毛先にくちづけて、やさしく撫でて「いつから君は髪を伸ばしているんだい」
ふいに問いかけられて、俺はイライ・クラークのほうを向く。イライはそんなに重要な意味もなく、普通に雑談として話しかけていたようで、振り向いた俺の顔を見て、驚いたように首を傾げた。
「失礼な質問だったかな? すまない」
「いや、そういうわけではない。そんな大それた意味もなくて、髪は伸びると邪魔だろう? 下手に短くするより、くくっていたほうが楽なんだ。肩に当たって邪魔だと思うようになったら、こう掴んでナイフで切ればいいしな」
後ろにまとめた髪を左手で掴んで、右手で切り落とす真似をする。
「君が自分で切っているのかい?」
「ああ、楽だからな」
「はあ、すごい器用だね」
「褒めるほど器用なものでもないさ。女性陣と違って、身目に気をつかう必要はないからな」
「まあ、女性に比べたら、わたしたちなんて比べるのすらおこがましいものさ」
「お前はどうしているんだ」
「わたしは故郷にいたころは……それこそ婚約者に切ってもらっていたかな。町のひとに切ってもらったことも。母が生きていたころは母に頼んでいたね。襟足とかは自分でも切れるんだけど、後頭部がどうしても、ね」
「フードで隠れるのにか?」
「一応のエチケットさ」
イライは少し拗ねたような声を出す。
「また伸びてきたから困っているんだ。どうしようね、この荘園だと誰に頼めばいいのか……ナワーブ、君切ってくれないかい?」
「……は?」
俺の素っ頓狂な声にイライはぱちりと大きく瞳は瞬かせた。そこまで驚くことかとその瞳が語っている。
「ダメかい?」
「いや、まあお前がいいなら構わないが」
「じゃあ、もう少し伸びたらお願いしようかな?」
イライは安堵したように笑う。そのいつかに俺は少し怯えていた。
そんな話をしたのが二週間前。
彼の髪を切るより早く、俺の髪が短くなった。
今日の試合中、血の女王との対戦中。彼女の凶刃からウィラ・ナイエルを守ろうとしたとき。彼女のガラス片のようなナイフが俺の背中ではなく、頭部の表皮と髪の毛をばっさりと切った。頭部の傷は本当に刃先が触れたぐらいのものだったが、髪の毛はだめだ。角度も相まってか、右側の耳の後ろから大分短くなるまで切り落とされてしまった。
しかも、面倒なことに負傷とは異なり、髪の毛はもとに戻らないらしい。縛れないだけならまだしも、相当ざんばらに切られたらしく、庇われた当の本人であるウィラも苦言のように「整えたほうがよろしいわね」と眉根を寄せて告げてきた。
親切なエマやマーサから「整えましょうか」と提案されたが、俺はそれを素直に受け入れることができず、曖昧な返事を返す。すると、意固地になった女性陣から「ならわたしが」「ならわたしが」と次々に手が挙がっていく。こうなると、固辞する俺がだんだんと悪者になり、野次馬とかした男たちがわらわらと囲んで、俺の対して「誰がいいんだ」「なにがダメなんだ」と声をかけていく。
どうしてこんな目に。ホールドアップしたまま、俺はみんなが諦めてくれるのを待った。
「どうかしたのかい?」
すんと透き通るような声でイライがだんごと化していた俺たちに話しかける。俺がなにか紡ぐよりも早く、ウィリアムがイライの肩に腕を回した。
「イライ、聞いてくれよ。ナワーブが贅沢者なんだ。よりどりみどり、美しい女性陣があいつの汚くなった髪を整えてやるって言っているのに、だれの提案も受け入れようとしない」
どう思う、という問いかけに対して、イライは首を傾げて俺のほうを見た。どうにも語弊を生みそうなウィリアムの説明だが、大筋は合っているため否定もしにくい。するとイライが小さく手を上げた。
「それならわたしが彼の髪を切ろう。それこそ今度わたしの髪を切ってもらう約束をしていたんだ。だから、代わりと言ってはなんだけど」
「まだしてもらってない行為のお礼にってか? んはは、いいじゃねか。そうしろよ」
アユソが手を叩いて笑う。女性好きのこの男は俺の現在の状況を面白いとは思っていないだろう。野郎と野郎が髪を切りあうならば、これ幸いといったところだろう。女性陣もそういうことならと引き下がり始めた。
「うん、じゃあ、わたしが切るかたちでいいかな? あとから来たのにいいところを奪ってしまうみたいで申し訳ないね」
「いいえ、イライさん。ぜひ彼の髪を清潔感に満ちた髪型に整えてあげて」
嫌味にも近いウィラの言葉にため息がこぼれる。大概、この荘園に足を運んだ女性たちはみな強すぎるのだ。イライも同様に苦笑いをして、「任せてくれ」と胸を叩いた。
♢♢♢
「すまない」
食堂から麻袋をもらってきたイライが俺の首元にそれを巻く。そよそよと頬を撫でる風が気持ちいいのに、臓腑はむかむかと怒っている。申し訳なさと同時に背後に立つイライに対してぞわぞわと皮膚を這うような不快感を抱く。
「いや、わたしは構わないけど。君は大丈夫かい?」
そっと気遣う声。彼は準備が完了しているにも関わらず、背後から回って、俺のすぐ横にしゃがんだ。
「君、本当は髪を切られること苦手なんだろう? 私が背後に立つとわかりやすく体を強張らせているし、声も、すこし震えている」
そのとおりだ。俺はひとに髪を切ってもらうのが苦手だった。だから、村人にも、婚約者にも、そして俺にも散髪を依頼できるイライのことが理解できない。
他者に背後を取られるなんて、いつ殺されるか分かったことじゃない。しかも、首の近くに、急所の近くで刃物が動く。そんなこと恐ろしくて仕方がない。俺は臆病なのだ。臆病になった。戦争で死んでいくたくさんのひとを見て、死体が人間だったものではなく、なにかごみのようなタンパク質の塊として扱われる光景を目にして。俺は他人が怖い。信用ができないのだ。
言葉に詰まっていると、イライは困ったように笑って、俺の手を取った。
「ナワーブ、わたしは君を傷つけたりしない。でも、君は警戒してしまうだろう? どうかな、わたしが君の髪を整えているあいだ、この手に武器を持っているのは」
「……は?」
ひどく落ち着いて声で話すから、自分が聞き間違えたようにも感じた。
「ほら、わたしは君より弱いし、本当なら君に勝てるはずがないんだ。それでも不安なら、こういうかたちのほうが安心できるかなって」
「俺が錯乱でもしてお前を切るかもしれないんだぞ?」
「君はそんなことしないから大丈夫だよ。ただの保険さ。君が安心できるようにするためのね」
イライが子どもでもあやすように俺の手をやさしく叩く。そこまで信用してくれているのに、俺は、どうして、こんなに……臆病なのか──。
小さく深く長く息を吐き出して、俺は自身の両頬を叩く。パンッと乾いた音にイライは瞠目し、立ち上がった。
「な、ナワーブ?」
「大丈夫だ。切ってくれて構わない」
「え、でも」
「大丈夫だから」
それだけの信頼を得て答えないのは男ではない。そうかい? と首を傾げたイライは俺の背後に立って、一瞬だけ、毛先を撫でた。なにかが触れた感触に振り返ろうとすれば、イライが小さく言葉を呟いた。
「彼を見守り、ともに生きてくださりありがとうございました」
「それは?」
「え? ああ、髪の毛は魔力がこもるとも言われるし、この毛先のほうは君の努力を一番見てきているからね。一応祈りというか、感謝というか」
恥ずかしいね、と呟き、イライは深く息を吐いた。
「じゃあ、切っていくよ、大丈夫かい?」
「大丈夫だ、問題ない」
さっきまでの恐怖心はもうない。鋏の音とともに、髪の毛に触れるイライの手。彼が触れた場所がひどくむずがゆい気がする。じわじわとくすぐったくてひどく熱い。そうして、ひどく心地よかった。