記憶喪失虎杖②■七海
家を出て二週間が経った。
服や下着を買い足してなんとかホテル暮らしを続けていたが、ついに家に戻ろうかという気になった。
何も特別なことがあったわけではない。
ただ、戻ってもいいのではないかと思えるだけの覚悟をした。
それでも、未だに心の整理はついていない。
恋人であった頃の虎杖の記憶を呼び覚ましたいと願っていいのか、それとも七海自身の心は押し殺し、今の彼自身を優先してやるべきなのか。
愛とは一体、何なのか。
自分にとって、彼にとって、どういう状況を幸せと呼ぶのか。
だが気負ったところで、虎杖はもうあの家に居ないかもしれない。新しい恋人とうまくいって、共に住むことになったかもしれない。いや、上手くいかなくとも家を出ると言っていたから、新しい部屋でも見つけて荷造りでもしているだろうか。
もし彼が家に居た時、どう接するのがいいのかはまだ少しも分からない。
顔を見ると衝動的に引き止めてしまいそうな気がする。
だから、いっそ家にいなければいい。そうなれば今の彼が「望んだこと」として納得もするし、受け入れる覚悟くらいはしたつもりだ。
虎杖が家を出ると言い出す覚悟、帰った家に誰も居ない覚悟、それから、虎杖を襲った日のことを謝罪し、罵倒される覚悟はできた。腹を括るのに二週間も経ってしまったが、可能性の高いことには動じずに居られるようにはなっただろう。
心の中で何度も何度も、彼の声で罵倒され別れを告げられる場面を繰り返したのだから。
午前中にはホテルのチェックアウトを済ませたというのに、そう遠くない自宅へたどり着くまでに、外はすっかり日が落ち、何件か点在するバーの店頭には明かりが灯っていた。
家の扉の前に立ち深呼吸をする。
何故自分の家に帰るのに緊張する必要があるのかと、情けない気持ちになる。
この扉の奥に虎杖は居るのだろうか。一週間前には、スマホに彼の連絡先を表示して眺めるうち、事故のような電話を掛けてしまった。ほんの少しだけ話しをしたが確信に触れるような会話はなかった。彼は何かを言いかけていたようだが、七海が一方的に話しかけ虎杖はそれにイエス、ノーで答えるだけで電話を切った。彼は何を言いたかったのか問いかけてやる余裕もなく、虎杖が七海を捨てる言葉を言う前に、早く電話を切ってしまいたいと、結論を先延ばしにするような逃げ方をしてしまった。
それ以来、電話を掛けていない。
虎杖からも掛かってくることはなかった。
深い溜息が漏れる。
扉を開けると暗い廊下が続くことを願って鍵を開ける。
ゆっくりと扉を開いた。一瞬、廊下が暗いことに安堵した。その直後、部屋の中の空気がふわりと七海を包んだ。トマトソースの香りだ。人気のない部屋から漂うはずもないその香りに、胸を突き上げるような愛しさと、同じだけの悲しみが襲う。
やはりまだ帰れない。
今、彼に会ってはいけない。
急いで扉を閉めようとしたその時、廊下の灯りが付き慌てたような足音が聞こえた。
「ナナミン!」
追いすがる様な声が聞こえる。
扉を閉めるのが間に合わなかった。
閉じかけた扉を閉めることも開けることもできず固まっていると、もう一度虎杖の声が聞こえた。
「お帰り……」
か細く震える声で、そう言った。
このまま虎杖の存在を拒絶して扉を閉じれば、七海の心の平穏は返ってくるだろうか。そうだ、そうしてしまえばいい。虎杖がその心の中から七海を追いだしてしまったように、七海も彼の事を忘れてしまえばいい。どうしてそれに今まで気付かなかったのだろう。さあ扉を閉めろ、もう悩むことはない、何もかも忘れてしまえばいい。
けれど静かな空間に、乱れていく虎杖の呼吸が聞こえると、意思に反して七海の手は扉を開いていた。
虎杖は頬を濡らしたまま泣き笑いの表情で、もう一度「お帰り」と震える声で言った。
彼は顔を自身の袖で乱暴に拭って、「丁度良かった、ご飯できたとこだよ。チキンのトマトチーズ焼きと、ナナミンの好きな店のバゲットもあるし……オニオンスープも」と、なんとか笑おうとしている。七海を真っ直ぐに見つめ、後から後から流れてくる涙を手の甲で拭いながら表情を歪めた。
まるで、今夜七海が帰ることを知っていたかのように、七海の好物ばかりを用意されていた。
まだ玄関から動けずにいる七海に、「一緒に飲もうと思って、ワインも用意したんだ」と言う。だから、早く家に入って欲しいと懇願するような声だった。
「ただい、ま」
虎杖に拒絶されることばかり覚悟していた。まさか涙を流すほど待っていてくれるとは思わなかった。頭が真っ白で何も考えられない。ただ、どうしようもなく胸が痛い。
玄関の鍵を閉め、靴を脱ぎ、廊下に足を下ろした瞬間、虎杖はぶるりと震えると大きく表情を歪め、強く自身の口を掌で覆って逃げ出すように部屋の奥へと戻って行った。
ゆっくりと後を追い、リビングに向かうと、キッチンの方から押し殺した泣き声が聞こえてきた。
(どうして君は……)
泣くのだろう。
新しい恋に浮かれている頃ではないのか。何故、七海の帰宅をこれほどまでに待っていてくれたのか。
カウンターキッチンに視線が向かないよう、背を向けるように置いているソファーに座り、彼の小さな泣き声を聞いていた。
■虎杖
電話でほんの少し話せた翌日から、七海が帰って来てくれるのではないかと期待して、二人分の夕食を作ることにした。本当は和食のほうが得意だが、七海の好きな洋食を用意する。そうすれば七海が早く帰って来てくれるような気がしたから。
けれど電話から三日経っても、五日経っても、七海は帰って来てくれない。
彼の為に用意した食事は翌朝にすっかり冷えて、空しい思いで虎杖が食べた。本当は、受け入れてもらえなかった気持ちの籠った料理など捨ててしまいたかったが、食べ物を粗末にすることもできず、砂を食むような想いで食べた。
電話から一週間経って、もう帰って来てくれないのだろうかと思い始めた夜、七海は帰って来た。
玄関から鍵を開ける音がして、慌てて廊下に向かった。
けれどせっかく帰って来たというのに、七海は虎杖が居ることに気付くと出て行こうとする。
ここに居てはいけなかった、彼は本当に虎杖を捨ててしまいたいんだと思った。
毎晩彼を待って食事を用意したこともただの自己満足の迷惑でしかなく、七海はそれほどまでに虎杖を疎ましく思っていたのだ。自分がここにいる限り、七海は戻って来てくれることなどなかったのに、何を期待して待っていたのだろう。
けれど、どうしても諦めきれずに「お帰り」と声を掛けた。
扉が中途半端な位置で止まった。
七海は虎杖を拒絶するのかもしれない。
この扉が閉まったら、自分の心はどうなってしまうのだろう。
信頼していた七海に何も分からないまま嫌われて、たった独りきり取り残されてしまう。
成人もしたというのに「大人」になったはずの自分は、どうして七海に置いて行かれることをこんなにも恐怖に思うのだろう。
何度も自問するうち、失くした記憶の中で自分は七海に惚れていたのかもしれない、と思った。今も胸を押し潰すほどに締め上げる恋しさは、過去の自分の残骸なのか、それとも今の自分自身の感情なのかも分からない。
ただ一つ確かなことは、このまま七海に去って行かれたら、心が壊れてしまうだろうということ。
虎杖の事は疎ましくても、彼の好物なら食べてくれるのではないかと一縷の望みをかけて今夜のメニューを言った。
すると漸く、七海は「ただいま」と声に出してくれた。
彼の好きなものを作っていてよかった、そう思うと胸の中に何かが吹き上げてきて、堪え切れずに口を押えキッチンの隅へと逃げた。
早く七海にご飯を出してあげないと。七海は虎杖ではなく食事に気を取られているのかもしれないのだから。いつまで待っても出てこないとなれば、せっかく帰って来た七海が出て行ってしまうかもしれない。
何とか嗚咽を堪え、袖で何度も涙を拭う。だがいつまで経っても涙も嗚咽も止まらなかった。七海は呆れてしまっただろうか、もう嫌になっているだろうか。
なんとか立ち上がり、恐る恐る彼の様子を窺うと、ソファーにゆったりと座る背中が見えた。まだどこにも行く気配はない。
(今の内に……なんとか用意しないと)
ぐず、と思わず鼻をすすってしまい、大きな音になってしまったかと心配になった。けれど七海が振り向く様子はない。
涙と鼻水で濡れてしまった手を洗い、のろのろとした動きで食事の用意をする。
ダイニングテーブルに二人分の準備ができた頃には、随分と時間が経ってしまったように思う。
「ナナミン……」
小さく呼び掛けると、彼は落ち着いた様子で立ち上がった。
そしてテーブルの上の料理に目をやると「二人分作っていたんですか」と言った。
「うん」
駄目だっただろうか。
叱られたような気持ちで俯いていると、彼がそろそろと溜息を漏らすのが分かった。
何かを言いかけたようだったが、しばらくして七海は「ありがとう」と言った。
「ん……」
掛けられた言葉が嬉しくて、せっかく止まった涙がまた溢れ出しそうになった。
■七海
食事を終えると虎杖は過剰に酒を勧めた。疲れていると言えば、叱られることを怯える子供のような表情で風呂を勧める。これではまるで七海が彼を虐げているようだ。
罵倒される覚悟はしていたが、まさか怯えられるとは思わなかった。
出張から帰ったあの日のように突然七海がレイプするとでも思うのかもしれない。手は出さないという意思表示の為に彼から距離を取ると、虎杖は酷く不安そうな表情をした。
風呂から上がると髪も乾ききらないうちに、「ナナミン、疲れてるだろ」と声を掛けられる。早く休めということなのだろう。
虎杖は廊下へ続く道を塞ぐように立っていた。
七海が出て行かないようにしているつもりだろうか。
「何か、あったんですか」
彼の態度があまりに不自然だった。
「ううん」
虎杖はどうしてしまったのか。例の看護師と上手くいかずに不安定にでもなっているのだろうか。
あまり、弱っているところを見せないで欲しい。
思わず大丈夫だと抱き寄せてしまいたくなる。
「虎杖君」
名前を呼ぶだけでビクリと肩が揺れる。
「ナナ、ミン」
「君こそ疲れているでしょう。風呂に入って休んでください」
微笑みかけたつもりだったが、彼は必死の形相で首を横に振った。
「風呂は先に入ったから……俺、ソファーでいいから、ナナミン早く休んで」
彼は一刻も早く七海を寝かしつけたいようだった。
このまま対峙していては虎杖が混乱をきたしそうなほど動揺している。
「分かりました」
彼の言葉に従うしかなかった。
ベッドルームへ向かい、読みかけのままサイドテーブルに置いていた小説を手に取った。二週間も経つうちにすっかりどこまで読んだか忘れてしまっている。
ベッドに座って栞が挟まっていたところから文字を追ってみるが、内容が全く頭に入ってこない。
(どうして君はそんなに怯えているんだ)
家に帰ってからの虎杖の態度が不思議でならない。
レイプを怯えるわけでもない。そもそも強姦されることを怯えているのならもうこの家には居ないだろう。
それどころか七海の帰りを待ち、戻った七海が出て行くことを怯えている。
新しい恋を見つけ、新しい生活を始めようとしていた彼が、何故あれほど涙を流しているのだろう。
(これではまるで……)
彼が七海に恋をしているようじゃないか。
だが、どうして。
新しい恋に浮かれていたはずではなかったのか。
やはり彼と話すべきだ。
七海は本を閉じ、ベッドを立った。
ベッドルームを出ると、虎杖は暗い部屋でソファーの上で膝を抱えて座り、じっとベッドルームの扉を見つめていたようだ。弾かれたように立ち上がると、慌てて廊下を塞ぐように立った。
「ナナミン……どこ、いくん? トイレ?」
警戒する仔猫が毛並みを逆立てているかのように威嚇している。
「いいえ」
「じゃあ、どこ……行くん。また俺の事置いてく?」
大きな瞳でじっと七海を見つめ、震える声があまりにも痛ましかった。
「どこにも。君と話をしたくて」
今まで彼が座って居たソファーに腰を掛けると、座面が少し濡れていた。
しばらく動かずにいた虎杖が、ゆっくりと近づいてくる。
「話……って。出て行け、ってこと?」
「それを君が望むのなら」
「ナナミンは?」
カチカチと聞こえる音が何かと思ったが、震える彼が葉を噛み締めようとして失敗している音なのだと悟った。
「私は……」
なにを思っているのだろう。
ここに居るのは七海が愛した過去の虎杖ではない。けれど、虎杖自身であることに違いはない。今の彼に、過去の虎杖へ向けた愛を告げるのは、別人を愛することになるのだろうか。それとも。
「悩んでいます」
繕うことはやめ、そのままの想いを口にした。
「君には一部の記憶がないはずだ。その自覚はありますか」
彼は答え辛そうに小さな声で「うん」と言った。
「今の君には信じられないかもしれませんが、私は……過去の君と愛し合っていた。少なくとも、私自身はそう認識しています」
虎杖は大きく息を吸った後、ゆっくりと息を吐き出した。
「記憶の無い君に過去の関係を無理強いすることはできない。けれど私は……君を求めています」
「過去の俺を、だよね」
「ええ……でも、今の君を否定したい訳じゃない。君が新しい恋人を大切にしたいと思うのなら、私は……」
「ナナミンは」
「耐えるべきだと」
「どうして」
「君の幸せの為に」
「ナナミンの幸せは」
問われて、漸く気付いた。
自分の幸せは過去の虎杖との間に存在していたのだと。
「いつか君を忘れられたら。その時に考えます」
「つまり、俺は……今の俺は、要らないってこと?」
そう言った彼は七海の襟首を掴み、震える唇を七海の唇に押し当てた。彼の目から零れた涙が、七海の頬に伝う。
暖かい涙が頬を伝ううちに冷たくなって、ズキリと胸が痛んだ。
記憶を失くしても彼が彼であることには違いなく、その心は変わらず七海が愛した虎杖のものだ。
けれど。
何を以て彼を「悠仁」だとすればいいのだろう。
「虎杖君」
「今の俺が、ナナミンを好きだって言ったら……傍に居させてって言ったら」
虎杖は七海の首に顔を埋め、強く抱き着いた。
耳元で深い悲しみを纏った声が「どうする」と問いかけた。