ぼくらのかみさま(仮)ぼくのかみさま
「う……ひっく……」
小さなしゃくり声を上げながら、少年は家路をとぼとぼと歩いていました。一人ぼっちの帰り道は寂しくて、心がすーすーします。でもどれだけ泣いても心配してくれる人はおろか、すれ違う人すら見当たりませんでした。
水色のランドセルを重たそうに背負ったこの子は、名を湊大瀬といいました。今年小学校一年生になったばかりの男の子で、特別秀でたものも、逆に劣ったものもない、至って普通の子供です。
ただ大瀬は、クラスの子より少しだけマイペースでした。給食を食べ終わるのはいつも最後だし、走るのもビリから数えた方が早く、他の子とお話しする時もちゃんと考えながら話すので「えっと」とか「うんと」とか言いがちです。ただそれだけだったのですが、それは小さなコミュニティで生活する子供たちの中では致命的でした。
「ぼく、そんなにトロくて泣き虫なのかなぁ……」
ついさっき投げつけられたばかりの言葉を思い出すと、また涙が零れます。そして同時に脳内ではまた勝手に、数分前のやり取りが再生されました。
いつもは放課後も一人ぼっちでいることが多い大瀬ですが、今日は勇気を振り絞って遊ぶ相談をしているクラスメイト達に「僕も混ぜて」と言いました。しかし彼らは途端に嫌そうな顔をすると、「お前はトロいし泣き虫だからイヤ」と言って、けらけら笑いながら走り去ってしまったのです。
「トロくて泣き虫はだめ……トロくて泣き虫は……」
大瀬は気弱で内罰的な性格をしていたので、断られたのは自分が悪いからだと思い込んでいました。だから「イヤ」と言われた原因を消し去るために、必死に自分に言い聞かせます。しかしそれは傷口に塩を塗り込むようなもので、ダメだと思う度にまた涙が溢れました。
「うぅ……止まって……もう笑われたくないよう……」
ただでさえ嫌がられているのに、もしこんな姿を見られればさらに馬鹿にされてしまうことでしょう。それが怖くて怖くて、大瀬はぎゅっと身を小さくしました。
もう、いっそのこと誰からも忘れられたい。さっきのクラスメイトも、給食の度に微かに面倒くさそうな顔をする担任の先生も、いつも大瀬を置いて行ってしまう登校班の上級生も、みんなみんな自分を忘れてくれたら。そしたらきっと寂しいだろうけど、笑われて指を差されるよりはずっといいはずです。
そう思った、瞬間でした。
「え……?」
ふと顔を上げると、そこに広がっていたのはいつもの住宅街ではありませんでした。辺りは薄っすら暗くて、深く霧が立ち込めています。周囲に人影がないのは同じですが、先ほどと違って今はどこか不気味な雰囲気がありました。
「うそ……ここどこ……?」
そこで大瀬は、ようやく自分がおかしな場所へ迷い込んでいることに気が付きました。さっきまでは確かに通学路を歩いていたはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。怖くて、意味が分からなくて、また涙が出てきます。でもじっとしているのも怖かったので、震える足を必死に前へ動かしました。
「う、うぅ~……もうやだ……」
それから、どれぐらい歩いたでしょう。もう前も後ろも分からなくなった頃でした。ふと強い風が吹いたので反射的に目を閉じた大瀬は、次に目を開いた瞬間、驚きに言葉を失います。
そこにあったのは、大きくて真っ赤な鳥居でした。しかしその向こう側、つまり本来なら神社があると思われる先は不思議とぼんやりして見えません。今立っている場所はどうやら階段の終わり辺りで、あと三段も上れば境内に足を踏み入れることになりそうでした。
「ここどこ……」
もう何がなんだか分からないし早く家に帰りたい気持ちでいっぱいでしたが、大瀬はおずおずと進むことにしました。背後には長く階段が続いていたので引き返すこともできたのですが、幼い心は同級生の容赦ない拒絶と怪奇現象によってすり減り、前しか見えなくなっていたのです。
「お、おじゃまします……」
鳥居の手前に立った大瀬は、震えながら声を掛けました。神社になんてあまり来ませんし、これが正解かなんて分かりません。それでもその挨拶は、小学一年生が一生懸命考えた「失礼だと思われないための方法」でした。
「……」
そのまま少し待ちましたが、返事はありませんでした。返事がないということは誰もいないということであり、誰もいないなら勝手に入ってもすぐ怒られることはないはずです。自分を鼓舞するように小さく頷いてから、大瀬は恐る恐る境内に足を踏み入れました。そこで全体的になんだかぼんやり見えていた場所は、ようやくはっきりとした像を結びます。
鳥居の先は、やはり神社であるようでした。正面にはあまり大きくないものの立派な装飾が施された本殿があり、左には何やらお札のようなものが括られた大きな木があります。そしてそこから参道を挟んだ向かい側には、手水舎も見えました。全体的な造りは割と普通で、初詣で行くような普通の神社と変わりありません。しかし流れる空気がなんだか違う気がして、大瀬は小さく体を震わせました。
「人の子か。幼いな」
「ひっ!」
いきなり聞こえた低い大人の声に、大瀬は跳び上がって振り返ります。そしてそこに立っていた男性を見て、目を丸くしました。
木を背にする形で立っていたその人は、不思議な格好でした。春なのに白と黒が半分ずつになったコートのようなものを着ていて、頭の上には黒いわっかが浮かんでいます。背後からは液体のように形を変える翼がありましたし、おまけに白と黒に染まった素足はほんの少しだけ地面から浮いていました。知らない人とか不審者とかの話ではなく、どう見たって人間ではありません。それでも大瀬はぷるぷる震えながら、震える声で尋ねました。
「だ、だれですか……」
「我はこの場所を統べる神だ」
「かみさま……」
男の言葉は突拍子もないものでしたが、何故だか大瀬はそれが嘘だとは思いませんでした。それどころか本気で目の前にいる風変わりな男を神様だと信じて、しゅんとしながら頭を下げます。
「あの、かみさま……ごめんなさい。かってに入っちゃって……」
「構わぬ。ここへ来られたということは元より、貴様はそうだと言うことだろう」
「そう……?」
神様の言っている意味が分からず、大瀬は首を傾げました。しかし彼はそれに答えないまま、淡々と説明します。
「ここは、全ての忘却を望む者が行きつく場所――の手前にある、案内所のような場所だ。ここへ来た人間は誰しも、享楽に満ちた停滞か苦難に満ちた前進かを選択することとなる」
「ぼーきゃく……?」
「我はここの神だ。しかし我は貴様ら人間の決定へ干渉することを望まぬ。故に答えろ。貴様はどちらの道を選択する?」
「かんしょー、せんたく……」
神様はきっと大切なことを言っているのでしょうが、まだ小学校に入ったばかりの大瀬にはさっぱり理解できませんでした。なんとなくこちらが答えなければいけないことは分かるのですが、肝心の内容が分からないのではお話になりません。それでも「分からないから教えてください」と言うと怒られるので黙っていると、神様は小さく息を吐いてから少しだけ砕けた様子で言いました。
「……貴様、誰からも忘れられたいと願っただろう」
「!」
神様の言葉に大瀬は驚きました。確かに通学路を歩いていた時、そんなことを考えた気がします。でもあの時周りには誰もいなかったし、なんなら口にしてもいなかったはずでした。なのにどうして知っているのでしょう。やっぱり神様というのは全て分かってしまうものなのでしょうか。
しかし神様は首を横に振ると、冷静に告げました。
「ここへ来る者は皆そうだ。貴様が特別な訳ではない」
「えっと……?」
「忘却を選べば楽になれる。が、二度と帰ることはない。それでも貴様はこの先へ向かう覚悟があるか?」
「……」
やっぱり言葉の意味はほとんど分かりませんでしたが、『覚悟』の意味はぼんやりと知っていました。だから大瀬は視線を彷徨わせながら、必死に伝えます。
「ぜんぜん分かんないけど……かくご、は、ありません……」
「……そうか。ならば良い。今すぐ向き直り、その先から引き返すが良い」
断って怒られやしないかと大瀬は内心怯えていましたが、神様は淡々と言って階段を指差しました。どうやらあれを下れば、元の場所に戻れるそうです。その言葉に信憑性はありませんでしたが、大瀬はこくんと頷くと素直に感謝を伝えました。
「かみさま、ありがとうございます」
「望まぬ者を帰すのも我の役目だ。気にすることではない」
「はい。……じゃあえっと、さようなら……」
「ああ、さらばだ」
小学校で習った通りにちゃんと挨拶をすると、大瀬は振り返らずに階段を降り始めました。石造りのそれは小学生には少し大きくて一段降りる度に体ががくんと揺れましたが、そんなことは気にしないまま無心で下を目指します。
やがて、また霧が立ち込めました。いつの間にか地面は平坦になっていて、靴底から伝わる感触も小さなおうとつのある石から滑らかなアスファルトへ変わっています。それでも大瀬はずんずん歩いて、歩いて気が付いたら――
「あれ……」
通学路の端の白線の内側辺りに、立っていました。無意識に周囲をきょろきょろと見回しますが、そこは何の変哲もない普通の住宅街です。相変わらず人はいませんでしたが、近くの家からは掃除機の音がしていて遠くでは子供たちが遊ぶ声が聞こえます。
そうして日常のど真ん中に戻って来て初めて、大瀬は自分がさっきまで何をしていたのか全く思い出せないことに気が付きました。
「あれ……ぼく……」
何か、あったような気がします。しかし何度記憶を辿っても、クラスメイトから一緒に遊びたくないと言われ、泣きながら帰ったことしか思い出せません。
「うーん……?」
モヤモヤするような変な感じがしましたが、結局大瀬は思い出すことを諦めて通学路を歩きました。きっと自分の悪い所を直そうと言い聞かせていたせいで、ぼんやりしていたのでしょう。自分はトロいのだから、それぐらいあり得る話です。
「……あっ、今日とかげざむらいの日だ……! 早くかえらなきゃ!」
ぽやぽや歩いていた大瀬でしたが、ふと楽しみにしているアニメのことを思い浮かべて走り出しました。放送時間にはまだ余裕がありましたが、小学生は時計を持っていないのでそんなことを知る由もありません。結果、いつの間にか頭の中は焦る気持ちでいっぱいになってしまいました。
それから大瀬は家に帰り、ちゃんと放送の五分前にはテレビを点けてアニメを楽しみました。しかしその頃にはあの変なかみさまのことはおろか、戻って来たばかりに覚えた違和感すら忘れ去ってしまったのです。
「はぁ……」
誰もいない通学路に、幼いため息が響きます。今日も今日とて一人ぼっちで家を目指す大瀬は、しょぼくれた顔で地面を見つめながら歩いていました。
落ち込んでいたのは、給食の時間に先生に怒られたことが原因でした。大瀬は入学当初から食べるスピードが遅く、みんなが校庭へ遊びに行っても終わらないのが恒例なのですが、今日はどうしてもお腹がいっぱいでご飯を少し残してしまったのです。それ自体は元から認められていることだったのですが、「ごめんなさい残します」と言った大瀬に、先生はわざとらしいため息を吐きました。そして心底呆れた声で「残すなら残すで早くしなさい」と怒ったのです。大瀬はそのことを思い出して、へこんでいました。
「どうして、ぼくは……」
クラスメイトにはトロいと笑われ、先生やたまに面倒を見に来てくれる高学年のお兄さんお姉さんにも迷惑をかけてばかり。休み時間に遊ぶ友達もいませんし、かといって一人でしたいこともありません。なのにどうして、学校に行かなくてはいけないのでしょう。どうせ行っても迷惑をかけるだけなら、家にいた方がみんな幸せではないのでしょうか。
そう考えては涙が零れそうになった時、足元にするりと細い霧が滑り込んできました。
「え……」
大瀬は一瞬驚いて顔を上げましたが、いつの間にか辺り一帯がよく分からない場所に変化しているのを見ると、不思議と冷静さを取り戻しました。そして誰に言われるでもなく、真っ直ぐ歩き出します。
「……」
上手く言えませんが、この状況を知っている気がしました。そして向かう先に待っているものが怖くも恐ろしくもないことだって、大瀬は分かっています。
そしてどこから来たのかも分からなくなった頃、ふいにやって来た強い風に目を瞑り、開き――階段を三段、駆け上りました。
「かみさま!」
鳥居をくぐった瞬間に鮮明になった境内を見渡して、大瀬は神様を呼びました。すると今日は手水舎の陰から、先日と全く同じ格好をした彼が現れます。
「また来たのか、人の子よ」
「かみさま、こんにちは」
「貴様は引き返すことを選択したはずであろう」
ちゃんと挨拶をしたのに、神様はなんだか不服そうでした。それを見た大瀬は何か良くないことをしてしまったかと体をびくつかせましたが、彼は「まぁ良い」とだけ言うと、さっさと踵を返してしまいます。
「ま、まって!」
「着いて来るのか」
「つ、着いてきちゃだめですか……」
「……許そう」
許可が下りたので、大瀬はひょこひょこと神様の後ろを歩きました。しかし胸に巣食う小さな、しかしどうしようもない恐怖に耐えきれず、不安で地面ばっかりの視界で尋ねます。
「あのう、かみさま」
「何だ」
「ぼく、さっきまでここのことをわすれちゃってたんです。これって、その……わるいびょーきですか?」
大瀬の脳裏に浮かぶのは、テレビで見た病気の特集でした。急に体の異変が起きるのは、大抵重たい病気の前兆なのです。とはいえ番組で紹介される患者のほとんどは大人であり、子供が心配するようなものはほとんどなかったのですが、心配性な大瀬は「頭がおかしいかもしれない!」と一度思うと怖くて堪らなくなってしまったのでした。
しかし神様は前を向いたまま、なんでもないことのように教えてくれます。
「無用な心配だ。ここは元より、外界に出た瞬間全てを忘却する仕組みになっている」
「……えと、……?」
「貴様の状態が普通だ。ここへ戻れば思い出すのも……事例は少ないが、特別例外というわけではない」
「そ、そうですか……」
心配が払拭された大瀬はちょっぴり安心して、唇を結びました。神様に「普通」と断言されたお陰で、さっきまでは恐怖に埋め尽くされていた脳内がいつもの調子を取り戻し始めます。それと同時に自分の足元ばかり見ていた目線を少しだけ上げて、後ろ姿の神様を頭の先からつま先まで観察してみました。
相変わらず彼は地面の少し上を浮いていて、まるで動く歩道に乗っているようでした。大瀬は初め「便利でいいなぁ」と思ってそれを見ていたのですが、ふとあることに気が付きます。
「かみさま、足……」
「足がどうした」
「くつ、はいてない……」
神様は言われて初めて気が付いたかのような顔で、自身の足元を見ました。大瀬の言う通り白と黒に染まった指先はむき出して、無防備です。しかし神様はふわふわと浮いて移動し続けながら、平然と言いました。
「だから何だと言うのだ」
「えっと……寒くないのかな、って……」
「先日も告げた通り、我は神だ。故に人の尺度で測った哀れみなど不要である」
「……平気ってことですか?」
よく分からない言葉の羅列を必死に汲み取って尋ねると、神様は小さく頷きました。そして淡々と尋ねます。
「そもそも現在の季節は春だ。人の子の過ごす世界でも比較的生命活動に向いた時期だと把握しているが」
「うんと……たしかに春だけど、ぼくのおうちの近くではまだ寒いですよ。ちょっと前まで雪もふってて……あ、冬はもっとすごくて、でもまっしろで、きれいなんですけど……!」
「ほう」
「そういえば、ここってあったかいですね。なんで……ですか?」
「我の領域だからだ。我にとっては気温の変化など些少の問題もないが、ここに訪れる人間のことを考え、適温に保つよう調節している」
「へぇ……」
神様の使う言葉は難解でしたが、彼は大瀬が言い淀んでも急かさず、いきなり話題を変えても嫌そうな顔をしませんでした。それだけでなんだか、ちゃんとお話ができているような気がして嬉しくなってきます。でもそのせいで、大瀬はちょっとだけ欲を出してしまいました。
「……あの、かみさま――」
自分よりもずっと高い位置にある神様の顔を見上げながら、大瀬は駆け出しました。せっかくならちゃんと目を合わせて、隣に立って話がしたかったのです。しかしそのせいで足元が疎かになったのか、はたまた急に走り出したのが悪かったのか、ちょっとした小石に躓いて大瀬は転んでしまいました。
「ふぎゅ!」
べちゃっと潰れるような声が出て、背負っていたランドセルががしゃんと音を立てます。初めはただただ驚いていた大瀬でしたが、地面に蹲るうちに自分が転んだ事実を理解し、くしゃっと顔を歪めました。擦りむいた膝がじんじんと痛みを訴えると同時に、目には涙が浮かびます。
「う、うぅ~……」
まろい頬を伝った涙はぽろぽろと零れ落ち、地面を雨のように濡らしました。土が傷口に触れる感覚が気持ち悪くて早く立ちたいのに、のしかかったランドセルが重たくて少しも動けません。結局大瀬はその場に潰れたまま、引き攣るみたいな泣き声を上げることしかできませんでした。
「ひっく……ひ、ぅ……」
泣いちゃだめだ。だって泣いたら泣き虫だと馬鹿にされてしまいます。ただでさえ歩きながら話しているだけで転ぶなんてダサいのに、これ以上笑われたくなんてありませんでした。しかしそう思えば思うほど、涙が溢れます。
「……ぐすっ」
もうだめだ。せっかくお話できていたのに、全部お終いだ。大瀬がすっかり諦めて、両腕に顔を埋めた時でした。
「何故起き上がらぬ。人の子とは地面との一体化を好む生き物なのか?」
「……え?」
「……ああ、もしやこれが重いのか。ほら」
言葉と同時に、ふっと背中から重たさが消えました。息苦しさからの解放に安堵したのもつかの間、大瀬の小さくて軽い体はふわっと宙に浮いてしまいます。顔を上げると神様が無表情のまま、子猫の首根っこでも掴むようにランドセルの持ち手を掴んでいるのが見えました。どうやら背負ったままだったので、一緒に持ち上げられたようです。
「これで問題ないか」
「は、はい……」
そのまま優しく地面に下ろされた大瀬は、目を白黒させました。てっきり呆れられるかバカにされるかだと思っていたのに、神様の表情は凪いでいて非常にいつも通りです。しかしその反応がいまいち信じられずに呆然としていると、彼はふいに視線を下げました。
「……あの程度でも人の子は怪我を負うのか」
「ふぇ? えっと、はい……」
「脆弱な生き物だな」
神様はそう言うと、驚いたことに足を地面に着けました。そして綺麗な服が汚れることも気にせず膝をつくと、大瀬の擦り傷に手を翳します。
その瞬間、逆再生のように傷が塞がり始めました。
「わ、わ……!」
「驚くことでもない」
「で、でも……!」
戸惑い混乱する大瀬を他所に、擦り傷は見る見るうちに姿を消してしまいました。当然のようにじんじんとした痛みもなくなり、膝にこびりついていた泥ですらうにゅうにゅとうごめき地面に戻っていきます。
「問題ないか」
「はい……」
すっかり元通りになった足を確認するようにぷらぷらさせながら、大瀬は目を瞬かせました。なんだかすごいものを見てしまった気がします。きっと大人ならばその力に怯えたり、逃げたりするのでしょう。もしかしたら利用しようとする悪い人もいるかもしれません。しかし大瀬は素直な子供だったので、すっかり興奮した様子でぴょんぴょん飛び跳ねながら神様を褒めました。
「すごい……! かみさまってやっぱりかみさまなんだ……!」
「それはどういう意味だ」
「だって、何でもできちゃうんだもん! けがを治せるなんて、すごい……!」
大瀬は小さな手を必死に動かしながら全身で感動を伝えましたが、神様は相変わらずの無表情でした。いいえ、それどころか少し、ほんの少しだけテンションが下がったようにすら見えます。
「かみさま……?」
「……我は、万能ではない」
不安になった大瀬が呼びかけると、神様はぽつりと言葉を零しました。そして独り言のように、難しい話を続けます。
「我は確かに神たる存在だ。故にこの場所において起こった如何なる現象をも操作が可能であり、あったものをなかったことにすることも、反対にないものをあったことにするのも容易である。……しかし、外界に影響を及ぼすことはできない」
「……」
「我にはこの場所しかないのだ。……ここ以外、何も存在しない」
「……えっと……」
「……少し話過ぎたな。忘れるといい」
神様はそう言うと、静かに目を伏せました。長い睫毛が影を作り、紫色の瞳にその形を映し出します。大瀬はそれを静かに見ながら、ずっと考えていました。そして考えて考えて考えた末に、頭の中でたくさん言葉を選びながら口を開きます。
「……かみさまは、すごいです。でもそれは、けがを治せるからとか、それだけじゃなくって……」
「……うむ」
「だってかみさまは、ぼくの話を聞いてくれました。クラスの子や大人はみんな遅いって怒るけど、待ってくれて……遅いから先生がきめるよってのじゃなくて、えっと……どう思う? って、ちゃんとお話してくれて……だから、すごいなってぼくは思います」
「……」
「えっと……ごめんなさい。それだけ、です」
話し終えて急に恥ずかしくなってしまった大瀬は、発表を終えた時のようにぺこりとお辞儀をしました。体がかっかと熱くて、どうしたらいいか分かりません。でもここで何か言うのもおかしい気がして、口をもにょもにょさせながら両手をぎゅっと握りしめることしかできませんでした。
神様はそんな大瀬のことを、しばらく見ていました。しかし急に踵を返すと、また淡々とした声で言います。
「行くぞ」
「え?」
「この先に社務所がある。長らく放置していたが、話がしたいのならばそこが最適だろう」
「……! はいっ!」
今度は転ばないように足元に気を付けながら、大瀬は駆け出しました。それから神様の隣に並んであれはなにと尋ねたり、とりとめのない話をします。神様はそれを最後まで聞いてから、いつも通り難しい言葉で答えてくれました。
ざりざりと二人分の足音が、誰も居ない神社に響きます。きっとこの瞬間に全てが始まったのですが、大瀬も神様も、そんなことは知る由もないのでした。