謝りたいある日のお昼頃。
俺は夕食の下準備をしながら、テレビを見ていた。
最近のテレビの内容はあんまり面白いとは思わない。
芸人も面白さに欠けるし、内容も全然興味を惹かれない。
でも何となく見てしまうので、暇つぶしにはあまり悪くないと思いつつ…
「…っ!わくわく!わくわく!!」
この小悪魔からするとテレビは夢のようなものらしい。
擬音しか知らない彼は、テレビの人物が擬音を口にする度それを何度も繰り返して嬉しそうにしている。
少なからず人間の言葉を理解出来ているという喜びだろうか。
俺がいつものように「わくわくする…期待する、これから起きることへの楽しみを示す。」と意味を呟いてやると、ビャクニブはハッとして俺の方へかけてくる。
「カトラ!せりもななりる!」
…うん、やっぱり何て言ってるか分からない。
今のところ俺が理解出来ている悪魔の言葉は「のあぼれに」…「ありがとう」と「わご!」…「やだ!」くらい…
全然規則性が分からないんだよな…
ビャクニブも俺が言葉分からないのを知ってて悪魔の言葉を使ってくるのか、それとも気づいてないのか分からない。
どちらにせよ、ビャクニブと上手く会話することが出来るのは当分先だろう。
「…はあ……」
俺がため息をつくと、ビャクニブは「よ…?」と首を傾げた。
今日はダメかもしれない。
心臓の調子もあまり良くない。
ビャクニブは悪くないけれど、こういう日は八つ当たりしそうになるから少し1人になりたい。
それが人間のスランプってものだと思うし。
俺は口を閉じて包丁を置き、手を洗う。
少し気持ちを落ち着かせたいので、トイレに行こう。
「…カトラ…?げめなみけ…?」
ビャクニブが不安げな顔で俺についてくる。
俺は少し顔を顰めて「しーっ…」と一言言う。
ビャクニブに通じているのかは分からないが、こうするとビャクニブは大人しくなってちゃんと待っててくれる。
その顔はいつも寂しそうだけど、こういう日は許して欲しい。
トイレに入り、便座に腰を下ろす。
気持ちが暗くては料理も不味くなるだろうし、1度頭を冷やしてから料理の続きを…
そう思った時だった。
ふと、胸元に酷い鈍痛が走った。
「うっ…」
うそだ。こんな時に。
俺の心臓病は、定期的に発作を起こすことがあって。
死にはしないけど、ふらついたり、酷いと気絶することもある。
今日は…かなり、酷いかもしれない。
俺が胸元に手を置いて痛みと苦しさに耐えていると、体から冷や汗が溢れてくる。鼓動のリズムがおかしくなり、呼吸を整えようと肺を動かせば目が回り、異様に唾液の分泌量が増え、体が痙攣し、脳が麻痺して何も考えられなくなり、視界が真っ白になる。
「ぁ…………」
途端、耳の奥まで「ボクッ」という気味の悪い音が聞こえてきて、俺は力が入らなくなる。
目からは涙、鼻からは鼻水、口からは唾液と微量の泡が溢れて、便座から滑り落ちる。
前の壁に頭を打ち付けた時には、もう意識がなかった。
ドタッ、コトッ、ガラガラガラ、バタッ。
大きくて鈍い音が廊下の方から聞こえてきて、ビャクニブは驚き身体を跳ねさせる。
何だ、今の音。
ビャクニブは不安になって立ち上がり、廊下へ向かう。
静まり返った廊下に出た時、ビャクニブは「…カ、カトラ…?」と名前を呼ぶ。
返事はない。
ビャクニブは四つん這いになり空気の匂いを嗅ぐ。カトラの匂いを辿って、右側の扉に鼻を当てる。
そこはトイレで、鍵がかかっていた。
鍵がかかってるということは、カトラがこの中にいるということだ。悪魔にはトイレという概念がないので、初めて人間の食べ物を食べて便意を催した時、ビャクニブはパニックを起こして泣いた。
幸いにもカトラが察してくれてトイレについて教えてくれたので大事にはならなかったが…。
だからここが閉まっていると、中に誰かが入っているということは理解できた。
ビャクニブは、扉をバンバンと手で叩く。
「カトラ?カトラー?」
名前を何度も読んで、返事を待つ。いつもなら機嫌が悪くてもすぐに返事してくれるのに。
どうしたんだろう。何で返事してくれないんだろう…
ビャクニブはいよいよ怖くなって、さらに強く扉を叩く。
ついでにドアノブをガチャガチャしたりして、開けられるかどうかも確かめる。
でも扉は固く閉ざされていて、開く気配がない。
そして、何度呼んでもカトラは返事をしてくれなかった。
「かっ、カトラっ!カトラ!?カトラカトラァ!!!」
なんで?
なんで返事してくれないんだろう。
僕が何かしちゃったの?
僕がさっき、カトラに言ったこと、良くなかったの?
だからカトラ、怒ってここに入って、返事してくれないの?
「…カ、カトラ…べ、べすよく…カトラ」
ごめんなさい。
ごめんなさい。悪いことしてごめんなさい。
悪いってわからなかったの。ごめんなさい。
…そうだ、謝る人間の言葉、僕覚えてる…!
テライに教えてもらったんだ。
それを言えばいいんだ。前もそれで許して貰えたもん。
「…カトラ、カトラ、ご、ご、ごに…ご、ごねね…」
あれ、なんだっけ。
あんなに頑張って覚えたのに、思い出せない。
これじゃ、謝れない。
「うう、うっ、カトラ、カトラァ……ごんねね…ごんねね…」
違う、こんなんじゃない。
もっと、もっと優しい響きの言葉だったはず。
やだ、やだ。
思い出せない。思い出せないよ…
こんなのやだ。カトラに謝れないのやだ。
これじゃずっとカトラここにいて、きっと出てきてくれない。
許して貰えないよ。
そしたら僕、1人になっちゃうの…?
「うぅ…えぐっ、カトァ……うぁっううう…」
カトラお願い。出てきて。
これからちゃんとお手伝いするよ。
言葉にも気をつけるから。ちゃんとお利口にするから。
わがままも言わないようにするから。
カトラのこと、困らせないようにするから。
ちゃんとするから。
言葉もちゃんと覚えて、カトラとお話するから。
だから……………
「カトラ…………カトラ………………ごねめ…ごね、ごめ…」
扉を引っ掻いて泣く。引っ掻いて、傷をつけてしまっても。
カトラが出てこないのが怖くて、寂しくて。
涙を流すことしか出来ない。
その時。
突然、僕の頭に酷い痛みが走った。
押されるような感覚に、僕は冷たい廊下に倒れる。
「あぎゅ………」
僕は驚き、すぐに体を起こすと、今度はしっぽが酷く痛む。
「あびゃっ!?ゔっ、ううっ!」
僕がしっぽを見ると、誰かの足によってそれが踏まれてるのが分かった。…強い、強い力で。
見上げると、そこには見慣れた、見たくない顔があった。
「よお、ゴ キ ブ リ」
やけに高い声。
やけに綺麗な見た目。
トワイラ。
僕が大っ嫌いな天使。そう、僕らの敵だ。
トワイラは僕のしっぽを容赦なく踏み躙って、嘲笑って見下ろしてくる。
「可哀想に、ご主人に嫌われちまったなぁ?」
トワイラはさぞ嬉しそうに笑って言う。
僕はしっぽの痛みに耐えながら言い返す。
「…っ、うるさい!!足退けてよ!!」
僕が彼の足をひっかこうとすると、「おっと」なんて小さく言ってトワイラは足を退けた。
「おやおやぁ?随分と荒々しいなぁ…?
そんな乱暴したら、ご主人がもぉっと怒るぞォ…?」
僕は歯を食いしばった。何も言い返せない。
こんなやつ、こんなやつ、沢山引っ掻いて、傷だらけにしてやりたいのに。
なのに。
「約束だよ、ビャクニブ。
誰かを傷つけるような子にならないでね。
今のままの、優しい子のままでいてね。」
カトラとの約束が頭をよぎる。
なんて言ってるか分からないから、テライが訳してくれた、大切な約束。
だから…
僕は反抗せず、ぐっと堪えた。
その様子を見て、トワイラは不気味に首を傾げて言った。
「へえ?珍しく感情的じゃねえな?
その未熟な爪で俺の事引き裂いてもいいんだぜ?」
「やだ。やらない。」
僕がそっぽを向いて言う。こんなやつ、無視してればいいんだ。
ムキになる必要なんかないんだ。
だってトワイラは、僕のこともカトラのことも、何も知らないんだから。
僕が目を閉じてムスッとしていると、突然トワイラはしゃがみこんで、僕に近づき鼻歌のように囁いた。
「負ぁけ犬、弱虫ぃ、ク・ソ・餓・鬼、ゴッキブリ☆」
そんな言葉効かない。
僕はそんなに弱くないんだ。
カトラと約束した。
僕は強くなる。いつかカトラに褒めて貰えるように。
だから泣かない。怒らない。
こんな言葉、耐えられる。
「おっ前の主人っ、クソ野郎♪」
…は?
僕は目を見開いてトワイラを見る。
今なんて言った?
僕の主人…?カトラ…?
カトラが、クソ野郎…?
「被害妄想♪可哀想アピール♪病んでるアピール♪
他者の努力を棒に振る、心のない奴♪愚か者っ♪」
トワイラはだんだん声が大きくなり、立ち上がって踊りながら、大声で歌う。
「ゴミ以下人以下、クズ野郎♪」
僕は、頭の中で何かが切れたような気がした。
もう、涙も出ない。
立ち上がる。
いつもより景色が高い気がする。トワイラを見下ろしてるような感覚だ。
不思議と体に力が漲ってきて、行き場のない怒りが喉から音になって漏れてくる。
「キキキキキ…キキキキキ………」
威嚇の音。上手に出来ないけど、精一杯の威嚇。
毛を逆立てて、目を光らせて、手を大きく開いて。
こいつ、許せない。
カトラのこと、馬鹿にした。
僕の大好きなカトラを、馬鹿にした!!!
低い声で唸る。
その声はいつもより異様に低くて、ドスが聞いてる。
その様子を見たトワイラは「おおお?」と嬉しそうに笑っている。
見てろ。そんな笑顔今にぐしゃぐしゃにしてやる。
もう二度と笑えなくしてやる。
僕は我を忘れて、トワイラに飛びかかろうとした。
爪を立てて、貫いてやるつもりで。
しかし。
僕が力を込めた体は、何かによって塞き止められていた。
まるで抱きしめられるように受け止められて、震える体を優しく抑え込まれる。
「ビャクニブ、いい子だから」
悪魔の言葉。聞きなれた優しい声。
そして、鼻の先が触れている洋服から香る、優しい、雨のような匂い。
「いい子だから、落ち着いて。大丈夫だから。」
そいつは僕の頭を撫でて、僕が暴れようとするのを防いでくる。
僕はさっき思いっきり立てた爪が、その体に刺さっているのを感じて思わず引き抜く。
指先には血。背中と頭には温もり。
目が覚めていく。我を忘れて赤くなった意識が、色を失って冷めていく。
体が、縮むような感覚がした。
僕を抱きしめていたテライは、切ない顔をして腕の中の僕を見下ろしていた。僕が刺してしまったお腹が痛いはずなのに、少しも苦しそうな顔をしていない。
「………テライ………テライ、僕…」
僕は泣き出す。どうしていいか分からなくて、謝りたくて、カトラのこと伝えたくて、でも怒ってて…もう訳が分からなくて。
「うん、大丈夫だよ。分かってるから。だから、ね
落ち着いて、いい子、いい子だからね」
そこで僕は気絶した。
なんでか分からないけど、酷く体が疲れた気がして。
安心して、意識を手放してしまった。
テライは、眠ったビャクニブを抱きかかえ、リビングへ行く。
そしてソファに優しく下ろして頬を撫でると、また廊下へ戻る。
廊下でニヤニヤしているトワイラを睨み、テライは言った。
「失せろ」
トワイラは震え上がる仕草をして「うわぁ、こわいこわぁいw」と高い声で言うと、その姿を消した。
周りが静かになると、テライはトイレの扉に手を置く。
そして小さな声で、人間の言葉で囁いた。
「起き、て、カトラ。
ビャクニブを、起こして、あげて」
そうして首に巻いていた羽を扉の隙間に差し込み、中で倒れているカトラの背を、長く、長くゆっくり撫でた。
カトラが目を覚ましたのは、気を失ってから実に30分ほど後の事だった。
めまいを我慢して慌てて起きてトイレから出ると、リビングで眠るビャクニブが目に入る。
その目元は赤く腫れていて、苦しそうに眠っていた。
「ビャクニブ…?」
俺がそう呟くと、ビャクニブは目を開けた。
そして俺の顔をとらえる。
「…………あ……か、か、」
ビャクニブの目からまた大粒の涙がこぼれる。
「カトァぁあぁあぁ!!!!」
飛び起き、飛びついてくるビャクニブ。
まだ起きたばかりでふらつく体が、後ろにドテッと倒れて尻もちをつく。痛い。
「うぁぁぁぁぁぁん………うびゃぁぁぁぁぁ……」
でも、ビャクニブが泣きじゃくってその頭を俺に何度も擦り付けてくるのをみて、痛かったのは俺だけじゃないと悟る。
いや、むしろ。
俺よりもずっと苦しくて、痛かったんじゃないかって。
心配させちゃったんだよな。
ごめんな、ビャクニブ。
俺はビャクニブを撫でて言った。
「ビャクニブ…ごめんな」
するとビャクニブはガバッと顔を起こし、ぐしゃぐしゃの顔で首を横に振り、大声で言った。
「ゔぅ、うぅう、カトラっ、ごめんネ、ごめんネ!!」
人間の言葉で謝るビャクニブは、本当に辛そうで。
でも同時に、本当に安心してるように見えて。
俺は微笑んだ。涙で濡れたビャクニブの頬を撫でながら、優しく微笑んで答える。
「ぎゃりぎゃり、だよ。ビャクニブ。ぎゃりぎゃり。」
そんな俺を見て、ビャクニブは少し固まって驚いた後、涙を零しながらも、くしゃっと笑って見せた。