八月、蒸れた部屋の中、キュルキュルと回る扇風機が気持ちばかり涼しさをもたらしている。だが、それでは到底この不快感を拭えなかった。
「あづぅー」
コウは部屋主の好意に甘えて、扇風機の前を陣取っていた。当の主……カイは、扇風機に張り付くコウの背後で、コンビニのロゴが印字された安っぽいうちわを仰いでいる。
「今日は良い天気だからな〜」
カンカンと照る窓の外にちらりと目をやったカイは、四つん這いで扇風機の横に移動すると、うちわをコウに向けて揺らし始めた。
「ありがと……」
気持ちは嬉しいが、体は今にもどろりと溶け出しそうだ。張り付く服が余計に暑さを感じさせている。
「あのさあ……」
力が抜け、ぺしょりと床に伏したコウが、カイを見上げた。間延びした相づちが返る。
「脱いでいい?」
「え? どっち?」
突飛な言葉に、ぱちくりと目を丸くしたカイはどこかズレた返答をして首をかしげた。
「えー……どっちって……上と下?」
「うん」
話すうち、風力の弱まっていたうちわが、動きを止める。
「両方?」
コウはそう言いながら仰向けに転がる。熱い手の先が当たっても反応を示さないカイは、若干虚ろにすら見える目でふーん、と返す。やがてうちわから手が離れ、迷うように自身の服に触れる。
「脱ぐのも手かな……」
「そうだよ、脱がないとやってらんねーよー」
投げやりに言い放ったコウは、勢いをつけて起き上がる。そして薄手のTシャツをがばりと脱ぎ去った。人工的な風が、汗のかいた肌を強く冷やす。カッと目を見開いたコウは腕を突き上げた。
「開放感パねー」
暑苦しいな、と呟きが漏れるが、コウは気にした様子を見せない。抵抗感の拭えないらしいカイが、首を傾げる。
「そんなに変わる?」
「全然ちがう!」
抵抗のての字も無いコウは、立ち上がった途端にズボンも下ろしてしまった。
「涼しいくらい」
ワハハと笑うその姿は、今日一番の元気と言っても過言ではない。
カイはぼんやりした頭でコウを見上げる。その脳は、じりじりと暑さに焼かれていく。
その時、一筋の汗が首を伝い、シャツに吸い込まれた。そのくすぐったさにひくりとまぶたが引きつる。
大きく熱いため息が出た。
「いっか」
その言葉に、コウがお? と視線を移す。カイはTシャツの襟口を掴み、乱雑に首筋を拭うと、そのまま引き上げ、ぽいと床に投げ捨てた。
コウは扇風機から横にずれて指し示す。
「風当たったらもっと涼しいぞ!」
言われるままのろのろと機械の前に這ったカイは、唸るような声を上げる。
「うああああ……マジじゃん……」
「マジだろー?」
「こうなると下も鬱陶しいな」
カイ横に座り込んだコウは、律儀に口元に手を添えながら、ヒューヒューと声を上げる。
「だろー? ほらほら、やっちゃえー」
いくら涼しさを感じても、火照った体はそう簡単には冷ませない。ひひひ、と笑いが込み上げてきた。
「うっし、下もいきまーす!」
ピッと手を挙げながら、カイは立ち上がる。
「イェーイ」
昼過ぎの明るいリビング、その宙に黒色のズボンが舞い、大きな歓声が湧き上がった。
炎天下と称すに相応しい日差しを避けるべく、街路樹の下を二人の青年が歩いている。
「帰る間に溶ける気がする」
アイスの入ったコンビニ印のビニール袋を揺らしながら、いつも以上のジト目でキリュウが投げかける。
「五分なら流石に大丈夫だと思いたいね……」
サキは苦笑いとともに返した。
「五分とは思えない距離感」
「なんでだろうねえ」
二人はふわふわとした会話を交わしながら、キリュウとカイの住むアパートに入っていく。
部屋の前にやって来ると、中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「元気か……」
「回復したのかな。良かったじゃないか」
「まあそうだけど。……ただいま」
玄関を開けると、幾分か涼しい風が廊下を抜けてきた。開きっぱなしの扉に、クーラー入れてないのか、とキリュウは不思議そうに呟く。
「みたいだね。お邪魔します」
サキが靴を脱ぐのを待ち、キリュウとサキは揃ってリビングに向かう。
「アイス買ってき……」
居間の入口で立ち止まったキリュウに、おわ、と小さく声を上げたサキは、どうしたのとキリュウの肩越しに奥を見やった。
「うわあ……」
パンツ一丁の友人達が、フローリングの上で大の字になっているという事態に、サキは口を手で覆い隠した。
おかえりと反応を示したコウとカイは、笑いが止まらないといった様子だ。
「何してんだ」
低い声でキリュウが問う。その声と顔とは裏腹に、寝転んでいる二人にアイスを差し出すと、残りをサキに預けて散らかった服を片付け始めた。
「いやー、もう暑くてぇー」
コウはナハーと答えると、ソーダアイスに齧り付いた。
「そりゃ暑いだろ。だからってカイまで一緒になって」
「えへー、ごめーん。思ったより涼しくてぇー」
なー、と顔を見合わせるコウとカイに、呆れ顔のキリュウは、それでもそれ以上は何も言わなかった。
「きーさんもどうすかー?」
「やらん」
「冷たー!」
もはや何を言っても何をしても面白いのか、二人はバッサリ切り捨てられてもワハハと笑うばかりだった。
「暑さって凄いなあ」
サキもつられるようにくすくすと笑っている。
「感心する所じゃないよ」
キリュウはため息をついて、拾った服をざっくりと畳む。
「コウ、お前の分も洗っとくぞ」
「まじすか! あざーす」
そうして洗面所へ向かったキリュウを、ぼんやりと眺めていたサキに、カイから声がかかる。
「サキも汗かいたでしょ? 一緒に洗っていったら?」
「ああ……そうだねぇ」
「そうっすよ! センパイも涼しんでいきましょう!」
「いや、ここオレん家だから!」
ドッと二つの笑いが起こる。
「ふふふふ、楽しそう。僕も混ざろうかなあ」
そこに、控えめな声が重なった。いいぞー、わー、と歓声が上がる中、サキはシグレニのTシャツを脱ぎ、タンクトップ姿になった。
「おいおいおいおい」
そんな声を聞きつけてか、キリュウが珍しく慌てた様子で戻ってくる。
「あ、きーさんも脱ぐ気になりました?」
瞬く間にアイスを食べ終え、再びフローリングに伏していたコウが、ニコニコと問いかける。
「んな訳あるか。……あー、サキくん、とりあえず、そのシャツも洗うから」
そう告げてサキに手を差し出すと、おねがーいと間延びした返事と共にシャツを手渡される。
ふわふわとした顔で微笑むサキは、どこか遠くを見ているようにも思えた。見たこともないほど気の抜けた姿に、キリュウの脳内で警鐘が鳴る。ただでさえ汗をかいたというのに、変な汗まで出そうだ。
「あ、ほんとだ。床ってつめたいねぇ」
でしょー!という大声に、キリュウはハッとする。いつの間にか、サキまで床に突っ伏していた。
「サキくんまで……!」
「ごめんねぇ」
ぴと、と頬を床につけたサキは、口では謝りながらも気持ち良さそうに笑みを深めている。
「ほらー、サキもこうしてるし、きりゅーも涼もうぜー」
俺はいい、とキリュウは一蹴する。
「フローリング掃除、面倒なんだよ……!」
「そこかよ!」
今日イチの笑いが、アパートの一室に広がった。