アディショナルタイム 辺りは闇。
「遅い」
「これでも、飛ばして来たんだけど」
カルエゴ邸に息を切らしたシチロウが飛び込んできたのは、夜も更けた正子を過ぎた刻のことである。
「予定では昨日だったはずだが」
「ごめん、急ぎの件が入っちゃって」
「連絡も寄越せない程急ぎだったようだな」
まずい。予想以上に怒っている。
カルエゴの深夜らしい静かな口調は、台詞以上の怒気を孕んでいることにシチロウは気づいていた。
「本当にごめんなさい…」
「お前が主役の日は終わった。だから今日は俺の好きにさせてもらう」
「どこ行くの?」
「寝るんだ馬鹿、何時だと思ってる」
日付が変わった今、お前は用済みだとでも言われた気がしてシチロウはしょんもりと耳を垂れた。
昨日はバラム・シチロウの誕生日であった。
通例であればどちらかの家でささやかな祝杯を挙げ、夜が深まれば恋人らしく身体を重ね、互いの熱を感じながら愛を確かめ合うはずだった。が、残念ながら今年はシチロウの専門である魔生物の実態調査が重なり、日中の不在が確定していたのである。
だからこそカルエゴもシチロウも夜を楽しみにしていたはずだった。
それなのに。
「お前が日中帰れないというから俺は晩酌を待っていたんだがな」
「うん…ごめん」
消え入るような声を返しつつ室内を覗き見れば、リビングや奥のキッチンにはシチロウの好物や上等なワインが並んでいる。シチロウの帰りを今かと待っていたカルエゴの心情が垣間見えた。
「君を裏切るようなことになってごめんね」
「知らん、寝る」
踵を返すカルエゴの手を慌ててがっしと掴む。
が、返されたのは氷のような眼差しと怒りを押し殺すような低い声だった。
「お前も寝ろ。疲れただろう。寝るのはそっちだがな」
億劫そうにゲストルームをクイと顎で指す。
眉間の皺に怒りを寄せるカルエゴを見て、あぁ、とシチロウは内心頭を抱えた。
「…怪我をした雛を、見つけちゃって」
俯いたまま小声でぽつりと話し出す。
「命に関わる怪我じゃないのは分かってたんだけど、放っておけなくて」
「………」
シチロウのことだ、おそらく自分の幼少時代と重なったのだろう。
この先少しでも生きるのに困らないように、と言葉の少なさからじんわりと優しい熱が滲む。
「手当して、親鳥探して。それで巣に返したときにス魔ホ忘れてきちゃって」
頭を垂れるシチロウにカルエゴは盛大なため息を吐き出した。
「なるほど、お前らしいな」
「ごめんね…」
「よく分かった」
「ありがとう」
「許すとは言っていない」
え、と目を見開くシチロウを強引に魔力で室内に引き摺り込み、盛大に尻餅をついたところに馬乗りになる。鳩尾の衝撃に思わずウッと呻いた上に降ってくる、カルエゴの静かな声。
「お前は、分かっていない」
眉間の皺は相変わらずだ。瞳の奥に紫炎を灯した目を細めてシチロウを見下ろす。
「な、なに」
「俺が何故こんなに怒っているか分かるか」
「誕生日に間に合わなかったから?」
「違う。俺が、どんな気持ちでお前の帰りを待ったと思う」
焦燥、怒りに入り交じる悲しみ、寂しさ。そして、安堵。魔力に頼らずとも長年の付き合いで分かる。
「心配したとは思わんのか」
「心配?君が、僕に?」
迂闊であった。
ともにケトランクの高位悪魔として久しく心配される立場ではないと自負していた。
ましてカルエゴが、逆はあっても自分を本気で心配することはないと勝手に思い込んでいたのだ。
「ごめん。君がそこまで僕を心配すると思ってなくて」
「お前が勝手にそう思っていたように、俺も勝手に心配していたということだな。
もういい、この話は終いだ」
顔を隠すように背ける。
このカルエゴにシチロウは見覚えがあった。学生時代、後輩の女生徒に貸した本を返してもらったとき。陰でそれを見たカルエゴが有りがちな勘違いをして、拗ねたとき。
そう、カルエゴは今拗ねている。
もはや怒りや悲しみを超えて拗ねている。
俯いた顔を覗き込むようによく見れば、目元から耳まで赤い。
「あの、カルエゴくん」
「俺の自惚れだったな。お前を心配するなんて。お前もケトランクなのだから」
「ランクは関係ないよ。君が……君が僕を心配してくれたの、あの、なんか」
「なんだ」
「嬉しい」
「は」
「君が遠くにいる僕のことを想って、案じてくれているって」
「おい」
「心配かけてごめんなさい」
「シチロ」
「…心配してくれて、ありがとう」
見上げれば桜色に染まる白肌。
口を開けたままどうしていいか分からず戸惑っているような表情。愛おしい、愛おしい悪魔の顔。
「お願いします。もう一日僕にくれませんか」
「随分と都合が良い」
「君にとっても良い提案じゃない?」
「偉そうに言うな」
「君の気持ちにしっかり応えたいんだ。失望させた分、思い切り君に尽くしたい」
「誕生日なのにプラマイゼロか」
「構わないよ、僕がそう望むんだから。君の望みと一致してるといいんだけど」
「…だったら応えてもらおう」
カルエゴがシチロウの顔を両手で包むと思い切り口付ける。
「ハウェーヤー、バラム・シチロウ。早速だが祝福を受けてもらおうか」
新たな一日は始まったばかりだ。