Comfort Zone -Reconsideration- 月曜日。
牧場に嫁いだセバスチャンが、毎週顔を出しに寄ってくれる日。ロビンはいつもこの日を心待ちにしていたが、今日に限っては憂鬱だった。ディメトリウスが持ちかけてきた提案を、セバスチャン本人に伝えなければならなかったからである。
「――地下室を?」
「そう……ラボを広げたいんだって」
セバスチャンの自室だった地下室は、まだ本人の荷物が少し残っているものの、部屋としては使われていない。何かあった時のために、ロビンはその部屋をそのまま残しておくつもりでいた。
しかしとうとう、ディメトリウスが空き部屋を使いたいと言い出したのだ。温度変化が緩やかな地下室は、デリケートな生物や薬品などの保管に都合がよいのだという。いよいよ本格的に息子を追い出しにかかっているように感じられて、ロビンも反対はした。だが一度は退けたものの、二度、三度と説得が続くうち――わかった、今度来たときに聞いてみるから、もうその話はよして――そう言わなければ、今でも説得は続いていただろう。
「別に構わないよ」
それはロビンにとっては思いもよらない返答だった。
自分から投げかけた質問とはいえ、ディメトリウス絡みの用件である以上、彼は断るだろうと思っていた。承諾さえ降りなければこの話は無かったことに出来る、そう思ってわざわざ本人に確認をしたのに、まるで——まるで今日の夕飯は手を抜いても構わないかと、そう訊いた時の生返事のような。あまりにもあっさりと許可するものだから、思わず食い下がってしまった。
「本当にいいの?」
「ああ。残ってる荷物だけ回収したら、あとは好きにしていい」
「でも、」
「オレはもう、ルカの牧場に家があるから」
「それは――そうだけど……」
結婚して実家に戻らないことは、喜ぶべきことには違いない。けれどセバスチャンの態度があまりにも淡々としているものだから、もうこの家には未練など無いと言われているような気がして、ロビンは俯いた。
「母さん、オレたちが別れる心配でもしてるのか?」
「だって……この先何があるかわからないでしょう? 別れなくたって、ルーカスが先に――亡くなることだってあるかもしれない。もしそうなったら、セビィはどこへ帰るの?」
かつて自分が別れを経験をしたからこそ、やはり心配になるのが親というものだろう。自分と同じ轍は踏んでほしくはない。彼らにはまだ子供がいないから、やり直しも自分よりは容易かもしれないけれど。
「あいつが死んだら、オレが牧場をやるよ。あいつほど上手くやれるかはわからないけど」
「……じゃあ、もし別れることになったら?」
「…………その時は、ズズシティにでも引っ越すかな。この狭い町で、たまに別れたパートナーと顔会わせながら生活するなんて――そっちの方がオレには酷だ。いっそ新天地に行った方がいい」
セバスチャンは頑なだった。新天地などという言葉が出るくらいだ、やはりもう、この家に未練はないのだろう。そう思うと、これまで口にしないようにしていた質問がつい口をついてしまった。
「この家にはもう、帰ってくるつもりはないのね?」
幸せの最中に水を差す発言であることは理解しているつもりだった。はっとしてセバスチャンを見れば、彼は怪訝そうな顔で、ロビンにこう聞き返した。
「母さん……そんなにオレの結婚に反対だったのか……?」
「違うの、そうじゃなくて! セビィが幸せに暮らしてくれるなら、それはどこだって構わない……今あなたが幸せに暮らしてるならそれに越したことはない、けどこの家だってセビィの家でしょう? たまには顔だって見たいし、いざという時の居場所は残しておきたいんだよ……ズズシティじゃ、こうやって顔を見せにくることもできないじゃない……」
——ああ、自分はまだ子離れできていないのだろう。彼が自分の元から離れてしまうことをこんなに恐れているなんて。
というのも、ロビンはこれまでそうならないように努力してきたのだ。彼がこの家から排斥されないように、その居場所を確保し続けてきた自負がある。そのために作った地下室だった。マルを地下室に住まわせるわけにはいかないというディメトリウスの主張を無視できなかったから、セバスチャンに部屋を移ってもらう際には、なるべく快適になるように設えたつもりだ。
けれど今、それさえも無くなろうとしている。
「母さん、悪いけどオレはもう――あの地下室には戻らないよ」
二の句を継げず、室内が静寂で張り詰める。いつかはこんな日が来るとは思っていたけれど、こうもはっきり言われると、切り付けられたように心が痛んだ。
「居心地はよかったよ、本当に。感謝もしてる——でも、戻りたくないんだ。もし戻るようなことがあれば……オレはまた、あの頃の自分に逆戻りするだけだと思う。それはオレにとって良いことじゃない」
相変わらず夜の闇のような瞳ではあるけれど、それは真っ直ぐとこちらを見据えて、強い意志をその奥に宿していた。いつぶりだろう、こんな眼差しの彼を見るのは。
彼がこの家で暮らしていた頃を思い返す。一日の大半を自室で過ごし、鬱屈とした目で物事を見ては、やり場のない怒りを溜め込んでいるようだった。隠れて変な匂いのする煙草を吸っていたのも知っている。けれどそれを咎めるには、彼の置かれていた状況はあまりに窮屈だったことも理解していた。
「今の生活が、本当に幸せなんだ——できればずっとあの家で暮らしたい。あの家にいれば、こうやって今まで通り顔を見せに来ることだってできるだろ。だからディメトリウスに“お下がり”をくれてやるくらい、全然構わないさ」
どこか誇らしげな様子のセバスチャンを見て、何かが腹の底へ落ちていった。彼はもう、あの薄暗い地下室から本当の意味で出て行ったのだ――ようやくそれを理解して、滲む視界を指先で拭う。
「そう……わかった。心配し過ぎだったみたいね」
「こんにちは! ロビン、魚の池を頼みたいんだけど――っと…………あー、出直した方がいいかな……?」
勢い良くドアを開けて入ってきたのは、件のパートナーだった。何かがあったのを察して語気を弱める彼に、ロビンとセバスチャンは顔を見合わせて笑った。
「ちょうど良かった。ルカ、荷物を運び出すから手伝ってくれ」
「荷物?」
「地下にあるオレの荷物だ」
「いいけど、あ、今から? 大きいのある?」
バタバタと地下に降りていく二人を見送って、ロビンは小さく息をつく。大きな心配事が、一つ減ったのを感じた。それは長いこと腹の内にあったので、少し穴の開いたような気持ちでもあった。
今夜にでも夫に良い報告ができるだろうか――とはいえ、この気持ちまでは夫と共有できないのだろう。彼にとっては地下室が空くこと以上に喜ばしいことはない――いっそそうあってほしい。地下室を望む本当の理由がどうかなど、考えたくもない。
大荷物を運ぶだろうからと、資材運搬用の荷車を準備しに表へ出る。すると、茂みから一匹のカエルが飛び出していった。思わず目で追いかけると、その先にはもう一匹別のカエルがおり、彼らは二匹揃って湖の方へ跳ねていった。
――あの日見失ったカエルも、よき伴侶を見つけられただろうか。夫にとっては大問題だろうけど、彼らが幸せに暮らしてくれるなら、それでいいじゃないか。
小さなカエルの背を見送りながら、ロビンは家の裏手へと回るのだった。