶の手首を掴んだ。ちょっと散歩に行こうかな、くらいのノリで何を言っているんだろう。
「はは、間抜けな顔」
「映画の、愛の逃避行に感化されたんですか?」
「そうかもね」
「……愛、あるんですか?」
「さぁ? 分からないけど、晶はあると思う?」
無垢なまなざしだった。いよいよサイレンの音がかなり近くなってきていた。晶は初めてオーエンと会ったあの夜のことを思い出す。
「好きで大事、が愛なら……私にはあるのかも」
瞬間、おもいっきり腕をひかれて晶は「うわぁ!」と情けない声を上げた。ぐいぐいと引っ張られて慌てて足を動かす。
「無敵なら僕たち、逃げ切れると思う?」
前を行くオーエンが息を弾ませることなく走りながら言う。先行く彼の表情は晶から見えなかった。友達と意気投合した時の、無敵になったみたいな、最高の幸せについて。それを口にしたのはあの夜の晶だ。そこから引用したみたいな言葉に、晶は脈打たない心臓がぎゅっと掴まれたような気持ちになった。駆ける速度はどんどん上がっていく。
「シティポリスから逃げるのは難しいと思いますけど」
「やってみたら意外と上手くいくかも」
「多分、私、足手まといになりますよ」
「なら捕まりそうになったら晶を囮にしようかな」
「あはは、それってもう愛の逃避行からかけ離れてませんか」
繋がれた手はそのままに、二人はサイレンの音から逃げ出すみたいに走る。
「どこまでいけると思う?」
「オーエンなら、どこまでも」
そして彼は振り返って晶を見据えた。対となっている薄紅は、ネオンとホログラムの光を反射して鮮やかにきらめいていた。
「あたりまえだろ」