パン屋の長男を落としたい佳人の話「はいこれ」
無一郎から大きな紙袋を受け取る炭治郎は、落としたら大変だとしっかりと抱え直す。今にも底が抜けそうな、想像よりずしりとしていて、わ、と声が漏れた。
「重かったんじゃ」
「車で来てるから大丈夫」
「あ、四冠?おめでとうございます」
「ありがとうございます。危なかったけどなんとか。ちなみに五冠」
似合わない謙遜を口にしながらフッと微笑む時透無一郎という人物は、ここ十年凌ぎ合うようにタイトルを分け合う兄とともに朝夕問わず共にテレビ欄を賑やかし、専門誌を飛び出してついに女性週刊誌の表紙までにも登場するアイドル顔負けの人になってしまった。
"天才双子プロ棋士"とうたわれた姿が画面に映し出されれば「あ、出てる」程度のものだったけれど、誰が言い出したのか『佳麗なる双王子』などと言う二つ名を持つ様になって以降はあらぬ姿で世の中が傾倒し始め「すごいまた出てる」に変化した。
しかし、周囲がヒートアップするほど顕著になるその素っ気なさにハラハラもした。普段見せてくれる愛嬌はどこに行ったのかと尋ねてみると「笑いたい時に笑う」との返答に、そりゃそうだと腑に落ちた。
その言葉通り昔からものすごい社交的な性格ではなかったが、つい先日放送されたインタビューでも柔らかに聞き手に対応する兄に対して終始ぴくりとも動かない表情筋、やっと口を開いたかと思えばかなり足りない言葉数。まるで日本語を忘れてしまったのかと思うほどだ。
しかし大方の視点ではそれがミステリアスに映るらしいので本当に不思議だ。
注目されているのは被写体として彼が微笑む唯一の、対局相手が敗戦の意を示した時だ。その時を待っていたかのように口角を弓形に持ち上げ目を細める姿に世の女性たちが儚げなため息を零す。それもそうだが、競うように対局中に口元を隠すように扇子を滑らかに広げる所作もすらも話題だと言う。
今回もタイミングよくそれを観る事が出来た炭治郎は、少しばかり苦たらしく目を細め笑いを堪えた。
それを初めて見たのは遅めの昼食を摂っている時だった。ワイドショーの『時透兄弟大解剖!』と安直に銘打ったワンコーナーはその言葉通り飽きるほど兄と弟の経歴と戦歴、果てはその美貌まで掘り下げた内容だった。あらゆる角度から切り込んだ内容は単純にすごいというか、記念に録画でもしておけば良かった…など思う内、「おや?」と思った次の瞬間、思わずみそ汁を吹いた記憶を鮮明に覚えている。
和装がよく似合う長い艶髪をサラリと肩に滑らせながら目を細める姿が「佳麗」の所以なのだそうだ。が、それはただ単に投了への一本道に誘い、知らぬ間にジリジリ追い詰められている事態に相手がいつ絶望するか、そんな愉悦に浸っているのを悟られないようにしているだけだった。
気が付いてしまってからというもの、何で誰もそれ気付いてないのが不思議すぎて可笑しいのだ。
人間味があって凄くいいのだが、もっと凄いのは土産の量。
遠方から戻ってくる度に個人宅への土産にしては些か気後れする量を欠かさず携えてくるのだが、最初は遠慮していたがその度ものすごく悲しそうな顔をするので申し訳ないと思いつつも受け取る事になってしまった。
「生ものもあるから早く冷蔵庫入れてね。一応ちゃんとしてきたつもりだけど」
袋の中を覗いてみると今回も大小様々に箱が複数入っていて、その中に保冷バッグに入った包みがある。いつもは弟妹たちが喜びそうな菓子類が多いが、今回は何が入っているのだろう。
事前に聞いていた今回の滞在先は福岡、閃いた炭治郎は目を輝かせる。
「明太子?」
「当たり」
炭治郎はいそいそと包みを解くと、黒塗りの木箱の肌が艶々で滑らかで、いかにも高級そうなオーラを出していた。
「炭治郎好きそうだなって」
気が急いて玄関先で箱を開けてしまった炭治郎は今度は体を硬くする。
万が一ひっくり返そうものなら顰蹙ものだし、何より目の前の贈り主に大変失礼でもある…と思いつつも、恐る恐る中を覗いて今度は目を剥いた。
「これ、我が家に…かな?」
何に例えたらいいのかわからないほど大きい上に形が揃っているそれは、高級そうどころじゃなくまさに高級品そのものだった。こんなの写真でしか見たことない。
「遠慮しないで受け取って」
「すごく高かったんじゃ…」
「こう見えて結構稼いでるから大丈夫。開封後は返品不可」
「でも」
「いいから」
一体何のやり取りをしているのだろうかわからなくなった時だ。キッチンの方から『ごはんがおいしくたけました』と3回繰り返す声が、今こそ自分の出番では?と言いたげに横槍を入れる。
「へぇ、今の炊飯器って喋るんだ」
「…時透くん!」
珍しく大きな声で名を呼ばれた無一郎は、想像しなかった驚きで目をぱちぱちと瞬かせる。
「お腹すいてない?食べてく?それともすぐ帰っちゃう?」
艶々と、煌々としたこの輝きを我が家だけで楽しんで良いのか。炭治郎は閃いたと言わんばかりに無一郎を何とか引き止めることに必死だ。
「お邪魔じゃない?」
「今日は絶対に上がってって!」
遠慮とか損得がどうのじゃなく今このきらきら輝くものを共有したい人は時透くんしかいない。そう思った炭治郎は、驚くほど饒舌になっていた。
「声かけてきていい?」
「あ!そっか…ちょっと待ってて!」
炭治郎は抱えていたそれらをひとまずキッチンの安全そうな場所に避難させ、店へと続く通路を駆ける。ややあって戻ってきた炭治郎は肩で息をしつつ、携えてきた紙袋を無一郎の手の中に押し込めた。
「これ、マネージャーさんに」
「何?」
「来週からの新製品」
「僕の分は?」
「あの3倍用意してある」
「やった。渡してくるね」
「あと、…あれ?」
あっという間に消えてしまった無一郎の、淡々と何かを言っている声が扉の向こうから微かに聞こえる。
帰ってきたばかりなのに半ば強引に留めてしまいどうかと思ったが、あまり気にせずとも良さそうな声色だ。
まだ上がっている息を落ち着かせながら炭治郎は「よかった」と微笑みを溢した。
「時透くん!こっち」
言われた通り施錠し、店舗スペースから明かりが漏れているのでそちらに居るのかと覗いてみた無一郎だったが声の主は不在のようで、あれ、と首を傾げる。
「どっちー?」
「こっちこっち!」
廊下を挟んで向いがリビングだ。その次がダイニングの方から聞こえる何やら忙しない音に誘われ、声の方に視線をやった無一郎は口の端を持ち上げる。
どこでもない普段の在り方なのだろう、肘から先だけの手招きは彼の笑みを引き出すには十分だった。
「あれ?なんか静か」
「みんな明日まで温泉行ってて。お土産たくさん買って来るよう頼んだからお楽しみに」
久々に踏み入れたリビングは珍しく閑散としている。ひと続きのダイニングにいる炭治郎の方へ歩みを進める無一郎は、記憶を辿る。
ソファの両脇を幼い妹弟たちにがっちり囲まれ質問攻めに遭うという事があって、それからは店舗の喫茶スペースでコーヒーを数杯…といった滞在の仕方が多い気がする。
理由を聞くと『一番静かな所だから』という事出そうだが、そんな中でも妹弟たちがそわそわと顔を覗かせるのが愛らしかった。
特に一番下の弟は炭治郎そのままの顔でもじもじとしているので、その可愛らしい満面の笑みが見たくて、炭治郎の配慮がほぼ成立しな苦なるのは申し訳ないけれど手招きして呼んでしまう。
「何かあった?」
冷蔵庫のドアからひょいと顔を出した炭治郎がこちらに向ける視線は不思議そうである。
「いやぁ、会えなくて残念だなって」
「あ、弟たち?」
「そう」
とは言いつつ、今日はここで独り占めできるんだと思ったら感謝しかないのだけれど。炭治郎の日常に潜り込んではその都度心の中で浮かれている。
それもどれも全部引っ括め、我ながら相当やられているなと無一郎はまた口の端を持ち上げた。
「うわ、粒がやばい」
何と比較できるのか、と炭治郎がひと口めでまず唸って、それからは二人で順調に食べ進めて既に二膳目のご飯が空になりかけていた。
「一番高いの選んだからね」
「…え?」
何のことは無いと、さらっと言い放つ無一郎に炭治郎は黙ってしまった。
ダイニングテーブルの中央、筑前煮やナスの煮浸し、箸休めのきゅうりの梅和えやグリーンサラダに囲まれひと際存在感のある明太子が折ごと鎮座している。
とりあえずご飯だけ炊いて冷蔵庫の中のもので何とかする予定が、嬉しい誤算だ。頑張って食べても減らなくて、詳細は恐ろしくて聞けないと炭治郎は考える事をやめた。一粒だって残したくない、もっと何かできないかと思案していた炭治郎は閃いた。
「明太フランス食べる?素材がいいからすごい美味しいのできそう」
「それ先に言って欲しかったな…かなり満腹なんだけど」
「まさか」
「炭治郎ん家のご飯久しぶりで食べすぎた」
「え、ほぼ野菜だけど…?」
中には底が見えている器もあり、冷蔵庫の中のものをあるだけだしただけなのに少しはもてなしになっていたようだ。
「でももうちょっといける?」
「食べる」
「じゃあすぐ用意する」
立ち上がった炭治郎は、冷蔵庫から取り出したガーリックバターを練りながら粉チーズと明太子とさっくりと混ぜ合わせると、大きめにスライスしてあるバゲットに器用に塗る。その手付きはさすが本職であっという間にテーブルの一段上のオーブンにセットされた。
「パセリ?海苔?どっち好き?」
「えっ、あぁ」
その手際にしばし目を奪われていた無一郎はハッと顔をあげる。
「炭治郎はどっち?」
「俺は海苔かな」
いつの間にかはさみを握る炭治郎はザクザクと音を立てて海苔を刻んでいる。
「…あ、好きといえば」
「ん?」
呟きに近い無一郎の声に、炭治郎は手元に視線を落としたままで返事をした。
「福岡って言葉使いが可愛くて」
「どんなの?」
「炭治郎、好いとーよ」
「好いとーよ…好きだよ?」
「そうそう。その好き」
まだ視線を落としたままの炭治郎は、変わらないテンポで手元を動かしている。
「確かに可愛いな。男でも使える?」
「教えてくれたの隣の席にいた偉めのおじさんだったから大丈夫じゃない?女の子一晩中口説くときに使うんだって」
「へぇ…」
想像力を膨らませてそのシチュエーションを脳内で作り上げる炭治郎だったが、割と容易だった。
パリッとしたスーツに身を包んだシュッとした、それなりに地位のある風のほろ酔いの男性が夜、美女に囁く口説き文句。
一晩中など明らかな表現なのに、清潔感も相まって、余計ないやらしさが抑えられる所が万能すぎる。
「でね、バリエーションもあって、炭治郎のこと好きやけん、とか。炭治郎すいとーと、とか。名前つけてあげると尚良いって」
オーブンから漏れてくるいい匂いに小気味よくはさみを動かしていた炭治郎の手が初めて止まった。
いちいち人の名前をつけるもんだから、頭の中で描いていた偉めのおじさんの姿形が徐々に時透無一郎になってしまって、まるで口説かれているような錯覚に陥った。
「ちょっと…ストレートすぎて照れるね」
失念していた。
目の前に座っているのは世の中が放っておかないあの時透無一郎なのである。
爪の先まで磨かれたような美形を前にどうして今日の今日まで平然としていられたのか、今ならキャッキャと騒ぐ女性たちの気持ちが理解できそうだった。
はさみを握ったままの炭治郎の手の中がじっとりと汗ばむ。
「あら?押せばいけそう。もっと言ってあげよっか?」
「いや!遠慮しておく!」
慌てて顔をあげると今にも身を乗り出しそうになりながら瞳を爛々と輝いていて、冗談にしても、明らかに返事に困るとわかっていてやっている。
非常に危ない。
何でこんなに動揺してるのか、何ならいっそあの扇の流し目で知らぬうちに攻め込まれた方が道中どうあれ楽に投了できるのではなんて思い始めている。
「急にどうした⁉︎疲れてる⁉︎」
「いや全然?」
ふっと笑って立ち上がったと思ったら、いつの間にか隣に座ってしまった美貌に炭治郎はギョッとした。
「ばり好きやけん、今夜一緒にいてよか?」
「……っ⁉︎」
近い近い近い。
吐息が混ざった声色が耳元をチリッと擽って、肩と肩がコツンと触れ合う。
「と、時透くん!」
さっそく使いこなしてるのは流石だけど、こんな至近距離でぐいぐい来られるなんて聞いてない。
いっそテレビの中のあのそっけない彼でいてくれと思うほど緊張が溢れそうになったその瞬間、ピーピーと電子音が鳴りオーブンが『焼けました』と3回繰り返した。
「焼けたって」
ちょっと不機嫌そうに無一郎が椅子の背に凭れると、さっきまで慌てふためいていた炭治郎も多少冷静さを取り戻し、握りっぱなしのハサミをテーブルの上に置いた。
「…時透くんもやる?」
差し出された手が返事らしく、その手のひらに炭治郎はふわりと刻んだ海苔をのせた。
オーブンから天板ごと取り出し、焼き色が淡くついた表面に言葉少なく互い淡々と作業を進め、仕上げの焼き時間を再度セットしボタンを押す。
「オーブンに邪魔されるなんて」
「ごめん、そういう仕様で…」
「…玄関の鍵きちんと閉めてくる。続きは食後に」
微笑んではいるが、大仰に恨言を口にする無一郎に対してもう何で謝ってるのかすら解らない炭治郎であったが、徐ろにすくと立ち上がりチラとこちらを見遣る視線に炭治郎は既視感を覚える。
静かに微笑みながら玄関へと消えてしまった後ろ姿を炭治郎は目で追いかける。
「続き…?」
『一晩中口説くんだって』
予告とも取れる無一郎が言い残した言葉がそれと繋がって、やがて理解にたどり着く。
扇子の下がこうやって微笑んでいるのだとしたら。
途端に炭治郎の頬に朱が差した。
終