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    はるち

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    POIPOI 187

    はるち

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    振り返らないで前だけ見てね

    音律リー先生でその場所から出られない系のお話です!リクエストありがとうございました~!

    オルフェウスの残響 振り返ってはいけない。振り返れば、あなたは塩の柱になってしまうから。
     振り返ってはいけない。振り返れば、愛しい人を冥府の底へ置き去りにしてしまうから。
     振り返ってはいけない。振り返れば、愛する人が既に腐敗した只の肉塊であると気付いてしまうから。
     振り返っては。
     
    「……」
     目覚めたドクターは、夢の名残を振り払うように頭を振った。陽の光を隙間から零しているカーテンを開け放つと、太陽の眩しさが目を焼き、瞼の裏側に残る悪夢の余韻を焼き清めた。それでも胸の内側へと積もった澱までを祓うことはできず、だからのろのろと寝台から這い出したドクターはシャワー室へと向かった。随分と魘されていたのだろう。汗で下着が肌に張り付いて気持ち悪い。喉の渇きに、ドクターはテーブルの上へと放置されていたペットボトルに手を伸ばした。一晩封を開けて放っておいたものに口をつけるのはやめてくださいよ、腹でも壊したらどうするんです――という声が聞こえた気がして、それが幻聴でしかないと理解しているからこそ、耳を塞ぐように生温い茶を煽った。勢いをつけすぎたせいで唇の端から溢れ出し、寝巻を濡らす。どのみち洗濯が必要だから、とドクターは肌を濡らす感触を無視した。生温かいそれは、どうにも、血が肌の上を伝い落ちる感覚と似ていた。彼を失ったあの夜に、大地を濡らした赤色も、同じ感触がするのだろうか。
     がん、と乱暴にペットボトルをテーブルの上に置く。シャワーを浴びて頭を冷やし、悪夢と妄想を追い出す必要があった。今日もやることは山済みだ。これ以上、アーミヤに心配をかけるわけにはいかない。自分が誰を失っても、誰が死んでも、やるべきことに変わりはないのだから。
     この大地に、変わらず朝は訪れるのだから。
     
     自分が死んだら、遺体は燃やしてほしい――というのは、以前彼が言っていたことだった。それがどのようなタイミングでの言葉だったのかを、ドクターは覚えていなかった。だから飲んでいるときか執務室での雑談か、ともかく他愛ない会話の一つだったのだろう。
    「火葬がいいの? それは君の宗教?」
     死をどのように弔うかは、文化的な背景によるところが大きい。移動都市というものが登場して以降は、限りある土地を有効に使用するために火葬が主流となっているが、都市の移動を前提としない地域では依然として土層の文化が根強い。だから、彼の故郷では土葬の風習があるのか――というドクターの眼差しに、リーは肩を竦めた。まあそんなところですよ、と。どうにも奥歯にものが挟まったような物言いに、ドクターは眉をひそめる。
    「いやね、大したことじゃあないんですが」
     口調は努めて明るく、それはどこか取り繕ったもののようにも感じられた。地の色を隠すために、敢えて金箔を貼ったような。死というものについて、そして死体について語っているとは思えないほどに軽薄な口調。彼が、その重さを理解していないはずがなかろうに。
    「その方が良いかと思いまして」
    「良い、って」
     それはますますどういう意味だ。はぐらかされているという苛立ちは、困惑へと色を変える。それを汲み取った彼は、どう説明したものかと考えながら、ぽつぽつと呟いた。
    「化けて出たら困るでしょう?」
    「化けて出る? 君が?」
     幽霊にでもなるのか? だとすれば火葬だろうが土葬だろうが変わりはないのではないのだろうか。困惑しているドクターに、リーは口元に曖昧な笑みを浮かべる。言葉にすることで、それが現実になることを恐れているように。
    「だから、燃やしちまった方が良いんですよ」
     身体と、そこに残る思いを。
     そうでもしないと――という呟きの先に、果たしてどんな言葉が続いたのだろう。尋ねておけば良かった、とドクターは思う。もっと彼と、話をしておくべきだった。
     彼が、あんな死に方をする前に。
     
     ***
     
    「身体は見つかりませんでした」
     帰還したオペレーターからの報告を、ドクターは気象情報か何かのように聞いていた。それが意味していることは理解できるが、それによって惹起される感情にどんな名前を与えるべきなのかは何も理解が出来なかった。身体から切り離された理性だけが言葉の意味を理解し、現実を理解させる。負傷したオペレーター、三名。死亡したオペレーター、五名。行方不明となったオペレーターは一名。しかし現場に残された血液の量から生存は絶望的。血痕は森の中へと続いており、身体は今も見つかっておらず――
     
    「ドクター、……大丈夫ですか?」
     気づかわしげにこちらを覗き込むアーミヤに、ドクターは大丈夫だよ、と微笑みかけた。顔色は、そう悪くないはずだ。あの日以降、幾人ものオペレーターに同じことを聞かれているが、ドクターは至って大丈夫だった。定期的な睡眠を取っているし、食事も一日に三回取っている。彼がいたら、きっと自分にそう言っただろうから。彼の幻聴が、自分にそうしろと囁くから。
    「あまり、ちゃんと眠れているようには見えませんよ。……医療オペレーターに診てもらいましょうか?」
     眠れていない、のだろうか。ドクターは自分の頬に手を当てた。ロベルタに教えられたとおりの化粧をしても、血色の悪さと目元の隈は、そう簡単に誤魔化せるようなものではないらしい。それに、心当たりがないといえば嘘になる。
     あの日から、毎晩ずっと同じ夢を見る。
     暗闇を彷徨う夢だ。たった一つの光に向かって、足元から這い上がる闇に呑まれぬように、必死で足を動かし続ける夢。手探りで生温い闇を掻き分け、前に進み続ける夢。けれど自分が目指す光とは、果たして何であろうか? それすらわからないまま、背後から聞こえる声に急かされるまま進み続ける。
     振り返ってはいけない。
     靴は脱げていた。足の裏から地面の感触が伝わり、その冷たさに肌が避け、溢れ出た血が足を濡らす。爪が剥がれる。大地を踏む度に、痛みで叫びそうになる。けれど足を止めてはいけないことは警告されていた。本能でわかっていた。足を止めたら、追いつかれてしまう。
     何に?
    「大丈夫だよ。……ちょっと、夢見が悪いだけだから」
     アーミヤの表情は一向に浮かないままなので、でももう少し続くようならハニーベリーにでも見てもらおうかな、と言い添える。途端に安堵の息を吐く少女を見て、本当のことを伝えていない罪悪感が、また一つ胸を重くする。
     悪夢を見る理由はわかっている。――約束を守れなかったからだ。彼に頼まれたことを果たせずにいるから。どれほど探しても、彼の遺体は見つからなかった。生きている、などという楽観的な期待をするほど純粋にはなれなかった。野犬にでも食い荒らされたのか、それとも――
     ――化けて出たら困るでしょう。
     ドクターは一度だけ目を閉じた。
    「やっぱり、……今日は午後から休んでも良いかな?」
     ちょっと疲れているみたいで、と言えば、少女は大丈夫ですよ、と頷いた。手元にあるコーヒーを煽って、夜の如く黒いそれで、湧き上がる感情に蓋をする。
     化けてでもいいから君に会いたい、などと。約束の一つすら果たせない自分に、願う資格はあるのだろうか?
     
     ***
     
     大往生なんて贅沢な願いだ、と彼は言っていたけれど。彼にはその資格が十分にあった。
     だから彼の願いが叶わないのならば、それは自分のせいだ。自分が、彼を巻き込んだからだ。自分の戦いと、自分が果たすべき責任に。
     ならばどうやって、この罪を償えばいい?
     ドクターは処方された眠剤を水と共に飲み、そして横になった。睡眠という、生きていくうえで欠かせない行動さえ満足に行えない自分は、生きているべきなのだろうか。疲れているのだ、と自嘲する。アーミヤが言うように、ケルシーに指摘された通りに、誰かが心配してくれたように。
     眠りへと沈む感覚は、底のない闇へと落ちていくようだった。そうして彼を失ってから、繰り返し見る夢の続きを演じる。落ちていった夜の底で、何かを探して走り続ける。皮膚が裂け、爪が剥がれても。
     自分が探しているのは光の差す出口なのだろうか。それとも――彼の身体なのだろうか。だって約束したのだ。自分が死んだら、その身体は燃やしてくれと。そうじゃないと――
    「ドクター」
     誰かに、名前を呼ばれた。
     脚を止める。それは何よりも耳に馴染んだ声だった。何よりも愛しい声だった。誰よりも恋しい声だった。
     振り返ろうとして、足の痛みがそれを阻む。痛みとは、危険を伝える信号で、生存を望む本能だった。振り返ってはいけない、と、この夢の中で絶えず聞こえる警告が、耳元で囁かれる。
     この大地に散らばるいくつもの神話に共通して、とある一つの教訓がある。振り返ってはいけない。――振り返ってはいけないのだ。罪悪に焼かれる街を捨てて、生きて帰りたいのならば。冥府の底から、愛するものを取り戻したいのならば。
     だからドクターは振り返らなかった。血の滲む足のまま走り続ける。振り返ってはいけない。振り返ってはいけない。振り返っては――
    「ドクター」
     名前を呼ぶ声は、かすかに、震えているようだった。置いていかれる子どものように。見捨てられた兵士のように。胸が裂けるなら裂けてしまえと願った。彼を置いていくのは、遺体の捜索を諦めて撤退したあの時を合わせて二度目だった。自分は何度、彼を裏切れば気が済むのか? 罵ってほしかった。恨んでほしかった。嘘つきだと、薄情者だと、そう言って欲しかった。
     なのに。
    「それでいいんです。ドクター、振り返らないで――」
     おれのことは、もう、忘れて。
    「――っ」
     そんな、泣きそうな声で、許してほしいわけではなかった。振り返ったという自覚はなかった。この闇の中では、前後の感覚などとうに溶け出している。だからドクターが願ったのは、彼を一目見たいということだけで、
    「――ぁ、」
     腕を、冷たい何かに捕まれる。
     鼻先に漂うのは爛熟した果実のように甘い腐臭だった。腕を万力のような力で抱きすくめられ、逃れることなど許されない。触れる肌は冷たかった。氷のように。鉱石のように。――或いは、死のように。自分を見つめる金色だけがかつてと変わらず、闇の中でも月めいた輝きを放っている。ドクター、と、彼が自分のことを呼ぶ。なのに何故、こんなにも身体が震えるのか?
     燃やしてくださいと彼は言った。自分の身体を、思いを。そうでもしなければ、きっと――
    「ドクター。ドクター。良かった――ようやく」
     彼はうっとりと微笑んだ。禁忌を犯した咎人には等しく罰が与えられ、太陽が昇ることは二度とない。それこそが夜の底に巣食う亡者の本願だった。彼は今、ようやく、彼だけの罪人を手に入れる。
    「つかまえた」
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