それは確かに美しく 遠征先は秋の暮れ。樫の枝に身を潜ませた五月雨江は閑散とした道を照らす茜色の光に目を細めた。
(美しい)
限界まで熟れた柿のような太陽が西へ歩を進め、夕映えに包まれた街道は昼間とは違った姿を見せてくれている。五月雨江が姿を隠している葉々の隙間からもその鮮やかさは十分に確認出来た。
この先の集落から男が出奔するのは見届けた。二人ついた追手は歴史通り男を殺すだろう。想定外の事が起こらぬようにと日が高い内から見張っていたがもう大丈夫そうだ。
身じろぎすると茜色が目にかかる。瞬きを繰り返していると誰もいないあかい世界を烏がひと鳴きして去っていった。その嗄れた声は郷愁とほんの少しの寂しさを連れてきて、五月雨江は吹いた風の冷たさをやり過ごそうと襟巻きを手繰り寄せた。
「この道や行く人なしに秋の暮れ、か」
彼の人の句が浮かび、思いがけず口から零れていく。
(あの方もこんな景色を見てあの句を詠んだのでしょうか)
五月雨江がいるこの街道は日の高い時分にはそれなりの賑わいを見せていたが、今は誰も通る事無く静かに茜を纏い夜の訪れを待っている。先ほどまでは美しいばかりだった景色が途端に物寂しいものに感じられ、知らず襟巻きを握る手に力がこもった。
実際に見たとは限らないしおそらく自負でもあるのだろう。だが己が歩んで来た道を振り返り孤独だと詠う。それは晩年に抱えるにはあまりにも大きな寂寞であるように五月雨江には思えた。十七文字の美しい世界を紡ぎ続けた人が最期に抱えた孤独を思うと、胸の辺りを掴まれたようで、その苦しさにぎゅっと目を閉じた。だが閉じたはずなのにまぶたの裏にまで光が届く。あかい。
烏がまた一羽、鳴いて去っていく。
視界は一面あかいろ。誰もいない道を染めあげたあかいろに侵食され、まるであの人の孤独の一部になったようだった。今目の前にあるはずの道もはたして進んだ先はあるのだろうか。あかい光だけの世界で己の足元すら分からなくなって、五月雨江は不安定な木の上でたたらを踏んだ。
「雨さーん」
(――!)
目を開くとそこは変わらず人がいない街道で、だけど村雲江が五月雨江の名を、呼んでいて。
(くもさん)
声のする方に顔を向けると、片手で庇を作った村雲江が樫の木を見上げていた。
「こっち終わったよー。雨さんは大丈夫だった?」
「……ええ。何事も起きていません」
同じように庇を作って目の端にかかる光を遮ると、随分と目の前が見やすい。桃色の穏やかな表情に次第に呼吸がしやすくなっていくのが分かった。
「あ、あそこ子どもが歩いてる。家に帰るのかな」
そう言って村雲江が指さす先には幼子が二人、大きい方が小さい方の手を引いて歩く背が見えた。先程までは確かに誰もいないはずだったのに。
「いいな。俺たちも早く帰ってごはんにしよ」
疲れちゃったと笑う村雲江につられて頬を緩め、大ぶりの枝から降り立った。
「どうしたの? 嬉しそう」
「ええ。さすがは雲さんだなと思いまして」
「んん? 俺何かしたっけ?」
何もしていない。だからこそ凄いのだとは言わずに五月雨江は笑んだ口元のまま薄紅の瞳を見つめた。覚えのない事で褒められた困惑を乗せたまま何度も瞼が閉じては開く。そして照れたように視線が道の先へと逸らされた。
「それより早く帰ろうよ。雨さんずっと木の上にいたんでしょ。身体冷えてない?」
「風も冷たくなってきましたし確かに少々冷えたかもしれません。雲さんこそお腹が痛くなっていませんか?」
「ちょっと痛かったけど雨さんの顔見たら良くなってきたかも。帰ったらお風呂であったまろ」
「はい」
話す内に日はまた西に移動し、己を喰らい尽くさんばかりに感じられた光ももう大分弱くなっている。
(私には共に歩く仲間がいて、人の営みがこの先も続いている事を知っている)
「……やはり美しい」
「うん。綺麗な夕焼けだねえ。詠んでから帰る?」
夜になりかけの、自分達の色でグラデーションを描く空を見上げて五月雨江は首を振った。
「十分堪能しましたから。さ、帰りましょうか」
無人の道に孤独を見出すこころ、詠む事で折り合いをつけようとするこころ、手を繋いで先へ行く幼子達、隣で笑ってくれるひと。どれもが美しい、そして失いたくないものたち。
山稜に隠れた太陽をもう一度だけ見て、五月雨江は村雲江と共に帰路を歩き出した。