イカロスは知らない「ちょっぴり寄り道してから帰ろうか、常闇くん」
ホークスはいたずらっぽく笑いながらそう言った。本来の年齢よりずっと幼く見える、無邪気な笑い方だった。ヒーローとしてのコスチュームではなく、ラフな私服姿だから、よけいに幼く感じられるのかもしれなかった。
「せっかく海の近くに来たんだから、見に行こうよ」
ホークスがあんまりにも楽しそうに誘うものだから、常闇は断れなかった。嫌だと言ったら、彼を酷く傷つけてしまう気がしたのだ。
よく晴れた初夏の午後だ。健やかな青空とさわやかな風が心地いい。黒影がしょんぼりとしてしまいそうなほど、屈託なく明るい世界。その中で、ホークスのあどけない笑みはやたらと眩しく思われた。常闇は思わず目を細める。
ふたりはちょっとした研修で遠出をしていて、その帰り道でのことだった。常闇がホークス事務所のサイドキックとして採用されてから、まだ三か月も経っていない。覚えることはいくらでもあったし、できるようになりたいことは次から次へと出てきた。仕事という意味でも私生活という意味でも、新しい環境に慣れるのに精いっぱいで、ちっとも余裕がない日々だ。
きっとホークスは、そんな常闇を心配していたのだろう。それで、ちょっと休憩して肩の力を抜きなよ、というつもりで、とつぜん常闇を海に誘ったのだ。
ホークスの急な提案に面食らっていた常闇だが、そう考えると納得が行って、師の心遣いに感謝した。
しかし海へと向かう道すがら、あからさまにうきうきとして足取りの軽いホークスを見ていたら、自分は勘違いをしているのではないか、という思いが過ぎった。
ひょっとしてホークスは、常闇に気を遣ったわけではなく、単純に自分が海を見たかっただけなのでは?
果たして海に辿りつくと、ホークスはぱっと顔を輝かせた。「海だー!」と叫んで駆けだす姿は子どもそのもので、常闇は呆れてしまう。彼にこんなにも子どもじみた一面があるとは知らなかった。
けれど、臆面もなくはしゃぐホークスには、少年のような美しさがあった。朗らかで、清らかで、きらめいて、愛おしい。喜びに溢れていきいきとした有り様は、とてつもなく尊いものに思われた。
心底から楽しそうなホークスを見ていると、このまま自由に遊ばせてやりたいという気持ちが湧き上がった。まったく、これではどちらが年上かわからない。だが、悪くない気分だ。
常闇は苦笑して、ゆっくりとホークスに向かって歩きだした。スニーカーで砂を踏む感触は奇妙なもので、歩いていると違和感があった。ちょっぴり苦労しつつ、砂浜を進んでゆく。
一方のホークスはというと、波打ち際を優雅に歩いている。踊るように華麗なしぐさだ。砂に苦しめられている様子はみじんもない。器用なものだ。
海面が陽の光を反射してきらきらと光っているものだから、ホークスがよけいにまぶしく見えて敵わない。常闇は目を細めたまま、「何をそんなにはしゃいでいるのだ、師よ」と問いかけた。波の音に負けないよう、大きな声で。
「だって、海、久しぶりだから」
答えるホークスの声も大きかった。
「砂の柔らかさも、波の音も、潮のにおいも、嫌いじゃないんだ。いつも飛んでると、たまに地上の感覚が恋しくなる。結局俺も人間ってことだね。それとも、鳥にだって、地面がむしょうに恋しくなることがあるのかな」
ざあ、ざざ、ざあん、という波の音に、ホークスの声が混じる。耳ざわりのいい響きでほっとする。絶えず波が押し寄せる海とは裏腹に、常闇の心は凪いでいた。
「それに、恋人とふたりで海辺を歩くって、いかにもデートって感じがしない?」
しかしホークスが冗談めかして言った言葉のせいで、落ち着いていた常闇の心臓は跳ね上がった。
「そ、それは、その……」
「はは、うろたえてる。かわいい」
ホークスはにやにやしながら常闇の顔を覗きこもうとした。常闇は慌ててそっぽを向く。恥ずかしさと腹立たしさで、むっつりとした表情になった。
「俺たちの関係は秘め事と決めたはず。公共の場所でそのようなことを言うのは、迂闊では……」
「だいじょうぶ。周り、誰もいないでしょ」
ホークスの言う通り、まだ海水浴シーズンが始まっていない海には、二人以外に誰の姿もなかった。ホークスの発言が常闇以外の誰かに聞かれた可能性はない。けれど、常闇は釈然としなかった。ホークスにもてあそばれたような気がして、悔しい。
ホークス事務所に採用されると同時に、常闇はホークスの恋人になった。両想いであることはずっと前からわかっていたが、「常闇くんがおとなになるまで、手出すわけにはいかないよ」とホークスに言われて、長いこと師弟以外の関係を持たないでいたのだ。
ようやくホークスの恋人となり、彼の心の深い部分に触れる許しを得て、常闇は内心おおいに浮かれていた。舞い上がっているのはホークスも同じで、ときどきこうして、常闇を恋人らしくからかってみせるのだった。
かわいがられているのだ、とわかる。愛でられているのだ、とも伝わる。それでも、何だかホークスに遊ばれているように思えて、どうにも悔しくなるのだった。
「そうだ、よくドラマとか漫画で見るやつ、やる? 浜辺で追いかけっこするの。ダーリン、ハニーって呼び合いながら」
「無理だ!」
「ははっ、だよね、俺もさすがにそれは恥ずかしい」
ホークスはけらけらと笑って、けれど次の瞬間、「常闇くんがやりたいなら、とことん付き合うけどね」と真面目な声で言う。
「好きな子のお願いは、聞いてあげたいから」
口元は笑っているのに、まなざしはとことん真摯だ。ホークスの瞳は、常闇が好きでたまらないのだと告げている。そんなふうに見つめられると、困る。おそろしく、ときめいてしまうので。
常闇が黙りこんでいると、ホークスはまたけらけらと笑いだした。
「照れてる。ほんとかわいい」
「あなたはかわいくない」
「俺はかわいくなくてもいーの。あー、なんか海に入りたくなってきたな。いいや、入っちゃえ」
ホークスはためらいなく靴を脱ぎ捨てると、ばしゃばしゃと派手な音を立てながら海に乗り込んだ。
「うっわ、つめた!」
そう言いながらも、ホークスは笑っていた。「でもこの冷たさも、嫌いじゃないんだよね」とつづけて、無意味に足踏みをする。ほんとうに子どものようだ。けれど、ホークスが何を恐れることもなく無邪気に振る舞えるこの瞬間が、とても大切に感じられた。彼がかつて凶悪な敵を倒すため、その命を賭して戦ったことを、常闇は知っているのだから。
「鳥が海に入るなんて、変だって思ってる?」
「まさか。楽しそうで何よりだ」
「常闇くんも入りなよ」
「俺は遠慮する」
「えー、つまんないの」
ホークスは浅いところを行ったり来たりする。軽やかな足取り。やはり踊っているようだ。
かと思うと、唐突に片足を勢いよく蹴り上げた。水飛沫が舞い、陽の光を受けてきらきらと光る。素直に、綺麗だな、と思った。
「深海って、真っ暗なんだよね。光がちっとも届かないんだって」
ふいにホークスが言った。海面をじっと見つめながら。
「ふつうのひとにはおっかない世界だよね。でも、黒影にはむしろ過ごしやすいのかな。攻撃力だって増すし」
「深淵なる水底の暗闇は、確かに黒影の好むところだろう。だが、俺の体が耐えられない」
「はは、そりゃそうだ。水圧でぺしゃんこだろうね。それ以前に息ができなくて駄目だ、溺れちゃう」
「普通の深さであれば泳げるが」
「そっか、常闇くんは泳げるんだね。俺は駄目だ、浅かったとしても泳げない」
ホークスは自分の背中を指さして、「この羽があるからさ」と言った。そこには赤い翼が生えている。だが数年前に比べると、ずいぶんと小さい。羽の量が減っているのだ。しかも全てが本物の羽というわけではなく、いくらかは補強のための義羽だ。荼毘の炎に焼かれたためである。
リカバリーガールの治癒や最先端の医療技術のおかげで、これでもかなり回復したのだと聞いている。それでも、元通りにはなっていない。
ホークスはいまでも定期的に治療を続けていて、これから先、羽の量が増える見込みはおおいにあるのだという。だが、常闇が「それでは、いつか元通りになるのか」と訊ねると、ホークスは「それはちょっと厳しいかも」と困ったように笑った。
しかし常闇は、その現実に決して絶望していなかった。ホークスを哀れむ気持ちもない。
もちろん、ホークスを労わる気持ちはある。熱い炎に体を焼かれるのはどれほど辛かっただろうか、と想像すると、自分のことのように苦しくなった。なぜホークスがこんなに酷い目に遭わなければならなかったのか、という憤りだってある。
けれど、同情はしていない。可哀想だとか、惨めだとか、そういうことも思わない。
ホークス自身が、自分を哀れんでいないからだ。羽を失うという困難に見舞われても、決してくじけず、諦めず、誇り高いヒーローで在り続けているからだ。闇に落ちることなく、光に向かって飛び続けている。絶望に囚われず、希望を手にしようと果敢に戦っている。彼はどこまでも気高く、強く、前向きで――常闇が知る中で、もっとも格好良いヒーローだった。
昔のホークスの姿、豊かだったころの翼を知る人間にしてみれば、いまのホークスは哀れに思えるのかもしれない。だが、常闇にはむしろ美しく感じられた。苦難を乗り越えて戦いつづけるヒーローの姿が、美しくないわけがないのだ。
「こんな貧相になっても、羽は羽だからさ。泳ごうとすると邪魔になる」
ホークスの言葉に、常闇はむっとした。常闇が賞賛するその翼を、貧相だなんて言わないでほしかった。
「そういえばこの前、俺のことをイカロスみたいだって言ったひとがいたな」
「イカロス? ギリシャ神話の? なぜ……」
そこで常闇ははっとした。
イカロスはギリシャ神話の登場人物だ。父親と共に迷宮に閉じ込められたイカロスは、鳥の羽を蝋で固めて翼を作り、空を飛んで迷宮から脱出した。だが、自分の力を過信したために、父の忠告を無視して太陽に向かって飛んでゆく。その結果、太陽の熱で蝋が溶けて翼が壊れ、そのまま墜落死してしまうのだ。
イカロスの物語は、傲慢さを批判するものとして解釈される。だから、ホークスをイカロスにたとえたのは、明らかに侮辱だ。おおかた、ホークスの義羽が蝋の翼のようだとでも言うのだろう。
「ほら、俺の翼、義羽で補強してるでしょ。それがイカロスの蝋の翼みたいだって言うんだよね。こんな偽物の翼で調子乗って空飛んで、そのうち落っこちて死ぬんじゃないかって笑われちゃったよ」
案の定だ。ホークスは軽い調子で話したが、常闇はふつふつと怒りが沸き上がってきた。
どこの誰だか知らないが、ホークスを侮辱するとはいい度胸だ。彼はそんなふうに貶されていいヒーローではないのに。
「でもね、常闇くん、俺は……」
「ホークスの翼は偽物ではない!」
常闇は叫んだ。ホークスが目を丸くする。
「ホークスはその翼で、いまも空を飛んでいる! ヒーローとして活躍し、多くの人間を救い、数々の敵を倒している! あなたをヒーローたらしめるその翼が、偽物であるものか! 義羽であろうが、そこには誇りが宿っている! ならば、それは本物だ! 本物の翼だ! あなたがその翼で太陽に近づいても、溶けて壊れるなど有り得ない!」
波の音にも負けない叫び声が、海辺に響き渡る。ごう、と強い風が吹いた。かき消されてなるものか、と常闇は更に叫んだ。
「泳げないから何だと言うんだ! その代わり、あなたには翼がある! どこにだって飛んでゆける! その翼があれば、太陽にだって辿りつける! あなたほどのヒーローならば、太陽に向かって飛ぶことも、決して傲慢ではない!」
ホークスはもはや笑っていなかった。真顔で常闇を見つめていた。
それでいい。笑わないでほしかった。軽い口調で語らないでほしかった。侮辱には怒りを示すべきなのだから。
「ホークスは、誇り高いヒーローだ。――墜落などしない、決して」
常闇はホークスをまっすぐに見つめた。常闇がどれだけホークスに敬意を払い、愛情を向け、大切に想っているか、しっかりと伝えるために。
ホークスは黙って常闇を見つめ返した。
ふたりとも、何も言わずにいた。止むことを知らない波の音と、時折吹きつける海風の音ばかりが、空気を震わせていた。
ややあって、ホークスはおもむろに口を開いて、
「いや、偽物の羽でしょ、義羽は」
「えっ」
「補強のための羽だから、やっぱり自前の羽より性能劣るし」
「えっ、えっ」
「俺自身そう思ってるから、偽物の羽って言われても傷つかないよ。ただの事実だもん。あっはいそうですねー、偽物ですねー、でもそれが何か? って感じ。偽物でもきちんと飛べるよ、偽物の翼も大事な翼だよって、そう思う。蝋の翼と違ってしっかりしてるから、そう簡単に壊れないし。だから俺、イカロスみたいだって嫌味言われても、別に腹が立たなかったんだよね。的外れなこと言ってるなあ、と呆れはしたけど」
「そ……そう、だったのか……」
ホークスの言葉に、常闇はたじろいだ。
常闇は、義羽であろうとも本物の翼だとみなしていた。だがホークスは、義羽は偽物の翼とした上で、偽物の翼もじゅうぶんに価値があると考えていたのだ。だからイカロスのようだと侮辱されても傷つかなかった。むしろそんな侮辱をするほうが馬鹿だと考えて、相手にもしなかった。
そんなホークスの気持ちも知らず、ひとりで勝手に熱くなってしまって、常闇はむしょうに恥ずかしかった。
「それに俺、イカロスほど傲慢じゃないよ。自分に自信は持ってるけど、過信はしてないつもりだ。イカロスみたいな失敗はしない」
その通りだ、と常闇は思う。ホークスは聡明な人間だ。大胆な作戦を取ったり賭けに出たりすることはあっても、傲慢になってヘマをすることはない。
ホークス自身がそういう確信を持っているのだから、ますます侮辱に怒る理由がない。
常闇はなおさら自分を恥じた。感情的になるなんて、未熟者の証だ。もっと成長しなければ。
「何より、ほら、俺には君がいるからね」
「え?」
ホークスの言わんとすることがわからず、常闇は首を傾げる。
ホークスはにっと笑って、言った。
「俺が万が一傲慢になって、失敗して落っこちても、常闇くんが……ツクヨミっていうヒーローが、俺を助けてくれる。だから俺は、イカロスにはならないんだよ、ぜったいに」
その言葉には、信頼があった。
その笑顔には、安堵があった。
まるで親を無条件に信じる子どものような様相だ。
――ああ、俺は、このひとに心底から信じられているのだな。
ホークスからの揺るぎない信頼を感じて、常闇は胸が熱くなった。
このひとを裏切りたくない。このひとの期待に応えたい。そんな気持ちでいっぱいになる。
「ホークス、飛ばないか」
常闇はホークスに手を伸ばした。
「いま、むしょうに、あなたと飛びたい気分なんだ」
「黒影は大丈夫なの?」
「多少の間は光に耐えうる。それに最近は鍛錬の甲斐あって、わずかではあるが、以前より光への耐性が増している」
「そう。それなら……」
ホークスはにっこりと笑って、常闇の手を取った。
「好きな子のお願いなら、喜んで」
常闇は黒影を出して、ホークスは翼をはばたかせて、飛び上がった。ホークスは濡れた裸足のまま、砂浜に転がった靴のことなど忘れ去っているようだった。
常闇とホークス、ふたりの視線が交わる。そうして、どちらからともなく笑う。
ふたりいっしょにこの空を飛んでいる。それだけのことが嬉しかった
――あなたは泳げない。俺は海の底の光景を知ることができない。だが、構わない。だって俺たちは、こんなにも楽しく空を飛び回れる!
胸から溢れ出しそうなほどの歓喜を味わいながら、常闇はホークスと空を飛ぶ。
イカロスの気持ちなど、永遠にわかりやしないと思った。