そうして。僕は大人の階段を上った。「篤四郎さんっ」
白い道着から黒い、軍服に着替えられた篤四郎さんが出てこられた。
「時重くん、どうしたんだい?」
「ちょっと、篤四郎さんに聞いてほしいことがあって、」
大人で将校さんの篤四郎さんは僕ら子供たちとは違い道場隣の先生のお宅で着替えられるから、篤四郎さんとお話したい僕は篤四郎さんが稽古を切り上げる頃には自分も終わらせて素早く着替えて先生のお宅から道場に繋がる通路で待つのだ。
聞いてほしいこと、と切り出したけれど、内容はあるといえばあるしないといえばなかった。ただ誰にも邪魔をされずに、篤四郎さんと話をしたくて聞いてほしかったし話してほしかった。
冬に篤四郎さんが仰った。
篤四郎さんはもうすぐ、道場にこなくなってしまう。
それまでに少しでも多い時間を篤四郎さんと過ごしたかった。
「そうだな」
僕の言う『聞いてほしいこと』がすぐに終わらないことであることを汲んでくれたのだろう。美しい漆黒の瞳を細めて、篤四郎さんは微笑んだ。
「帰りの道すがら話そうか」
「はい」
「じゃあ、武田先生に挨拶に行こう」
「はい」
声が弾む。そう、これから『ありがとうございました。またよろしくお願いします』と型通りの挨拶を一緒にしたらあとはもう。
今こうして隣を歩いているのも嬉しいけれど、これからもう少し長くいられると思うと胸が弾んでしまう。僕は少し足早に先生のもとに行きそんな僕に隣を歩く篤四郎さんが「ふふ」と笑みをこぼした。
「篤四郎くん、時重くん」
そのように造られているのもあり大した距離でもなく先生のもとに着きさあ早く挨拶をと口を開きかけた僕より篤四郎さんが早かった。
「武田先生、どうされました?」
お困りのようだ、と声をかける篤四郎さん。そう、確かに眉をさげ佇む姿はいかにも困っておられた。先生は「そうなんだ」と苦笑し、はっと気づいたように「篤四郎くんならもしかしたら、」と言われた。
「時重くん、少し待っていてくれるかい?」
「はい」
それが篤四郎さんの望みなら。
それで僕の望みが叶うなら。
正直。先生の事情を聞いたとき、なぜそんな馬鹿げたことが起きているか大方の察しはついたしそれに篤四郎さんが行くことになるなんて不快さしかなかった。
けれど、篤四郎さんが僕の目を見て仰ったから。
君との約束はちゃんと守ると。
だから道場の前で篤四郎さんを待った。
待ちながら夢想する。篤四郎さんが僕のことを「一番」だと言ってくれた、あの素晴らしい日を。僕の柔道の才能が篤四郎さんの見た子供たちの中で一番だと言われたときのこと。あの一言で僕の人生は色鮮やかになった。できるからやっていた柔道ももっと、もっとできるようにと訓練を重ねるようになった。基本動作の反復に年長者の技をひとつでも多く見て自分のものにできるように。
欲をいえば僕の、柔道以外のところも、僕のすべてを篤四郎さんに認めてほしいのだけど、そんな術はわからないからただただ腕を磨く。道場や他の大人よりももっと強くなったらあるいは、と思うから。
「智春くん」
道場の中に入った篤四郎の声が聞こえ、耳をそばだてた。篤四郎さんの声だ。聞こえる言葉、ひとつたりと聞き漏らしたくない。
篤四郎さんとの帰り道を考え、瞳は潤み期待に胸が高まった。