◇
真夜中。寮の自室。床には空の薬の入っていた容器と、薬を流し飲むためだけに開けた酎ハイの缶が数本転がっている。
動悸、高揚感、目眩、暑さ、鮮やかに彩られた世界、多幸感、寒気、虚無感、吐き気、気持ち悪い、忘却…………
感情も感触も一気に押し寄せては消える。何度も波のように繰り返される。嫌なことだけ消えて忘れさせて。どこかに置いてきたい。そう思って飲んだはずなのに、一瞬だけ忘れてもまた思い出す。
あれが自分に向けられたものじゃない悔しさが忘れられない。何でこんなにそばにいるはずなのに、どうして私じゃないのか。
床にしゃがみこんで、意識が朦朧としている中、ずっと握りしめていた携帯電話から、ボヤける視界でアドレス帳から目的の名前をなんとか探しだして通話ボタンを押した。
そこから先は覚えていない。次に気がついた時は病院のベッドの上だったから。
◇
病院のベッドの上。翌日の昼。
陽射しが痛いくらいに眩しい。
二日酔いの後のように目を開けていても瞑っていてもずっと視界が回っている感覚。酷い頭痛と吐き気。腕に繋がれた点滴。拘束されていて動かない両手足。規則的な機械音。
私、どうしたんだろうか。
真っ白い天井を虚ろな目で見つめながら覚醒しきらない頭で過去を遡っているうちに、巡回に来た看護師が私が覚醒したことに気づく。
医師を呼んで一通りの処置と簡単な説明。ここは集中治療室で、とりあえず明日まで拘束も点滴もこのまま。吸収された薬を排出するためにひたすら点滴と、強制排尿のために局部に挿入されている管にオムツに……青年男性には屈辱的な格好であることを告げられる。
「こうなることくらい分かってただろう」
呆れる医者に苦笑いで、すみません。と言った声は、思ったよりも小さくて、掠れていた。きっと聞き取れていなかったと思う。
◇
入院二日目。
一般病棟に移されてからも拘束は解いて貰えずに寝たきり。頭痛に吐き気に倦怠感もまだある。昨日よりは良いけれど、体も頭も重苦しい。こうなるのは分かってたこと。仕方がない。明日あたり点滴も外れるだろうか。そうしたら、きっと拘束も解かれるだろう。
ドロドロの流動食の不味い食事を介助されながら時間をかけて食べさせられた。それ以外はすることもなく、ただ天井のシミの数を数えて時間を潰す。暇だし寝たい。睡眠薬が欲しいと言えば、薬を体から抜いてるのに薬飲ませられるはずないだろうと担当医に失笑された。
入院三日目。体のだるさは相変わらずだけれど、点滴がはずされ、拘束とカテーテルも取られた。嬉しさに自然と笑みがこぼれる。
「今日、退院できますか?」
まだ喉に違和感があって、掠れた声で担当医に聞けば、俺の処方した薬をあんな風に無茶な飲み方して、そんなにすぐに退院できるはずないだろ。と叱られた。
OD……いわゆる、薬物の過剰摂取で運ばれたのは今回が初めてだけれど、この病院には定期的にかかっていた。
目の前にいる担当医は、私の主治医。毎月のように会ってる顔馴染みだ。この人に毎日飲むように処方されていた薬を、自分の調子に合わせて、勝手に飲んだり飲まなかったりしていた。それでも定期的に通院していれば、当然薬は貯まる一方だった。
毎日飲んでいるはずの薬を、まだあるから処方しなくて良い。なんて言えるはずもなく、溜まりに溜まっていた薬を、今回一気に飲みきった。
この薬とこの薬の組合せと量なら酒と一緒に飲んでも致死量じゃない。ネットから得たにわか知識の上で飲みきって、入院沙汰。
今ならバカなことをしたなと思えるけれど、この時はこれしか逃げ道を思い付かなかったのだ。
中学生の頃から、時おり襲われる不眠症状や止められない自傷行為に悩まされていた。非術師の一般家庭で、自分だけが呪霊が見えること、取り込めること。なんて誰にも相談できるはずもなく、じわじわと溜まっていったストレス等で、コントロールしきれない自分自身を抑制するのに薬に頼ったのは、親元を離れ高専に入ったタイミング。ここに通院し始めた。
呪術高専に近いからか、呪術師が通うことが多いこの病院は、術師についても内通している者が多く、私の主治医もそうだった。
「……んむ……ある……から……」
「ん?」
「任務……溜まってるから、……」
「あぁ、もうそんな時期か」
夏は呪霊が増える。今年も例に漏れずだ。皆、毎日追われるように任務をこなしているのに、こんなところで私だけが寝ているなんて、そんなことしていられるはずがない。
「そろそろ、退院……したいです」
主治医を見つめて懇願した。
「順調に行けばね」
ぐしゃりと髪を掻き乱されて、子供をあやすみたいに笑われた。
「そんな状態じゃどのみち任務なんて乗りきれないんじゃない? とりあえず治すことだけ考えな」
そんな状態……拘束ははずれても起き上がれないほど怠い体。いまだに残る頭痛に吐き気。
任務は、高専での実戦なんかよりも比べ物にならないくらい体力も精神力も必要で、確かに乗り越えられる気はしない。けど、でも……様々な言葉が頭の中をぐるぐると回るのに、何も言い返せなくて固まったままの私に、主治医がまた笑う。
「まぁ、週末には退院できるよ、きっとね」
「……ほ、んとう、に?」
「だから、順調に行けばって言っただろ」
今は、ゆっくり休むことだけ考えな。
判りました。と、私が言うと、主治医が俺の頭を撫でる。
その手が大きくて温かくて、少しだけ気持ちいいと思ってしまった自分に、恥ずかしくなった。やめてくださいと、主治医の手を振りほどいて、赤くなった顔を隠すのに、布団にもぐる。
「点滴もうしてないんだから、早く退院したかったら、ちゃんと水分取って、ご飯も少しでもいいから食べろよ」
主治医がそれだけ言って、部屋を出ていった。ODをした理由も何も聞かないでくれるのはありがたかった。
◇
入院4日目。
今日は昨日よりも気分がいい。中庭に散歩だって行けそうだし、もう退院させてくれないだろうか。そんなことを考えながらも、相変わらずベッドで横になっているだけだ。
本当は昨日よりも体調がよくても、いつもよりは体はだるかった。けれど、何もすることのない入院生活に飽き飽きしていた、そんな日。前触れもなく、私の前に悟が立っていた。
「何でいるんだよ」
ドアをノックされた瞬間に看護師か医者だろうと思って振り向いたら、思いもよらない人物に目を見開いて驚いた。
「面会できるようになったって聞いてさ」
そんな私を気にすることもなく、悟はにっこりと微笑んで私に近づいてくる。ここは精神科で、そもそもそんなに簡単に面会できないはずで、ましてや病室に来るなんてあり得るはずがない。
今一番会いたくて会いたくない男がいることに軽く目眩がした。
「持ち込み禁止って言われて、手ぶらでごめんな」
私の返答なんて待たずに、悟は一人でしゃべりながらベッドの横にパイプ椅子を出して座った。
「傑はさ、覚えていないかもしれないけど、俺が第一発見者だからな。だから、特別に面会の許可をもらったんだよ」
「第一発見者?」
「覚えてない? まぁ、無理もないよな」
薬を飲んだ後のことは覚えていないけれど、その前のことは忘れられるわけがない。覚えて。
無言で悟を見つめた。
「オマエが思ったよりも元気そうでよかった」
悟の微笑んだ顔を見て、素直に嬉しいと思った自分と、これが自分だけに向けられる笑顔じゃないことに寂しさを覚えて、悟に見えないように掛け布団をきつく握りしめて、あの日の出来事を思い出す。
あの日も、いつものように学校に行った。悟は任務でいなかったけれど、私は久々に任務もなく、硝子と二人で1日授業に出て、校門を出たのは夕方。もう辺りはオレンジ色の夕焼けに染まって、影が長く延びている時間だ。
硝子と他愛のない世間話をしながらの帰り道、道路を挟んだ向こう側を歩く見知った人影に気づいて、声をかけようと思った途端、その隣の知らない女性の姿が目に入り、思わず歩みを止めた。
固まる私に気づいて、硝子が私の目線の先を見る。
「あぁ五条か。あの隣のが彼女かな。最近できたっていう」
はっ? 彼女? あの、悟に? 聞いてない。いや、私にいう義理なんてないけれど。でも……
「え?」
「呪いにつかれてたあの子を、きまぐれに助けてあげたら気に入られて、猛アタックされたらしいよ。美人だな」
確かに遠目からでも細身で綺麗な女性であることは分かる。容姿端麗な悟の横に並んでも遜色もなく、お似合いなのも分かる。
彼女が悟の方を向いて何かを語る度に、悟が彼女を見て微笑みながら話しかける。楽しそうで幸せそうに見える。
「夏油は恋人はいるのか?」
硝子のその言葉に、適当に笑って誤魔化せばいいのに、言葉が出ない。悟の笑顔を見るのが辛いのに目が離せない自分が女々しくて腹が立つ。
「……めん。私、用事思い出したから先帰るね」
走って悟を自分の視界から消すことしか考えられなかった。硝子から何か言葉をかけられた気がするけれど、耳から耳に抜けていった。
気がついたらベッドの中で、どうやって部屋まで帰ったのか、部屋の鍵を開けたかすら覚えすらない。頭が真っ白になるってこういうことを言うのだろうか。なんて妙に冷静なことを考えながら、頭から掛け布団を被る。
悟の笑顔と、その笑顔を向けられた女の顔が頭の中でグルグルと回り続ける。気持ち悪い。
悟に恋人なんてできるはずがない。そう思い込んでいた。
「傑ー! 桃鉄やろうぜ!!」
目を輝かせて子供のように無邪気に笑いながら、私にくっついてくる悟が目に浮かんだ。いつも、ゲームの話と漫画とテレビと、それから私にもう少し落ち着きなよ子供じゃないだろ、君はというお説教が大半で、女の話なんて聞いたことがなかったし、聞く必要もないと思っていた。
男が好きなわけでもなさそうな悟が、私のモノになる可能性は限りなく0なのは分かっていたけれど、私のモノにならなくても誰かのモノにならないならいい。そう思っていた。
なのに、悟の隣に居るはずのない女がいた。
見たこともない女。誰だよ、傑は。消えろよ。
そう叫びたかったけれど、拳を握りしめて、喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
全て見なかったことにして忘れたい。なのに女の笑顔が脳裏に焼き付いて離れなくて、そんな自分にイライラして、気持ちが悪い。
胃から食道へと込み上げる嘔吐感に、布団から抜け出しトイレに駆け込んだ。
嗚咽に混じって出てくるのは茶色い胃液ばかり。昼ご飯食べてから何も口にいれていない、そういえば。胃液も出しきって、吐くものもなくなった。
このまま吐いたら緑色の胆汁でも出てくるんだろうな。いやだな、それは。なんて頭の中の知識だけをフル回転させながら、流したトイレの水音だけが妙に耳の奥に響く。
廊下をふらふらとよろけて壁や物にぶつかりながら歩く。部屋に戻り、ベッドのそばで力尽きて床に座り込んだ。
このまま深く眠りについて、朝起きたらすべて忘れている。なんて都合のいいことあるはずないよなと自嘲しながら、ふと、テーブルの上に無造作に置かれた薬の袋に目をやった。
最近は比較的調子が良くて、薬は飲んだり飲まなかったりで、睡眠薬と精神安定剤、どちらも2ヵ月分ほど溜まっていた。
これを一気に全部飲んだら寝られるだろうか。
これくらいの量を飲んでも死にやしないし、せいぜい起きた時に気分悪くなるくらいだ。
アルコールと一緒に飲んだらもっと効くだろうか? 長時間眠れるだろうか?
脳裏に浮かんだ自分の考えに、否定する気なんて起きやなかった。
ただ忘れたかった。少しでも長い時間、なかったことにしたかった。それだけしか考えていなかった。
薬に手を伸ばして、袋ごとぐしゃりと握りしめた。そのまま立ち上がる気力は起きなくて、這いつくばって台所に行き、冷蔵庫を開ける。先日、硝子と悟とゲームをしながら飲んだ余りの缶酎ハイ。
無造作に置かれたそれらをあるだけ引っ張り出して蓋を開ける。ぷしゅっと開いた音が響いた。
袋から薬を取り出して、機械的にプラスチックの中に一つづつ入っている錠剤をぱきっぱきっと押し出していき、ひとつ、ふたつ、みっつ……と心の中で感情もなく錠剤の数を数えながら、床にコロコロと転がるのをただただ見つめる。
全て出し終えて、薬が股の間でこんもりと山になっていた。
全部飲んだら楽になるだろうか。
錠剤を手に取って口に押し込んで酒で胃の中に流し込む。ついさっき、吐いて胃液で荒れた食道に、酒が流れてあたると痛い。
あぁ、でも、痛いってことは生きている証拠だ。まだ平気、まだ飲んでも大丈夫。
食道痛い。胃もキリキリする。でも飲めている。あ、少し目が回ってるかも。熱い。手のひら汗でベタベタする。座ってられない。でも、息はできてるから大丈夫。
嗚呼、酒が空だ、もう1缶開けなければ。
薬を手にとって酒で飲む。何度もそれを繰り返した。
ほら、もうない。全部飲めた。大丈夫。
少しふわふわする。目もくるくる回ってる。座ってるのしんどいからここで横になっていいかな。ここには私しかいないし、誰にも迷惑かけないから、いいよね。
これで眠れる。
全部忘れて今は寝たい。起きたら全部夢だったらいいのに。これで楽になれるだろうかと安堵しながら、目をゆっくりと閉じた。
暗くなっていく視界の瞼の裏側に、ぱっと悟と女の顔が鮮明に浮かんで慌てて目を開けた。
どうして……
忘れたくて薬を飲んだのにどうして出てくんだい。
途端、ポロポロと涙が止まらなくなって、もう一度ぎゅっと目を瞑った。さっきよりもはっきりと女の顔が浮かび上がってくる。悟と女の笑った顔。笑い声まで聞こえそうなくらい幸せそうな表情の二人。
なんで悟も女も笑っているんだ。私がこんなに辛くて苦しいのに。こんなに悲しくて泣いてるのに、なんで笑ってられるのさ?
涙のせいなのか薬のせいなのか視界がぼやけてぐちゃぐちゃで、頭の中もぐちゃぐちゃだった。
悟は、私のことなんてどうでもいいのかい?
悟が勝手に女を作って。私に何も言わない。私のことを放っておいて。彼女なんて作るそぶりすら見せていなかったのに、勝手に……
全部、全部、悟のせい。悟が悪いから、私がこんなに辛くて、こんなことをしているっていうのに。
なぁ、悟は私に何か言うことないのかい?
泣きながらズボンのポケットに突っ込んだままの携帯を取って、悟に電話をかけた。
何度か鳴ったコールが途切れてすぐに悟の声が聴こえた。
「もしもし? オマエから電話なんて珍しいね。どうしたのさ」
少しこどもっぽくて、でも低くて優しい、いつもどおりの悟の声に、あぁ心地いい。と思った途端に、さっきの女と悟の仲睦まじい映像が頭の中を回ってこだまして、くらりと視界が歪む。
嫌だ。気持ち悪い。
「……ふっ、……う……」
目を瞑ってもグルグル視界が回る。こみ上げる嗚咽に吐き気が伴って、悟に言いたいことは沢山あるはずなのに、言葉が声にならない。
自分の不規則な呼吸音と、いつもよりも早い心臓の音がやけに煩くて気持ち悪い。えづく度に口許から溢れだす唾すらふきとる気力もない。
「傑? ……どうした?」
心配そうな悟の声に、目元が熱くなる。体が震えるのは寒いからなのか熱いからなのかわからない。横たわっているのすら辛い。
それでも口内の生唾を飲み込んで、ゆっくりと大きく息を吸ってはきだして、掠れたか細い声をなんとか絞り出す。
「……なぁ、……の、女……」
「ん?」
「……あの女、……隣に……まだいるのかい? あの子は、……悟の……彼女?」
答えがわかっているのに聞いてるなんてバカだ、私は。そう思うのに止められなかった。
頭も体も痛い。心臓もバクバクどんどん煩くなっていって、ぎゅって締め付けられて痛い。
「え? あぁ、いないよ、駅まで送ってたんだ。てか、付き合いだしたばかりなのに、よく知ってんね」
ははっと照れ笑いをする悟の顔なんて見えないのに、今、どんな表情でいるか想像つく。
イラつくし気持ち悪いし目は回るし最悪だ。
「……んでっ、……」
なんでっ、私じゃないの?
「なに?」
私の気持ちなんてこれっぽちも分かってないんだろうなという、悟の返答に、一瞬でカッと頭に血がのぼったところから記憶がない。
次に目を冷ましたのは病院だった。
「私、悟に電話してた……ね。今、思い出した……」
「あぁ、途中で急に会話が途切れて心配でさ、急いで寮の傑の部屋に行ったら倒れていたから。驚いたよ、あんときは。無事でよかった」
ほっとした悟の表情に、思わず照れ臭くて自分の頬が赤くなると同時に、自分の記憶が飛んでいる間に、悟に何をいったのか分からなくて怖くなった。
私の気持ちを洗いざらにしゃべっていたら、もうそばにも居られないんじゃないかと心配になった。
「ねぇ、悟。あの時、私……悟の、……彼女のこと聞いた以外に、何か言っていたかい?」
じっと私が悟を見つめていると、悟も私の目を見つめてきて、沈黙の時間が流れた。
早く何か言って欲しい。
自分の心臓があり得ないほどにバクバクと音をたてて脈打っているのがわかる。
「何も言ってなかったよ。何か話したいことでもあった?」
「いや、特にはないんだ……」
ばれていない。その途端、ほっとしたら肩の力が一気に抜けた。
「もうこんなことしないでよね。俺の心臓がいくつあっても持たねえよ」
マジでびびったんだからな! と悟がぷんぷんと怒りながら私を見る。
「でも、これくらいやらないと、こうはならないだろ? こう、なりたかったんだよ、私は……」
何もかもなかったことにしたかったから、それくらい薬を飲まないとダメだろ? それでも全て忘れることもできなかったけれど……
悟が悲しげな目で私を見る。その目を見ていられなくて、悟から目をそらして布団の中に顔半分潜らせた。
「あのなぁ、どれだけ俺が心配したと思って……あんなことする前に、俺に連絡しろよ。もう、傑のあんな姿見たくないの、俺は!」
悟の言葉に、目頭が熱くなった。
ごめんなと、素直に謝りたい自分と、元はといえば、悟が彼女作ったから、こうなったんだろ、バカ。とムカついている自分の、二つの感情が混ざりあって頭の中がぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。
もう考えたくない。そっとしておいてくれよな。
「……煩いよ」
気づけばそう口をついてでていた。
「ごめん……俺も、出しゃばりすぎたな」
悟のすまなそうな声に、はっとして上半身を起こす。
「違っ……」
言いかけた謝罪の言葉を遮るように、悟が立ち上がって、私の頭を触って何度か髪を鋤いた。
「まずは、体を治すことだけ考えてゆっくり休めよな。また来るから。お大事に」
去り際に、にこりと微笑んでから、ゆっくりと扉を閉めて悟が出ていくのを何も言えずに見送った。
◆
病室のベッドの上から、俺の顔を頬を仄かに赤らめながら見つめる傑を、俺も扉が閉まる瞬間まで見つめた。
パタリと扉が閉められた後、暫く、ドア越しに見えない傑を見続けていた。
数日前の夜、駅から寮へと一人で歩いている道すがら。
「もしもし? オマエから電話なんて珍しいね。どうしたのさ」
珍しすぎて少しだけ嬉しくて、つい笑い声をあげながら話しかけたけれど、いつまで経っても受話器の向こうから聞こえてくるのは、嗚咽混じりの不規則な呼吸音だけだった。
返答も何もなく、さすがに心配になって、
「傑? ……どうした?」
と聞いた途端に、グズグズと涙声が耳元から聞こえてきて、何度か深く呼吸を繰り返しているのがわかる。そして、やっとのことで絞り出したであろう傑の掠れた声に、一瞬言葉を失った。
「……あの女、……隣に……まだいるのかい? あの子は、……悟の……彼女?」
「え? あぁ、いないよ、駅まで送ってたんだ。てか、付き合いだしたばかりなのに、よく知ってんね」
付き合い出してまだ一週間ちょっと。そういえば、互いに任務で、傑と会うタイミングもなくて伝えていなかったことを思い出す。
恥ずかしさから、なんと伝えたらいいのか分からなくて、あははっと、笑うしかできなかった。
「……んでっ、……」
喉から無理矢理絞り出したような傑の声が耳の中にこだまして、ビクリと体が硬直した。
「なに?」
「な、……んで、私じゃダメなの?」
「……え?」
「君は、あんな、急に湧いて出てきた女の方がいいのか? 恋人とか…悟の口からそんな言葉、出てきたことなかったから……だから、私……が、まんしてた……のに…………わ、私じゃ……はぁ、……ダ、メ……なのっ?」
「オ、マエ、何言って……」
初めて聞く、傑の悲痛な声と内容に頭も心もついていかない。
「ふ、う……わ、私の方が、……悟のこと、ぜっ、対、いっぱい知っ、……ててっ、は、ぁぁ、……私の、方が…悟のこと好きだし、……し、ぁわせ……にはぁ、できるかわからないけれど、私は、悟がいるだけで幸せなのに、はあぁ……な、んでぇ、……私じゃないところに、ぅ……ぁ、い、行くのさ」
嗚咽混じりの掠れて聞き取りにくい声を、受話器をぎゅっと耳に当てて何とか解読しながら聞き取る。
「お、おぃ、大丈夫? 傑? 今、部屋?」
とりあえず寮までの道を駆ける。駅でだらだらしないで、寮に直帰していれば良かった。心の中で舌打ちしながら、スマホを片手に耳にあて、全速力で走る。
「オ、マエが、……悟が、誰のモノにもならないならいいのに……私のモノじゃなくても良かったのに、……な、っで、誰かのになっちゃうのさ。私のこと見ろよ。なんで私じゃ、ダメなんだい? 男だから? やっぱり女がいいのかい?」
怒濤の勢いで話す傑を、止める術が分からなくて、落ち着かせることもできない。
「傑は……、俺のことが、好きだってこと?」
冷静に話そうにも走りながらの声は息が上がって上手く話すこともできないけれど、早く傑の元に行く方が先決で、構ってられない。
「……っう、そ、うだよ……悟が欲しい……悟しか、要、らない。誰かのモノにならないなら、……はぁ、我慢、できたけど、誰かのモノになるなら、そんなの見たくないよ……忘れたい…………も、いい……も、疲れた…………」
「お、おい!!」
叫んだと同時に、小さな声でバイバイと、聴こえた気がしたけれど、すぐにツーツーと、通話が途絶えた。
それから、ほどなくして辿り着いた傑の部屋の前、回したドアノブは鍵もかかっていなくて、すぐに空いた。部屋の真ん中で倒れているのを発見して、すぐに救急車を要請した。
畳まれた洗濯物の中からタオルをひっぱりだして、涙や嗚咽で汚れた傑の顔や辺りを拭く。救急隊員に言われた通りにずっと体を叩いて揺すって話しかけている間に、硝子や夜蛾先生が来てくれて、てきぱき指示してくれて、周囲に散らばる薬の空と処方された袋を広い集めてくれた。
10分程度で到着した救急車に、俺も頼み込んで一緒に乗り込んで、事情の説明。そして、傑の主治医のいる病院に緊急搬送された。
「申し訳ないけど、あの子の部屋から、数日分の着替えとかそういう必要最低限の物を用意してもらえるかい」
ここに書いてあるからと、入院のしおりらしきものを見せられ、傑の主治医という人に頼まれた。
にやっと笑う先生はいたずらっ子のようで、どこか元気な時の傑に似ているなと思いながら、分かりました。と頷いてその場を後にした。
傑の部屋から入院に必要な物を取りに聞けば、硝子がまとめてくれていた。面会ができるようになったら連絡をくださいと看護師に自分の連絡先を渡した。
あまりの情報量に頭が崩壊寸前で、面会了承の連絡が数日後だったのは、頭の中を整理して落ち着かせるのにもちょうど良かった。
◇
また来ると言った悟の言葉なんて、ただの社交辞令だと思っていた。けれど、それは嘘でもなんでもなく、退院の日まで毎日欠かさずに私の元に来た。
悟はなんだかんだそういう奴だった。有言実行なんだ、君は。
「また来たのか。暇なの? 特級がこんなとこで何してんのさ。そんなに毎日、悟の顔を見なくても良いし。帰っていいよ」
嘘だよ。嬉しい。ありがとう。
そんな言葉を発することが今はなぜだかできない。
つんけんどんな態度をとりながら、そう言い放つと、悟は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「暇なんだよ。俺の任務なんて最強だからサクッと終わっちゃうの。だから、毎日オマエの顔を見に来てるんだよ。傑も寝てるだけなんだから暇だろ? 少しくらい俺に付き合ってよ」
「それなら、別にいいよ」
そっぽ向く私に、悟が、ありがとうとニコニコした声を発しながら、いつの間にか悟専用のようになっているパイプ椅子に腰を掛けた。
悟が来ている間、ずっと話しているわけでもない。時おり、今日は晴れてて気持ちがいいねとか、そんな当たり障りのないことをポツリポツリと悟が呟くのに、私が、うん。とか、そうだな。とか、曖昧に返事をする。
こんなことをやりに毎日私のところに来て何が楽しいのか。
それでも、悟が来ている間の穏やかに流れる時間が酷く安心して心地がよいと感じてしまう。
「ねえ、悟」
「なに?」
悟が私を見る。
「……私、明日、退院なんだ……」
「そうなの! 良かったな。何時? 俺、迎えに来る」
嬉しそうに微笑む悟とは逆に、恥ずかしさにまた顔をそむけた。
「まだ分からないから、いいよ」
「病み上がりのオマエを一人にしておけるわけないじゃん」
悟の声がいつもより幾分大きくて、少し怒っているように聞こえたのは気のせいだろうか。
「別に、一人で帰れるよ。君、任務あるだろう」
「俺が迎えに来たいんだって」
「いいって言ってる」
「でも……」
心配そうな顔をする悟に、私が一人じゃ何もできない子供扱いされているみたいに感じてしまって、イライラしていた。
「いいって言ってるんだよ。私のところばかり来てないで、彼女のとこにでも行けばいいだろ?」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いて、はっと顔を上げた。
違う。彼女のところなんて行ってほしくない。
悟が私のところに毎日来てくれるのは嬉しかったけれど、悟がここから帰っていく度に、この後は彼女のところに行くのだろうかとか、ここに来る前は彼女といたのだろうかとか、そんなことを考えては勝手に凹んでいた。
退院は悟が居なくても平気なのは本当のことだ。ただ、悟が来てくれると言ってくれたことは素直に嬉しいと思ったけれど、ちらつく彼女の影が邪魔をする。明日も迎えに来てくれたその足で、彼女のところに向かうかもしれない悟の後姿を見たくなくて、先走って発した言葉に自分でショックを受けた。
バカだ、私は。子供じみた嫉妬心を悟にぶつけた。
呆然としながら悟の顔をただただ見つめる。思わず涙が出そうになって、きゅっと唇をかみしめて堪えた。
悟が一瞬、目を大きく開ける。
ほら、やっぱり呆れられたな。落ち込みそうになった途端に、悟が少し寂しそうに微笑んだ。
「あぁ、別れた」
わかれた?
「……は?」
「だから、別れたんだよ」
別れたって?
「誰が? 悟が別れたの? え? 彼女と?」
「だから、そう言ってるじゃん」
あんまり何度も言わせんじゃねえよ。と苦笑いする。
「……だって、付き合い始めたばっかだったよね」
「そうなんだけどさ……早すぎだよな、さすがに」
困ったように笑う悟を見ていたら、自然と笑い声が漏れた。
「は、はは……残念だったなー」
あぁ、別れたのか。誰とも付き合ってないのか。そう思った途端に顔がにやけて止まらない。
「なら、明日、迎えに来てくれてもいいよ……」
我ながら現金なのは分かる。それに、上から目線の物言いしかできないのもどうかと思うけれど。
「いいの?」
ぱっと明るくなる悟の表情に、こちらが照れて赤くなる。
「いいって言ってるだろ」
待ってるとか、可愛げなことを言えたらいいのに。毎回毎回、出てくる言葉がいや味ったらしすぎて、自分が嫌になる。けれど、悟はそんなことを気にしている素振りを見せずに嬉しそうに笑うから甘んじてしまうんだ。
「退院の時間が決まったら連絡ちょうだい」
「分かったよ」
そろそろ帰るなという悟に、適当に気のないような返事をした。今日も来てくれてありがとう。なんて言えやしない。
「また、明日な」
「うん……また、明日」
そういって、閉められた扉を暫く見つめる。
また明日も会えるのか。迎えに来てくれて、一緒に外に出られるのか。
少しだけ浮かれて、ちょっとだけデートみたいだな。なんて思った自分が酷く恥ずかしくて、バカじゃないか私は。と自分で自分のことを罵って、掛け布団を頭までかけて布団の中に潜り込んだ。
◆
傑の見舞いの後、いつも通りに寮に帰った。明日傑が退院すると聞いて、嬉しくて、少し興奮して浮かれているのが自分でも分かる。風呂に入りながら鼻歌を歌っている自分に気づいて、周りに誰もいないのに赤面した。頭の中では傑のことばかり考えていた。
あの日、もう少し早く傑の部屋に行っていれば、入院することもなかったんじゃないか。それよりも俺に彼女ができたことをすぐに伝えていれば、あんなことはしなかったんじゃないだろうかとか。
あれ以来、電話越しに切羽詰まった声で訴えてきた傑の声が何度も頭の中で再生されて、部屋で倒れていた傑の顔が何度も浮かんでいた。
俺を好きだと言った傑の気持ちになんて、言われるまで全く気付いていなかった。
気の合う親友。他の関係性になることなんて考えたこともなかった。男を恋愛対象として見たことも、見ようと思ったことさえもなかったのだから、当然といえば当然かもしれない。
入院して数日後、漸く面会の許可をもらって会いに行った時に、傑が俺に「好きだ」と言ったことを綺麗さっぱり忘れていることに正直安堵した。「好きだ」と言われたことに対する答えが見つかっていなかったから。
それは傑も同じだったのか、俺が、何も聞いていないと言うと、ほっと肩をなでおろしていた。
傑の気持ちを知らないままの関係で、親友として接する。それを傑が望んでいるのなら、俺からいう必要もない。ただ、「俺じゃダメなの?」と言った傑の言葉が頭から離れなくて、任務と授業の合間をぬって、無理矢理病院に顔を出した。
また来たのかいと傑が少しだけ恥ずかしそうな表情をしながら言う度に、きっと本心では俺が来ることを喜んでくれているのだろうと勝手に解釈して、 傑の顔を見たいんだよ。と伝えては傑の病室に居座った。
倒れて蒼白な顔をしていた傑を知っているからこそ、日増しによくなっているのがわかるのは嬉しかったから、通うこと自体苦でも何でもなかったけれど、付き合い始めたばかりの彼女には呆れられ罵られた。
そんな毎日行かなくてもいいでしょ?
もっと、私との時間作ってよね。
精神科とか怖いところ、行かないでよ。
会う度、電話やメールをする度、言われた。
今だけだから。君とだって時間を作って会っているだろ? そう言い聞かせても、聞く耳すら持ってくれない彼女にウンザリした。
傑が退院するまでの少しの期間も待てない彼女とのこれからなんて想像もできなくて、
「別れよう」
するりと勝手にその言葉が口から出ていた。途端に、荒れて叫んで当たり散らす彼女の言葉をただ聞いて、彼女の気が済んで自分の前から立ち去るまで、頭を下げ続けた。
彼女とは、軽い気持ちで付き合い始めた。愛情も好きという気持ちさえもまだなかった。嫌いじゃないから、付き合えばそのうちに情も芽生えるかもしれない。それくらいの気持ちだった。
彼女には悪いことをしたと思う。深く考えずに付き合って、傷つけた。俺が軽く何も考えずに彼女と付き合い始めたことで、傑の心も傷つけた。
自分の浅はかな行為で、こんなことになるとは思わなかった。
今まで、人を好きになるとか、愛しているということ、そういう恋愛について、ほとんど考えたこともなかった。
彼女が好意を持ってくれていること、俺を好きだと言ってくれたことは素直に嬉しかったけれど、それが恋愛感情かと言われると、今なら違うような気がする。小さい子供に好かれた時のような気持ちよさはあったけれど、ドキドキするとか胸が高鳴るような高揚感は全くなかった。
むしろ、傑に「好きだ」と言われた時の方が、心臓が跳ねた。予想外の言葉に驚いただけかもしれないけれど、嫌悪感すらなかったし、ああ、じゃあ俺に対する態度は好意の裏返しなのかと気づいたら、たまらなく傑がかわいく思えた。
傑と恋愛したいのかと言われたら全く想像がつかないし、好きなのかと聞かれてもわからないとしか答えられない。ただ、今回の件で、傑は俺が守ってやるしかないんだと思った。
傑が俺に告白したことは俺の中だけにとどめておいて、傑が俺に頼ってきた時に俺が傑を守てやればいい。
傑が俺に告白してくる時までに、告白の答えを見つけておいたら、いいのかな。それまでは今まで通り、ただの親友で傑の隣に居たらいいだろうか。
そんなことを考えているうちに消灯時間が過ぎて、廊下の電気が消された。ひたすら傑の事ばかり考えて、一日終わったなと苦笑いを浮かべながら、明日、傑が退院したら、蕎麦でも作ってやるかなんて考えながら、ベッドにもぐりこんだ。
◇
翌日の朝、予定通りに退院。
「もう入院するなよ。ベッドだって空きないんだしさ」
先生に軽口を叩かれた。
病院に預かりになっていた携帯を返して貰い、個室なのをいいことに悟に電話をして、迎えに来てもらう。
悟が来るでに入院着から部屋着に着替えて、一通りの荷物をボストンバッグに詰め込んだ。退院の手続きも一通り済ませて、いつも通りの慣れた作業はすぐに終わった途端、何故だかこれから悟に会うこと自体が気恥ずかしくなってきて、待っている間中、そわそわと落ち着かなくなった。
後どれくらいで来るんだっけ。何度も何度も時計を確認した。
恥ずかしさもあったけれど、もっと早く連絡したらよかったとか、もっと早い時間を言えばよかったとか、そんなことを考えてしまうくらいには、やっぱり早く悟に会いたいと思っている自分がいて、ベッドの上ですることもなく、ただ待っている時間はとても長く感じた。
やっと来た悟に、遅い。と言いそうになるのをぐっとこらえて、内心嬉しくて笑顔がこぼれそうになるのもぐっと堪えて、すました顔で迎え入れた。
バスで帰るという私に、タクシーでいいじゃんと、悟に無理矢理タクシーに乗せられて寮まで連れていかれた。
部屋に入るや否や、寝てろと言われた。入院中寝すぎて飽きたよと伝えると、それもそうだよな。だったら座っていろ。ご飯作るから待ってろよ。と甲斐甲斐しく世話を焼かれて、むず痒い。
寮のキッチンで作って来てくれたのは、ざるそば。
「オマエ好きだろ」
と、得意げな顔の悟。
「ありがとう」
と、素直になれたのは、ここがいつもの慣れた場所だからだろうか。
悟と二人で、テーブルで向かい合って食べるざるそばは、冷たくて美味しかった。
私以外の人がこの部屋にいる気配。悟が隣にいる安心感や心地良さにホッとする。
「ねえ、悟……」
私の問いかけに、悟は口にそばを含みながら、なに? と、もごもごと答えた。
「私また、こういうことやると思うんだけど……」
悟がこちらを見ながら嚥下する。まばたきもせず開いたままの悟の目を見ている。終わりのないような沈黙の時間が痛くて落ち着かなくなる。下唇をきゅっと噛みながら、肩で大きく呼吸をした。
「……だから、またこうやって薬を飲みすぎたり……、そうしたいって思ったら自分で自分のこと止められる自信なんてないし」
悟の元カノの顔が浮かんで、途端、じわっと目頭が熱くなる。それを悟られないように無理矢理口角をあげて笑った。
悟がゆっくりと私に近づいてきて、隣に座った。
「したくなったら、する前に俺に言えって」
「言ったらどうなるんだよ」
「すぐに傑のところに駆けつける」
間髪いれずに言われた悟の答えに、思わず、嘘だ。と苦笑した。
「……彼女がいたらそっちを優先するだろ、どうせ」
試すような聞き方をしたのは、子供じみた嫉妬に独占欲。悟を困らせるだけなのはわかっているのに、思わず出た言葉はもう引っ込めることはできない。
「しないよ。オマエのところに行く」
「は?」
真剣な眼差しで悟にじっと見つめられる。
拒絶の言葉を思い描いていたから、目をぱちくりさせるしかなくて、それを見た悟が、ははっと声を出して笑った。
「だから、彼女がいたって、何かしてても、傑のとこ駆けつけるって」
「う、そだ……」
「なんで嘘だと思うんだよ。まあ、遠くにいたらオマエのところに行くまで時間かかるかもだけど。それでも、すぐに向かうからさ」
「だって……」
恋人でもない只の親友が、そんな私のわがままを叶える必要はないのに。
「傑が信じられなくても、一度くらい信じてよ。何かあれば必ず駆けつけるって。今回だって傑は覚えていないかもしれないけれど、すぐにオマエのとこに行ったんだぜ。だから、次は何かしでかす前に連絡してよね。お願いだから」
悟に腕をとられて手を握られる。力一杯握られた手は痛いぐらいで、思わず悟を見上げた。
「こんなことが二度となければ一番いいんだろうけどさ、無理っていうなら、俺に頼れ」
悟の顔が必死すぎて、な?て顔してるんだよ。そう笑ってやろうと思ったのに、目の奥が熱くてこみあげるものを堪えるのがやっとで、笑えやしなかった。言葉を発した途端に、涙が溢れるのが分かってて、声が出せなくて、何度も首を縦に振って頷いた。
悟の腕が私の頭を抱き寄せて、悟の胸元に埋める。
やめろよ。という前に、なんとか我慢していた涙が流れだして止まらない。声を殺して肩を震わせた。
私が泣き止んで落ちくつくまでずっと抱き締めてくれていた。
◇◇
懐かしい夢を見て、目が覚めた。結構ハードな夢の内容だったと思うのに、不思議なくらい穏やかな目覚めだった。
悟がかけつけると言ってくれてから、精神的に落ち込んでも、電話したら来てくれると思うだけで不思議と落ち着いた。
精神科の担当医にも最近調子いいじゃんなんて言われながら任務もこなし、今は悟と一緒に呪術高専で教鞭を取っている。
悟はあれから彼女を作ることもなかった。それは私には好都合で、心地よかった。
素面の悟に酔ったふりをして何度もキスをした。こんな私でも、悟が呆れながらもずっとそばに居てくれる。そして、酔ったから覚えていないからと悟と何度もセックスもした。
私が悟にとどうなりたいか伝えたら何かが変わるのだろうか。
今日見た夢は懐かしくて、悟の声が聞きたくなって思わず携帯を手に取った。高専で一緒に働いているはずなのに、任務やなんやで相変わらずすれ違いが多い。あの入院から、ちょっとしたことでも悟に連絡したくなるクセがついた。
受話器からのコール音が数回で切れて、悟の声が聞こえた。
朝一なのに、寝ぼけているわけでもないいつも通りの悟の声。
「今日さ、久々に昔の悟の夢を見たよ」
そう伝えたら、笑いながら、俺も昔の傑の夢見たよ、奇遇だな。と返ってきた。