虜「明日キバナの家に遊びに行きますけど、今回は誰がお供しますか?」
そう言ったとたん、リビングでてんでばらばらに遊んだりくつろいだりしていたポケモンたちが一様に目の色を変えたので、ネズは思わず笑ってしまった。どいつもこいつも、素直なものだ。
ネズがキバナの家を訪れるときには、手持ちのポケモンのうち、ひとりかふたりを連れて行く。全員で一斉に押しかけては迷惑になるだろうと思い、フルメンバーで遊びに行ったことはない。
キバナは「うちはもともと広いんだから、気にせずみんなで遊びに来てくれていいのに」と言う。実際、キバナ宅はネズの家よりずっと広い。と言っても、キバナが大きな家に住んでいるのは、自分のぜいたくのためではない。キバナの手持ちたちはそろって大柄なので、彼らと快適に暮らすためには、ふつうよりずっと広い家でなければならなかったのだ。あくまでもポケモンのためであり、キバナの事情は二の次だ。
庭もついているし、隣家からはじゅうぶんな距離がある。たくさんのポケモンたちと賑やかに暮らすことに、何の支障もない家だった。
だからキバナの言う通り、ネズが手持ち全員を連れて訪問しても、そして手持ちたちをひとり残らずボールから出しても、問題はない。けれども、いくら恋人とは言え、人様の家である。ネズのポケモンたちでスペースを圧迫するのは気が引けた。
それに、ネズの家ではキバナに同じことを許してやれないというのも後ろめたかった。
ネズはずっと生家で暮らしている。少々古いが、ふつうに暮らすぶんには問題がない家だ。だが、ネズとマリィ、ふたりのポケモンたちがいっしょに生活するには、ちょっぴり手狭だった。そんな家だから、キバナのポケモンたちを全員招くのは厳しい。キバナのお供をひとりふたり迎え入れるので限界だ。
ネズは常日頃から、キバナとフェアな関係でいたいと願っている。そして、そうあるように振る舞っている。だから、ネズがキバナにしてやれないことを、キバナにばかりしてもらうというのには、いささか抵抗感を覚えた。たとえキバナが気にしないとしても、ネズが納得できないのだ。
そういうわけでネズは、キバナの家を訪れるとき、決して手持ち全員を引き連れては行かないのだった。
ともすれば遠慮し過ぎだ、恋人にしては他人行儀だと不快に思われるかもしれない。だが幸いなことに、キバナはネズの考えを聞いても嫌な顔をせず、「そういう気遣い、ネズらしくて好きだぜ」と言って笑って受け入れてくれた。ネズはほっと胸を撫で下ろしたし、自分こそキバナのそういう寛容さが好きだと思った。
「ほらほら、早く決めなさい。この前は三人もお邪魔しちゃったので、今回はひとりだけですよ」
ネズが急かすと、ポケモンたちはすぐさま一堂に会し、真剣な顔で相談を始めた。まるでバトルの直前のような白熱した様子に、ネズはたまらず噴き出した。
キバナの家に遊びに行くメンバーを決めるときはいつもこうだ。みんなキバナの家に行きたいから、熱心に話し合う。どんな話し合いをしているのかネズにはわからないが、くだらないことを真面目に議論している様は、はたから見ていて面白い。誰も彼もいかつい見た目をしているからなおさらだ。
ネズは椅子に座り、脚を組んで頬杖をつきながら、相棒たちを見守った。愉快かつ微笑ましい光景を眺めていると、胸が温まった。平和を感じてほっこりとする。
なぜネズの相棒たちが、こんなにもキバナの家に行きたがるかと言えば、それはもちろん、ネズと同じくキバナとその相棒たちが好きだから――ではない。それも理由のひとつには違いないが、いちばんの理由は、キバナの家に行けば、ふだんは食べられないお菓子がもらえることだった。
ネズが遊びに行くと、キバナはいつもお菓子と紅茶でもてなしてくれる。ネズだけでなく、ポケモン用のお菓子も必ず用意してあった。どれも人気商品ないしは高級品で、ネズの家ではまず出て来ないラインナップだ。評判だけ良くて実際の味はそれほど、というお菓子や、値段のわりに美味しくないお菓子もあるが、キバナの用意するものにははずれがない。いままで振る舞われたお菓子は、頬が落ちるほど美味しいものばかりだった。
——せっかくネズが遊びに来てくれるんだから、楽しんでほしいじゃん?
いつも美味しいお菓子を用意する理由について、キバナはそう話していた。
——ネズはこういうの好きかな、喜んでくれるかなって、ネズの笑顔を思い浮かべながらお菓子を選ぶのも楽しいし。ネズだけでなく、ネズのポケモンにも、同じように喜んでほしくてさ。あと、お菓子につられて、たくさんオレさまの家に遊びに来てくれるようになったらいいなって。
まるでネズが意地汚いかのような言いざまに、ネズは少しむっとした。
——おれはそこまで食い意地張ってねえですよ。お菓子なんてなくても、キバナの家には行きたいですよ。
ネズがそう答えると、キバナは珍しくはにかんだ。「そう言ってくれると嬉しい」と笑う顔の愛らしさは、いまでもよく覚えている。
もっとも、ネズのポケモンたちには、お菓子は効果ばつぐんだった。キバナの家に行けば美味しいお菓子が食べられる、と学んだ彼らは、こぞってキバナ宅に遊びに行きたがるようになった。仲間内ではもっとも落ち着きを持つ聡明なカラマネロでさえ、キバナの家に行けるとなれば露骨にうきうきしてみせる。ふだんはいかつくクールな彼らも、美味しいお菓子の前には形無しになってしまうのだ。そういう一面も愛嬌があって悪くない、とネズは思う。
「おや、今回はズルズキンがいっしょに行きますか」
ポケモンたちの話し合いが終わると、ズルズキンがひとり、とてとてとネズに近付いてきた。満足げな表情だ。一方、他のポケモンたちはちょっぴり残念そうな顔をしている。素直な反応が可愛らしくて、ネズはくっくっと笑う。
「じゃあ、明日はズルズキンもいっしょだって、キバナに連絡しておきますね。きっとおまえ好みのお菓子を用意してくれますよ」
キバナはもはやネズだけでなく、ネズのポケモンたちの好みについても完全に把握している。いまのうちに連絡を入れておけば、ズルズキンが好きそうなお菓子を準備してくれることだろう。
ネズがメッセージアプリで連絡すると、キバナからはすぐに返事があった。ジュラルドンが「了解」と答えているスタンプだ。
「明日が楽しみですね、ズルズキン」
ネズが話しかけると、ズルズキンはにっこりして頷いた。
翌日、キバナ宅への訪問に向けて、ネズは念入りに身支度をした。
キバナとデートをするとき、たとえそれが外だろうと家の中だろうと、ネズはいつだって身嗜みに特別気を遣う。ネズも恋する人間なので、好きなひとには綺麗に着飾った姿を見せたいという想いがあるのだ。キバナはいつもネズのお洒落をたっぷりと褒めてくれるので、なおさら気合が入るのだった。
今日は以前キバナが褒めてくれたライダースジャケットを羽織り、キバナがプレゼントしてくれたネックレスを着けた。キバナのことだ、どちらにもちゃんと気付いてくれるだろう。キバナがにこにこしながら褒めてくれるのを想像して、ネズは鏡の前でにんまりとした。
と、ネズのズボンがくいくいと引っ張られる。視線を下に向けると、そこにはズルズキンがいた。ネズのズボンを引っ張っているのとは反対の手に、ボディクリームのボトルを持っている。次はおれの番だろ、と言いたげな顔だ。
「わかってますよ、おまえも身嗜みを整えないとね。ほら、こっちへおいで」
ネズはソファに座ると、ズルズキンを手招きした。ズルズキンはすぐにソファに飛び乗り、いそいそとネズにボトルを差し出す。ネズは笑いながらボトルを受け取った。
「キバナに会うんだから、ズルズキンだって格好良くしないとね」
掌にクリームを出し、ズルズキンのトサカに丁寧に塗ってやる。ズルズキンは目を閉じて気持ち良さそうだ。すっかりネズに身を委ねている。
ズルズキンにとってトサカは大事なものだ。トサカが大きければ大きいほど偉いし、トサカの大きさでグループのリーダーを決めるとも言う。そんなトサカに触れることを許し、嫌がるどころか喜んでくれているのだから、ズルズキンはよっぽどネズを信頼してくれているのだろう。ネズは静かに微笑んだ。触れることを許してもらえる、ただそれだけのことが、むしょうに嬉しい。光栄だ。
クリームを塗ると、トサカは瑞々しく艶めいた。柑橘類の爽やかな香りも漂う。もともと立派なトサカだが、クリームの効果でより美しくなった。
「これでよし。ばっちりですよ、ズルズキン。これならキバナも惚れ惚れしちまうね」
ズルズキンは鏡に向かいトサカを確認すると、満面の笑みを浮かべた。嬉しそうなズルズキンを見ると、ネズも気分がよくなった。ポケモンの喜びはトレーナーの喜びである。
トサカが綺麗になってうきうきするズルズキンの姿を見ていると、ネズはちょっとした感動を覚えた。
以前のズルズキンは、ここまで身嗜みに気を遣わなかった。ボディクリームを塗るなんて、よっぽど肌が荒れたときだけだった。
けれどキバナの家に遊びに行くようになって、ズルズキンは変わった。顔を合わせる度、キバナがこれでもかこれでもかと褒めちぎってくるからだ。キバナはネズだけでなく、ネズのポケモンたちまでしきりに褒めるのだ。しかも、そのポケモンが自慢に思っているところを重点的に褒めてみせる。筋金入りの褒め上手だ。
人間は褒められれば浮かれるいきものだが、ポケモンだってそれは同じだ。一度褒められれば、もっと褒めてもらいたくなるところも。
それでズルズキンは、キバナの家に行くときには、自慢のトサカを念入りにケアするようになった。キバナに「かっこいいな」と褒められたくて。
とはいえ、ズルズキンの腕ではケアするにも限度がある。だから毎回、ネズにボディクリームを渡して塗ってくれとねだるのだ。
初めてズルズキンからクリームを渡されたとき、ネズは目をぱちくりさせた。相棒たちの中でも特に武骨なズルズキンが、他人の目を気にして身嗜みを整えようとする日が来るなど、夢にも思わなかったのだ。
ズルズキン自身、恥ずかしそうにもじもじしていた。自分の柄じゃない、という自覚があったのだろう。
ネズはふっと笑うと、床に膝をつきズルズキンと目線の高さを合わせて、
——わかるよ。キバナの前では、最高にかっこいい自分でいたいよね。
そう言うと、ズルズキンの顔がぱあっと明るくなった。
いまではズルズキンは恥ずかしがることなく、ネズにトサカのケアを求める。ネズも嫌がらずに快く引き受ける。
キバナの家に向かう前に身嗜みを整えたがるのは、ズルズキンだけではない。いつの間にか、ネズの手持ちみんながそうなっていた。タチフサグマなど前日の夜から爪を整える気合の入れようだ。
相棒たちのそういった変化は、ネズにとって快いものだった。彼らはキバナがくれるお菓子が目当てというだけでなく、キバナという人間そのものにも好意を持っているのだとわかって、嬉しいのだ。大切なポケモンたちが、大切な恋人に愛情を抱いてくれている。これ以上の幸いはない。
「さてズルズキン、そろそろ行きましょうか」
ネズはうきうきしているズルズキンをボールに収めると、家を出た。
そらをとぶタクシーに揺られてナックルシティに向かい、停留所からは徒歩でキバナの家に向かう。
「いらっしゃい、ネズ! 待ってたぜ!」
キバナは破顔してネズを出迎えた。毎度のことだし、キバナの笑顔など見慣れている。それでも、こうしてキバナが明るく笑って迎え入れてくれる度、ネズの胸には淡い喜びが咲く。できればずっとこういう喜びを抱ける自分でありたいと、ネズは密かに願っている。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ。あ、ネズ、またそのジャケット着てる。やっぱそれよく似合うなー。それに、オレさまがプレゼントしたネックレスつけてくれてるじゃん。ふふ、嬉しい」
キバナはふにゃりと頬を緩めた。柔らかい微笑みとあたたかいまなざしを向けられて心地いい。キバナが期待通りの言葉をくれたこともあって、ネズはぐんと機嫌が良くなった。充実感に溢れて、鼻歌を歌いたいぐらいだ。
「ネズは今日も最高にかっこいいな。惚れ惚れしちゃう」
「まあ、それほどでもあるかね」
おまえに良く思われたくて頑張ってるんですよ、とは言わない。キバナにはその努力をとっくに見抜かれいるのかもしれない、と思うけれど。
「ズルズキンもいるんだろ? ボールから出して大丈夫だぜ」
リビングに入ると、キバナのお言葉に甘えてズルズキンをボールから出してやる。
ズルズキンはキバナに向けて胸を張る。
キバナはズルズキンをまじまじと見つめて、
「さすがズルズキン、今日もトサカがイカしてるな!」
自慢のトサカを褒められて、ズルズキンは得意顔だ。
そのトサカを綺麗にしてやったのはおれだけどね、と思いつつ、ネズは小さく笑う。
まったくキバナときたら、ネズだけでなくネズの相棒たちまで魅了しているのだから、とんだタラシだ。あくタイプをこれだけ骨抜きにしているのだ、魔性の男と言ってもいいのではないだろうか。もっとも、いっとうに骨抜きにされているのは、間違いなくネズなのだが。
「ズルズキンが来るって聞いたからさ、マラサダ買っておいたんだぜ。好きだろ?」
キバナが言うのを聞いて、ズルズキンは目を輝かせた。
「オレさまのポケモンたちのぶんもあるからよ、いっしょに食べなよ」
キバナが声をかけると、部屋の中や庭に散っていたキバナのポケモンたちが集まってきた。キバナは彼らにマラサダを配る。当然、ひとりひとり違う味のマラサダだ。ズルズキンはマラサダを受け取ると、ありがとうと言うように一声鳴いた。
「悪いね、いつもおれのポケモンにまでお菓子をくれて。ありがとう」
「気にしないでくれ。オレさまが、ネズのポケモンにも喜んでほしいだけだから」
「そういうことを言われると、キバナを好きになってよかったなあ、と思います」
「マジで? 嬉しい。あ、もちろんネズ用のお菓子もあるぜ! 紅茶もな。いま持ってくるから、そこらへんに座って待っててくれ」
「おや、それは楽しみですね。おまえ、どんどん紅茶を淹れるのが上手くなってるから」
「へへ、ネズの胃袋掴むために頑張ってるからなー」
キバナは悪戯っぽく笑うとキッチンへと姿を消した。
ネズはくすりと笑う。掴まれてるのは胃袋じゃなくて心の方ですよ、と思う。それを言うのはさすがに照れ臭いので、黙っているけれど。
ネズはソファに腰を下ろして、おやつを味わうポケモンたちを見守った。ズルズキンはフライゴンの隣に並んで、にこにこしながらマラサダを食べている。キバナのポケモンたちの中に、違和感なく馴染んでいるズルズキンを見ると、くすぐったい気持ちになった。
自分も相棒たちも、そろってキバナに心を掴まれている。それもかなりがっちりと。そう考えると、やたらと愉快な気分になった。
キッチンからは紅茶の良いにおいが漂ってくる。ネズは目を閉じて、その香りを楽しんだ。愛を香りにたとえるなら、それはきっと、こんな感じだ。