一緒に食べよう 高専入学一日目午後九時。五条悟は過去最大のピンチに陥っていた。飯を食べるために何をすればいいのかわからないのである。食堂の場所は知っている。だが、今までは時間になると勝手に食事を持ってきてそれを独りで食べる生き方をしてきたためそれ以外の食べ方を知らない。食堂に行くということすら思い浮かばなかった。
朝高専に来る前に飯を食べてから既に十五時間。人は腹が減りすぎると鳴らなくなるんだなと密かな感動を覚えても解決にはならない。どうしようかと考えると隣の部屋のクラスメイトの顔が浮かぶ。一般家庭出身の彼であれば飯を食べる方法も知っているのだろう。だが午前中に喧嘩したまま別れていて気まずい。聞きに行くべきか行かざるべきか、問答を繰り返してきた五条だったがどうすればいいのか悩んでいるうちに時間はどんどん過ぎるし、なんだか力が入らなくなってきた気がする。これが本当の空腹感かと感慨に浸る余裕はもうなくなってきていた。体調もおかしくなってきたのだろうか。薬も手にいれたほうがいいだろうか、回らなくなってきた頭で漸く問答をすることを辞めた五条は、解決方法を教えてくれそうな隣の部屋へ向かった。
「何」
先ほど盛大に喧嘩をした相手、夏油傑は怪訝そうに五条を見る。
「空腹に効くくすり……」
これでなんとかなる、という安心感からだろうか、五条の意識はそこで途切れた。
「……くん、五条君、できたよ」
体を揺すられた感触で意識を浮上させると、美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。ゆっくり目を開けると目の前に夏油が少し心配そうな顔をして五条を見下ろしている。
「ここは……?」
「私の部屋だよ。空腹に効く薬なんていうから何かと思ったじゃないか。こんなものしかないけど、一緒に食べよう」
離れていく夏油を視線で追うように体を起こすと茶色いスープに浸かった茶色の麺のようなものに卵が載っている、見たこともない暖かいものがテーブルに置かれた。
「これ……?」
不思議そうな顔をする五条に夏油はああ、と合点がいったような顔をして説明を始める。
「インスタント麺だよ。これくらいしか作れるものがなくてね。もしかして食べたことなかったかな?」
「お前が、作ったのか」
「お湯入れて卵落としただけだから作るうちにも入らないけどね。食べよう、おなかすいてるんだろ」
夏油は箸を持つと勢いよく麺を口に入れた。その様子を見ていた五条もゆるゆると箸を持つと「いただきます」と呟いて麺を一口含む。
「……う、っっま……!なに、これ!」
濃いし、なんだかよくわからない味だけれど、とにかく美味しいし、なにより暖かさが体に染みていく。生き返るってこういうことを言うのかもしれない。
「口にあったならよかったよ」
美味しい美味しいと繰り返して目をキラキラさせながらラーメンを食べ進めていく五条は昼間見たムカつく野郎ではなく幼子のような可愛らしさがあって、夏油は思わず笑顔になった。と同時に担任の言葉を思い出す。
「五条家は特殊な環境だ。世間のことはほとんど知らないと言ってもいい。悟に世界を教えてやってくれないか。傑なら、悟と対等にやっていけると思う」
世界、ね。自分の知る世界だってたかだが十五年生きてきただけの小さい物だけれど、このクラスメイトがこんな風に喜ぶなら私の世界を知ってもらうのも悪くないかもしれない。
「うまかった!!!ご馳走様でした。ずっと食べていられるなこれ。なあなあ、この会社買い取るにはどうすればいい?」
「はぁ?買い取る?ダメに決まってるだろ!ずっとこれ食べ続けるのもダメ!栄養偏るから明日は食堂で食べるんだよ!」
「はぁ!?やっと家出られたのに好きなもん食えねえのおかしいだろ!」
前言撤回、五条にはまず常識を叩き込むのが先のようだ。
「このラーメン以外にも美味しい物はたくさんあるから!まずは明日食堂に行こう」
なだめすかして漸く食堂へ行く約束を取り付けたころには日付が変わる時間になっていて、夏油は頭を抱えたのだった。
翌日、午前中の授業が終わったと同時に五条が話しかけてきた。
「食堂……行かねえの?」
こちらを伺うような聞き方にくすっと笑いながら夏油は頷くと席を立った。もう一人のクラスメイト、家入硝子がへぇと感心したように二人を見つめる。
「昨日とは全然違うじゃん。いつの間に仲良くなったの」
「ああ、まあ……」
どう伝えようか夏油が迷っている間に五条が身を乗り出して返事をした。
「こいつさ、昨日空腹に効く薬をくれたんだよ!暖かくて、美味かったんだ」
「空腹に……?ああ、なるほど、夏油が夜食を作ったのか」
家入も夏油と同じ一般家庭出身だが素質を認められて高専に入学してくるだけはあって、頭の回転はかなり早い。五条は嬉しそうに続けた。
「そう!俺どうやって飯食ったらいいのかわからなくて朝食ってから何も食べてなくてさぁ、こいつんとこにお腹すきすぎてふらふらしながら行ったら倒れたんだよね」
へらへらと告げられた言葉に夏油は驚いて五条を振り返った。今、なんて言った?
「……待ってくれ五条君、朝食べてから何も食べてなかったのかい?」
「うん、食堂の使い方知らないし」
夏油は頭を抱えて大きく溜息をついた。食堂の使い方を知らないってどういう日本語だろう。いや五条家のお坊ちゃまなら使ったことは確かにないだろうけれど、さすがにそこまで世間を知らないとは思っていなかった。昨日は夕飯の時間に食堂にいなかったから夕飯を食べていないのだろうという予想はついていたが、まさか昼も抜いていたとは。そんなプチ断食状態だと知っていればインスタント麺じゃなくておかゆを出していたのに。胃は大丈夫なのだろうか。
「マジか……インスタント麺でお腹壊さなかったかい?」
「あんな美味いもん食って体壊すわけねーじゃん。なんともねーよ。さっさと食堂行こうぜ」
夏油の心配に全く気付くことなく、五条は教室のドアを開けるとそのまま歩き出した。美味しいと言ってくれるのは嬉しいんだけどね、と呟きながらその後を追う。
「夏油も大変だな、まあ、こいつの体は丈夫そうだから平気だろ、頑張れよ」
励ましのようなそうでもないような家入の言葉を背中で受けながら、二人で食堂へと向かった。
昼間の食堂は活気に満ちている。
「まず、ここの見本で中身確認してから、この券売機で食券を買うんだ。んー何にしようかな。日替わりランチの生姜焼きかな。五条君は何にする?」
「お前と同じものでいいよ」
食い気味に返事をしてきた五条に今日何度目かの驚きを夏油は覚えた。とはいえ決まっているのであれば話が早い。いつ人が並ぶかわからないしと思い、券売機に五条を案内した。
「じゃあ500円だね、ここに入れて」
「……小銭ねーんだけど。万札は使えねえの?」
そうだ五条はお坊ちゃまだった。あとで小銭入れを買いに行かせよう。夏油は思わず出そうになった独り言をぐっと飲み込んで両替機の場所を伝えた。素直に両替をして戻ってきた五条は恐る恐る買った食券を珍しそうに眺めている。
「それをここでおばちゃんに出すんだ。すいませんここ二つごはん大盛でお願いしまーす!」
「おねがい、しまーす」
夏油が食券を出し、食堂のおばちゃんに注文するのを見よう見まねで五条も食券を出す。するとすぐに出来立ての生姜焼き定食のお盆が二人の前に置かれた。じゅーっと音がする豚肉に五条は釘付けである。
「美味そうだなこれ!」
早く食べたいと全身で主張する五条に箸の場所と給湯器のやり方を教えてから漸く席につく。給湯器も面白がった五条のお盆には湯のみが三つ置かれていた。
「いただきます」
「いただきます」
夏油がまずはみそ汁を一口飲み、生姜焼きの肉をご飯の上に載せて一緒に食べる。五条はそれを見ながら同じようにみそ汁を飲み、生姜焼きの肉をご飯の上に載せて一緒に食べた。
「うま……」
暖かい生姜焼きの美味しさに感動したように一言呟いて、再度ご飯を食べていく五条はやはり瞳がキラキラしていて可愛らしい。ほほえましく思いながら夏油も箸を進め、ご飯のおかわりまでしてあっという間にその日の昼食は終わりを迎えた。
「なあ、世の中ってこんなに美味いもんがたくさんあるのか?」
「そうだね、五条家で出されていた食事と同じ食事だったら五条家の方が美味しいと思うけど、君が今まで食べたことのない料理で美味しい物もたくさんあると思うよ。さて、片付けようか」
片付け方もわからないだろうと夏油は率先してお盆を返却口に置きにいく。五条も後ろからついてきて同じようにした。
「ごちそうさまでしたー!」
「ごちそうさまでしたー!」
掛け声までずっと真似をされていたせいか、なんだか親のような気分になってきた夏油がふと横を見ると「ご自由にどうぞ」と書かれたお菓子が置いてあるのが見えた。
「へえ、こんなのもあるんだ、いいね」
「なにこれ」
「お菓子箱といったところかな。自由に持って行っていいらしいよ」
夏油は自分が食べられそうなクッキーと煎餅を取る。五条も同じクッキーと煎餅を手に取った。
「そんだけしか持っていかねえのかよ」
「私はそこまで甘いものが得意じゃないからね。五条君は甘い物好きかい?それならもっと持って行っても……」
「あーそうじゃなくて、食い物を好き嫌いで考えたことねえんだよ。毒見したものでないと食わせてもらえなかったし。見たことないもんが沢山あるなって思っただけ」
ああ、そうか。五条にとって食事はお菓子含め全て与えられるものであって、例えばカレーとハンバーグどっちが食べたい?などと聞かれて好きな方を選ぶことは出来ない。私が食べた後に食べ始めていたのも出されたものが安全かどうかがわからなかったからだ。それが御三家の跡取りとして当然のふるまいなのだろう。
「ならもうちょっと持っていこうか」
飴とチョコレート、スナック菓子を二つずつ手に取り、五条に半分渡すと、怪訝な顔をされた。
「甘いもん苦手なんじゃなかったのかよ」
「一度に沢山は無理なだけで食べられないわけじゃないさ。こういうのはバランスなんだ。甘い物、甘くないもの、甘い物、ならいけるから両方持ってきたわけだしね」
「なにその理屈。ウケる」
あははと笑う五条の表情は初めて見るものだった。もともと整った顔立ちだし、いわゆる美形だというのはわかっていたけれど、美味しいご飯を目にした時のきらきらした顔といい、いつまでも見ていたくなるような笑顔の持ち主に出会ったのは初めてだ。夏油は思わず問いかけていた。
「ねえ、一緒にいろんなものを食べに行かないかい?私と同じものなら食べられるだろう?そして、五条君の好きな食べ物を見つけていこう」
「俺の好きな食べ物?」
「そうだよ。見たことのない料理もあるってさっき言ったけど、見たことがないお菓子もたくさんあると思うしね。そうだ、駄菓子屋に行くのもいいね」
夏油の誘いに一瞬ぽかんとした五条だがすぐに笑顔全開で何度も頷く。
「傑が一緒なら、行きたい」
「よかった…って、え?あ、名前……」
昨日喧嘩の前に自己紹介はしたものの一度も呼ばれていなかった自分の名前、それも苗字ではなく下の名前でいきなり呼ばれて夏油は混乱した。名前を覚えていたことへの驚きと呼ばれたことの驚きとで言葉に詰まった夏油を気にすることなく、五条は続ける。
「ああ、夜蛾センも名前で呼んでるから俺も名前で呼ぶわ。俺のことも悟でいいから」
さとる、と口の中で読んでみる。五条君と呼ぶよりよほどしっくり来るが少し照れくさいような気がした。慣れていくしかないかと腹を決めて、夏油は頷く。
「じゃあまずはこのお菓子を食べようか、悟。途中の自販機で飲み物も買おう」
「おう!」
この先きっと悟と二人で一緒にいろんな経験ができる。家入さん……硝子を誘うのもありかもしれないかな。ここでの生活は思ったよりもずっと楽しくなりそうだと思いながら、夏油は自販機の使い方を教えるために食堂を後にした。