咳*810年9月のこと。
最近になってから、やたらと忙しくなった。
憑級3級である僕は、ある時母校で憑依型の事前学習のアシスタントを勤めることになり、以降はずっと地球に降りることも無く黙々と獄校の中で働いていた。
時代の流れもあるのだろうが、今の授業を見る限り、僕が生徒だった頃とは教育方式や授業内容が全然違う。
本来僕は授業を教える側なのに、生徒から新しいことを教わってばかりだ。
「你任谷さん、お疲れ様。もう先にあがっていいよ。」
「ありがとうございます。」
僕がくっついて回っている担当教員の人からお許しを受けたので、僕は少し早めに獄校を出て、家を目指す。
父である和芽音の死後、他に遺族もいなかった你任谷家の実家は完全に僕のものとなり、今も一人暮らしをしている。
結局パートナーなんてものは、何年待っても一向にできる気配がなかった。その理由として自分の顔を蔑むなんてもう昔のことだけど、一生独身でいる、というのも腑に落ちない。
せめて1回でも、女の子とデートしたり、付き合ったりしてみたかった。
父さんは1000年生きることはできなかった。
タバコをよく吸う人だからもともと肺が弱かったのは知ってた。だけどまさかあの元気な父さんが、肺炎なんかで突然死んでしまうなんて思ってなかったし、本当にショックだった。
僕も今年で206歳になる。
憑依型として生きていくと決めた以上、僕が最も気をつけなくてはいけないことは、まさに病気だ。
肺炎や癌なんてものはともかく、憑依型の間で起きるあの厄介な病気だ。
ジャマ。
病原体を保菌している憑依型同士の接触により感染する、危険な病気。
公には、憑依液に含まれている危険な成分が長期にわたり体内に蓄積され、精力と共に体をめぐり、精力を体に回すポンプの役割を果たすギルガムを腐敗させてしまうことで起きる病気らしい。
治すには、全く新しい羽を摂取する他ないのだ。
ただし、ジャマという病気は発病して以降、長期にわたる苦痛に苛まれることになる。
大抵の場合、悪化する時間は個人差があるが感染直後は自覚症状がない所から始まり、潜伏期間が伸びるにつれ、徐々に咳が出始める。
もちろん、異変を感じて早い段階で獄棟から寄付羽を買って摂取すれば治すことは出来るが、大抵の人は気づけずに、手遅れになることが多い。
末期になれば歩けなくなり、血を吐き、皮膚表面に血管がびっしりと浮き上がり、全身の痛み、五感の喪失などがある。ここまでになってしまっては、感染する可能性があるので、憑依型ならばたとえ遺族でも、誰も患者と接触することはできなくなる。
そして何より、そのあまりの苦痛が故に、羽さえ摂取すれば治る段階であっても自分の命を諦め、他の患者を救うために羽を獄棟に寄付して安楽死を望む患者がほとんどだ。
それに対し、獄棟側が保有している羽を、1匹分の悪魔の治療に使う量を購入するとしたら、保険金で補っても数千万阿単位に及ぶ。
金額を見れば、自分の命を諦めたくなるのも無理無いのだ。
羽は悪魔の命。ジャマにかかってしまっても、侵食されて使い物にならなくなるのは、本当に死ぬ直前だ。
羽がまだ役に立てるうちに切り取れば、その羽は誰かの役に立つ。ジャマ以外の患者でも、誰かの命を救うことになる。
だから、ジャマに感染し、悪化していよいよ歩けなくなるレベルに達すると、ほとんどの悪魔がそれを望むのだ。
無論僕も懸数は平均にとどまっているし、収入もそんなに多くない。自分がもしジャマにかかってしまったとしても、1本だって羽を買うお金なんて無い。
憑依型の知り合いは周りにごまんといる。
ジャマの感染リスクばかり恐れていては、まともに集団行動すらままならない。
最適解として、継続して咳が出るならまずは受診することだ。
帰路の途中、ふと僕は地獄の天井を見た。
地球の空のように高くゴツゴツとしたドーム状の黒い壁に、この地獄は囲まれている。
そして遠くに見える、眩しい柱光源。
この辺も、細かい敷地は色々と変わったものの、風景は思ったよりも変わっていないようだ。
僕の故郷。仲間と呼べる人は少なくなってしまったけど、色々と思い出が詰まった、大切な居場所だ。
仲間と言えば、渝のことだ。
あいつはここのところ地球で憑依活動に出回っていて、ぱったりと会う機会が無くなってしまった。
最後に会ったのはいつだったか。
あぁそうだ。最後に会ったのは2年前の4月頃だ。
僕らがこんなに長い期間全く顔も合わせずにいるなんて、一部の人たちからすれば想像もつかない話だと思う。だけど、そもそも前から渝と、いつまでも2人でくっついて行動しているのも変だろう、という話もしていた。
なんてったって僕らはもう200歳を超えた大人だ。
さすがにこの歳になってもずっと一緒に行動してると、幼稚に感じるというか、どうしても恥ずかしくなってしまう。
渝は本当に内気で、なかなか自分に自信を持てない性格だ。その性格だからか、いつも「霞くんが唯一の心の支えだよ」とか言ってくれる。昔からそうだ。
あの恥ずかしい初対面の日から百数年、互いに長所短所を埋め合いながら多くの時間を2人で過ごしてきた。
だからこそ、突然離れるなんてきっと耐えられないことだから、慣れるために数十年くらい前から徐々に間隔を空けながら別々で行動していた。最初は一日、次に1週間、慣れてきたら1ヶ月…って感じで。こんなことしている時点でお互い依存している証拠だから、結構恥ずかしいのは事実だ。
でもそれで結構慣れたし、一人でいる時だからできることも沢山見つけた。
だから2年くらい会わないなんて、屁でもないと思っていた。
…けど、やっぱり寂しい。
互いに依存し合っていた節が大いにあるのは分かってる。それを克服するために色々と考えてきたが、やはり短期間だろうと長期間だろうと、渝のことを考えない日は無かった。何か別のことを考えても、直ぐに渝と結びつくのだ。
新しい服を買いたいな…あ、ちょうどいいから渝が気に入っているお店に行っ……
…そうだ、キャラメルを使った新しいお菓子作ってみようかな。出来上がったらまずは渝に食べてもら……………
恥ずかしいけど、まるで恋人みたいだった。
変な話だけど、僕たちは互いのことを本気で好きだったし、自分よりもいつも互いのことばかりを気にしていたはずだ。
特に渝は、行動基準をいつも僕に合わせていた。
霞くんがやるなら僕も。
霞くんがいいなら僕もそれでいいよ。
僕は絶対霞くんについていきたい。
いつでもどこでも何をしていても、まずは僕を上にあげて、自分のことなんて後回しだった。
ただ、幸いにも渝は僕よりもずっと優れた才能の持ち主だった。
ああ見えて結構ちゃんと芯のある性格だし、僕なんかよりもずっと周りに馴染めるタイプだと思う。
だから、離れたところで僕が居なきゃダメになる、なんて心配はない。むしろ僕が居なくても全然やっていけるだろうな。
それに比べて僕なんて、昔から渝が褒めてくれるのいいことにカッコつけてただけで、本当はめちゃくちゃ頭悪いし、言い出しっぺで失敗ばかりしてマヌケだし、何の取り柄もない地味な奴だ。
なのにいつも渝は、僕を褒めてくれて、憧れだと言ってくれて、本気で僕を尊敬してくれていた。
そんな渝が僕の傍にいなくなった今、さっきも言った通り渝は実力があるから1人でも十分やっていけるだろうけど、僕はまるでダメだ。
周りにもますます笑われている気がするし、知り合いに会っても「最近柘果寺くんと居ないけど、喧嘩でもした?笑」と言われてばかり。
仕事だって何とかやってるけど、渝が居ないと少しも自分に自信を持てない。なんならミスが増えた気がするし、上司たる人達は別に意地悪じゃないけど僕は謝ってばかり。そんなんだからやっぱり、どうしても自分が影で嗤われているように感じる。いつからこんなに被害妄想をするようになってしまったんだろう。
それに何より、寝る時間になってもなかなか寝付けない。何かぼんやりと怖くて、とにかく寂しくて悲しくて、毛布をギュッと抱きしめて泣きながら眠りに落ちるまで待つ。
結局のところ、お互いに依存しているとか言いながら、一番依存しているのは僕だ。
こうして僕が渝のことを考えている今も、渝はそんなこと気にせず、地球でいつものように明るく振舞って、色んな人に囲まれて幸せに暮らしているんだろうな、とか思ってしまう。
それがとても虚しくて、なんだか苦しくて。
彼にはもう僕は必要ないかも、とか考えてしまう。
いや、実際昔からそう思っていた節があった。
自分は強がってカッコつけているだけという自覚があったから、渝の方が余程優れていることなんて昔から知ってた。そういうのもあって僕は色々な意味で劣等感の塊みたいな奴だったから、渝が僕のことばかりを崇めて敬ってくれるのは、嬉しい半面ちょっだけぎこちなさがあった。
渝の隣にいるのが僕でいいのかとか、渝の親友でいることは本当に渝の為になってるのかとか、考えればキリがない。
別に渝が謙遜ばかりして僕のことを尊敬していることに対して腹を立てたりとか、苛立ったりしたことはない。確かにぎこちないとは言ったけど、それでも嬉しさの方が強かったから、渝の才能に対して嫉妬したりとかも、全然ない。
それに、渝は嘘をつかない。本当に素直で正直なやつだ。だから僕のことを褒めてくれる言葉も、本気でそう思って言ってくれていると分かるから、それに対して僕が怒るのもおかしいでしょ。
だからもう僕がいなくても彼は生きていけるんだ、とか勝手に思っちゃったりする。
ただ、それでもきっと渝はまだ僕のことを忘れたりしてないと、そう思い込みたいのが本音だ。
こういうのを、愛が重いって言うのかな。
けど、そう願う気持ちを邪魔する事実がある。
実は、1年以上前から蛇便のやり取りが途絶えてしまった。
返事が来ないからという理由で僕から手紙を送っても、全く返信をくれなくなってしまった。つまりは、彼がどこにいるのか、元気なのかどうかすら分からないのだ。
誰かを好きになったことがある人なら、きっと同じような心の痛みを経験したことあるんじゃないかな。
もしかしたら、向こうでもっと気が合う友達を見つけてしまったのかもしれない。もしかしたら、恋人が出来たのかもしれない。
いや、もしかして、何か事故に巻き込まれたのか、病気になったのか…とか、悪いことばかり想像してしまう。
最悪、僕のことを嫌いになってしまったのか…ともほんの少し思ってしまう。
でも、そんなことを思ってしまったら、まるで僕が渝のことを勝手な思い込みで突き放しているようじゃないか。こんなのっておかしいよ。
それらすべてが合わさった恐怖のような感情が、今僕にのしかかっている。
確信がないのが、何より確かめられないのが余計に辛い。
これで僕が渝に会うために地球に行ったとしても、行き先がどこなのか知らないから、会える確率はほとんどない。
それに渝は…僕の顔を見たくないかもしれない。
というか仮に渝に新しく友達や恋人が出来てたとしても、僕は喜んであげる立場じゃないか。そうしてあげるべきじゃないか。
それなのになぜこんなに苦しいんだ。
…渝、元気にしているのだろうか。
どこで何をしているのだろうか。
確かに新しい出会いで僕に対しての感情が軽薄になっているとしたら悲しい。だけどよく考えてみれば、不運な事故や病気の可能性を疑うより、そっちの方がよっぽどマシだと気づく。
せめて、彼の生死を確認したいとばかり、毎日思っている。
もう手紙を何通送っただろう。何回蛇鱗を買い足しに行っただろう。
貯めたお金で僕ら専用の蛇便を雇ったけど、僕のせいで酷く沢山働かせてしまったな。大切にしようと決めていたのに、可哀想なことをしてしまった。
だから僕はいつもみんなに嫌われるんだ。
…ほら、またこれだ。
何を考えても、全部負の感情に結びつく。考え出したら最後、他のことに気を取られるまでは思考が往復する。気持ちを落ち着かせるためにキャラメルを口に入れても、ちっとも美味しく感じない。むしろ僕にキャラメルをせがんでくれていた渝の顔が思い浮かんでしまって、余計に悲しくなるだけだった。
僕はぐちゃぐちゃの思考をぐっと飲み込むようにして、何とか家にたどり着く。家の扉を乱暴に開けて中に入ると、外よりも冷えた空気に満たされていた。
そうだ、もう9月なんだ。もうそろそろ寒くなってくるかもしれないから、上着とマフラーを出しておかなきゃな…。
僕は廊下を進み、散らかったリビングに仕事用のカバンを置いて、上着を脱ぐ。父が好んで吸っていたタバコの匂いが、この家に染み付いている。その香りは切なくも懐かしくて、今もまだ父さんが僕を見守ってくれているような感覚にも捉えられる。
もしも見てくれているなら尚更、僕が渝の事でくよくよしているのを見せる訳にはいかない。
今夜、また手紙を書いてみよう。多分また返事は来ないだろうけど、蛇便は連勤で本当に可哀想だけど、ごめんね。
僕の我儘を許して。
そして夜、寝支度を済ませてから僕は早速手紙を書いた。
宛名 01443 ネイ・バトサイカン
久しぶり。元気?
僕も何とか元気にやってるよ。
今回は返事待ってるっていう要求はしないから安心して。
ただ、伝えたいことだけ伝えさせてほしくて。
もう僕ら2年くらい会ってないんだよね。
なんかあっという間だったね。
この2年間で本当に色々なことがあったから
すごく疲れた気がする。
もちろん、こんなことでへこたれたりしないけど。
渝もきっと今すごく忙しいんだよね。
そんな時にあんまり長い手紙を読む余裕もないと思うから
できるだけ短く書くようにしたいけど…
ごめんね、もう既に結構長いよね。
あ、伝えたいことなんだけど。
さすがに2年間も全く会わないでいると、結構寂しくなってきた。
仕事が一段落したら、僕しばらく休暇を取ろうと思ってる。
そしたら地球に行こうと思ってるから
良かったら地球で待ち合わせて久しぶりに会わない?
色々報告とかしたいしさ。
もちろん無理は言わないけど、渝に余裕があればそうしたくて。
だから、仕事の合間に少しでも何か返事をくれたら嬉しいな。
…って、返事待ってるって言わないよって僕言ったのに
結局言っちゃってるね。ごめんね。
でもそれくらい会いたいなって思ってるから。
渝がどうしてるかもすごく心配だよ。
具合が悪いなら無理しないで欲しいんだけど、本当に余裕が出来たらでいいから、また返事くれたらいいなって。
その時にでも会える日程とか調整したい。
長くなっちゃってごめんね。
体に気をつけてね。
ティフ・アイディトゥーレ
僕はところどころ掠れ文字になってしまったのを気にしつつ、だいぶ年季の入った万年筆をコト、と机に置く。この歳になっても誤字脱字が多すぎて、黒く塗りつぶされたところが多い。それに出だしこそ綺麗な字で書いてたのに、後半になったらもう殴り書きみたいだ。こういうところ、本当に直したいな。
表面に軽く息をふきかけてインクを乾かすと、4つ折りにして、茶色い封筒に丁寧に入れる。
封を閉じ、机の右に置いてある小箱を引き出して、中から蛇鱗を3枚取り出す。
それを封筒に貼り付けると、横からシュルシュルと音がして、僕らの蛇便「ヤキ」が現れた。
「…ごめんね、何回も」
僕が小さな声でそう言うと、「大丈夫だよ」とでも伝えるかのようにヤキは優しく瞬きをしてくれた。
僕は手紙をそっと差し出して言う。
「宛先は憑依型番01443 ネイ・バトサイカン。
憑依型番01443 ネイ・バトサイカン。」
言い終えると、ヤキは手紙を咥え、南界璃へと姿を消した。
僕はインクが着いて汚れてしまった手を洗い、直ぐにベッドに入る。
手紙を書いた日は極めて落ち着いて眠れる。
手紙を書くことで、まだ僕と渝の関係は終わってないと、自分に言い聞かせているような気がするからだ。
…今までそんな勇気はなかったが、今回また返信が来ないようだったら、渝の御家族を訪ねてみようとも考えている。正直柘果寺家のご両親は見てくれが怖いというか、厳しい人達だから、会いに行くのが怖い。だけど、渝がどうなったのかを知っているとしたら間違いなく彼らだと思うから、いつまでも脅えていては仕方がない。
3日間返信がなかったら、聞きに行こう。それまでにスーツと靴、綺麗にしておかなくちゃな。
そんなことを考えているうちに意識が遠のいてくる。
良かった、今日は眠れそうだ。
僕はドレッサーの上に置かれた父の写真を見て、言う。
「おやすみ、父さん」
そして目を閉じ、眠りについた。
翌朝。
久々にぐっすり眠れたせいか、やけに頭がスッキリしていた。
昨日の夜は結構気持ちが重かったから、翌朝になっても引きずりそうで怖かったのだが、意外にも頭はその苦痛を乗りきったらしい。
心做しか外もほんの少しだけいつもより明るい気がするし、試しに窓を開けてみると、涼しい風が吹いてきた。
気持ちのいい朝だ。
出勤時刻までまだ時間があるので、たまには手の込んだ朝食でも作ってみようかな、という気になった僕は、部屋着のまま台所へ足を運ぶ。
父さんは料理も結構やっていたから、料理器具も結構いいのが揃っているし、僕も人並みに料理はできる。キャラメルに憑依している間は何故か料理なんてほとんどする気にならないのに、本当の自分でいる時こそ、まるで父の血を引いているかのように突拍子もなく料理がしたくなることがある。
もちろん失敗したことも沢山あったけど、その失敗あって、今の僕の料理の腕前は、そこそこ自慢できると思う。
…そうだ、料理はまだ自信を持ってできると思えている。渝にも食べさせたことがあるけど、相変わらずべた褒めだったから、レビューとしては当てにならなかった。
それでもまあ、誰かにご馳走するくらいは出来ると思う。
…まあ、そのご馳走する相手が居ないんだけどね。
僕は台所に余っていた食材をかき集め、料理を始めようとした。
その時だった。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
僕は触手をピン、と立ててドアの方を見る。
まだ朝の6時にもなってないのに、随分と早い時間にお客さんが来たみたいだ。
…新聞屋さんだろうか。
それなら外の手紙受けに入れてくれればいいのに。
ドア越しにはあまり影が分からないが、一体誰だろう。
僕が固まっていると、再びノックの音がした。
僕は「待っててください、今開けますので」と少し大きめの声で言って、せっかく気合いを込めて締めたエプロンを解いて脱ぎ捨て、前髪を雑に後ろへ持ち上げて、すり足で廊下を歩く。途中一瞬だけ洗面所を覗き込み、自分の顔を見る。
うん、相変わらずブスだけど、汚れとか何もついてないよね。大丈夫だ。
そして僕はつっかけを履いて急いでドアを開けた。
ガチャ。
「はーい、お待たせし……」
ドアを開けて来客を見た僕は、ドアノブを握ったまま迎えの言葉の途中で声が出なくなってしまった。
そこには、渝が立っていたのだ。
僕は固まっていた。一瞬、目を疑いたくなったほどだ。
時間差で、彼の優しいいちごの香りが、心地よく香る。
言葉が出ない。喉が詰まっているように、息もできない。
異常に喉が乾き、体が熱くなる。
「……霞くん…」
そんな固まった僕をじっと見つめて、渝は囁くような小さな声で僕の名前を呼んだ。
昔と変わらない、柔らかくて高い、透き通るような声。
僕は、彼と初めて会った時のような緊張に見舞われ、ギルガムの振動が痛いほど強くなる。
痛いような、苦しいような、そして、肩にのしかかっていた重い何かが、一瞬にして下ろされたような、あっけなく感じるほどの開放感があった。
ずっと会いたかった渝。
昨日まで、あんなに夢に見ていた渝との再会。
その渝が、自分の目の前にいる。
僕を見つめている目は、昔と変わらない優しい水色で、他でもない僕の目を、しっかりと捉えていた。
夢じゃない。本当に渝だ。
渝が、帰ってきた。僕に、霞に会いに来てくれたのだ。
よく見ると、彼は左手に封筒を持っていた。蛇鱗の貼られていない、見慣れた茶封筒だ。
昨日、僕が渝に出したものと全く同じもの。
「…渝…」
僕が何とか声を絞り出して、震える声でそう言った時、渝は僕を見つめていた目を途端に潤わせ、ボロボロと涙を零した。
突然視界がぐらっと揺れる。
僕がそれに驚き瞬きを繰り返し、何があったのかを確認した頃には、渝は僕を、体当たりするように抱きしめていた。
強い強い力で、まるで体を縛り付けるようにきつく抱き締めてきた。ドアから手を離した僕は渝に抱きしめられたまま、玄関に置かれた靴の上に尻もちをつく。
そして、何かと思えば、渝は声を上げてわんわん泣き始めたのだった。
「うわぁぁぁん…わぁぁぁぁあん…
霞くんごめぇぇん…本当にごめんねぇぇぇ…!」
2年ぶりに聞いた、渝の綺麗な声。
だけど、その泣き声は心が裂かれるような悲愴な声で、聞いているだけでこちらも泣きそうになる。
いや、それに関係なく、僕は自分の意思で泣きそうになっていた。
渝が、帰ってきた。
それどころか、僕の所へ帰ってきて、こんなにも強く僕を抱きしめてくれてる。
昨日まであんなに悩んでいたこと全てが、この瞬間に何もかも吹っ飛んで、ただ、目の奥から熱いものが込み上げてくる。
僕は、渝に見捨てられてなかったんだ。
渝がいなかったこの2年、どんなに辛くて悲しくて寂しい時でも、渝が褒めてくれた、見た目だけでもかっこいい自分でいるために、大きな声で情けなく泣きたいのを一生懸命我慢してきた。
こぼれる涙を他の人にバレないように隠してきた。
だけど、もう大丈夫だ。
渝の前でなら、大きな声で泣いたって誰にも笑われない。
笑われたって気にもならない。
渝がいてくれるなら。
僕は堪えていたものが一気に溢れ、彼に重なって泣いた。
渝の背中に手を回し、抱きしめ返す。
その安心感が、僕を本気で優しく包み込んでくる。
「うええぇえん…会いたかったよぉぉぉ……
寂しかったよぉぉぉぉ…………うわぁぁぁぁん…」
「…っ、……!」
僕も何か言ってあげたい。
言いたいことが沢山あって、何から言ったらいいか分からない。
でもいいや。
今は、この嬉しさを噛み締めたい。
今日の仕事は休んで、ゆっくり渝の話を聞こう。
その時にでも、言いたかったことを沢山言ってあげよう。
渝の言いたいこと全て、受け止めてあげよう。
僕らはしばらく、そうしてお互いを確かめるように抱きしめ合っていた。
**********
お互いにある程度落ち着いてから、僕は渝を支えながら家に入れ、台所の椅子に座らせた。
ここの所誰も家に来てなかったから思いっきり散らかっていて少し申し訳なかったけど、そもそも父の死後この家に来てくれるのはせいぜい宅配便か、というか家に入るのは渝くらいだったから、今更気にすることでも無いかもしれない。
渝の前のスペースだけ机の上のゴミを軽く払って、台布巾で拭く。
そして温かいキャラメルラテを淹れたマグカップを彼の前に差し出す。
鼻をすすり、噦りながらも「ありがとう」と言って、渝はそのマグカップを両手で持って飲んだ。
その間に、ヤキに手早く仕事を休む旨の連絡書類を預け、僕は彼の対面席に座る。
驚くことに、渝は全然変わっていなかった。
血液に憑依したままの赤い服、そして綺麗な赤毛、艶のある白い肌に、憑依してようとしてなかろうと変わらない水色の目。
昔から全然変わらない容姿。
それを見て、僕はある意味で安心していた。
仮にこういう再会の仕方ではなく他の場所で改めて再会出来たとしても、見た目が大きく変わってたりしたらそれこそ何があったのか不安で仕方なくなるだろうし、自分の知っている渝はもう居ないんだと思ってしまいそうだから。
だから、変わってなくて良かったと思っている。彼にとってそれが果たして良いことなのかは分からないが、少なくとも僕にとっては本当に嬉しい事だった。
「っ…ごめんね、急に押しかけちゃって…」
渝が一息ついてから、ゆっくりと口を開いた。
僕は首を横に振って答える。
「何言ってんの。
逆に全然来てくれないから本気で心配してたよ。」
渝のことを毎日のように考えていた今、渝が突拍子もなくここへ来てはいけない理由なんて無い。たとえそれが真夜中だろうと仕事中だろうと、どんな時であっても、拒む理由なんてありもしない。
「…ほんとごめんね。お手紙、沢山くれたのに、全然お返事書けなくて。」
そう、まず聞きたいのはそこだ。
別にきつく問い詰めたり怒ったりする気は全くないけど、その理由だけははっきりとさせておきたいのは本音だ。
長いこと会えなくても、手紙さえやり取りができていればとりあえずは安心できる。だからこそそれすらも出来ないとなるとにこんなに苦しい生活になってしまう。
「うん…忙しかったとか?」
僕がおずおずと理由を聞いてみると、渝は目を伏せたまま答えた。
「ううん……そうじゃない。
お手紙を書く時間とか機会は…沢山あったよ」
え?と僕は聞きかえす。
なら、意図的に僕に手紙を書かなかったということだろうか。
それならなおのこと理由が気になる。
なにか僕に手紙を書きたくない事情があったのだろうか。
「……僕ね、1人で地球に行ってから、いかに僕が今まで霞くんに甘えてたか実感したんだ。
霞くんがいないとね、自分の行動に全然自信が持てなくて、何が正しくて何が悪いのかも全然分からなくて、行って早々冥界に帰りたくなっちゃうくらいだったんだ。」
そう言っている渝は、本当に申し訳なさそうな顔で両手に包んだマグカップを見つめていた。
「けどそれじゃダメだって思って、もう200歳こえてるんだから霞くんに頼らずに1人でも行動出来るようにしなきゃダメだー!って思って…それで…」
「…霞に手紙を出さないことにした?」
僕がそう聞くと、渝は小さく頷いた。
僕は安堵と理解の意味で軽くため息をつく。
そっか。渝も渝なりに、僕と離れた寂しさを克服しようと頑張っていたんだな。
…あれ、でも……
「でも、それなら霞にそう報告してくれればよかったのに」
「え?」
「これから頑張って1人で行動してみたいから、しばらく連絡をしないことにするよー、とか、一言くらい手紙で言ってくれれば良かったのに。」
別に怒ってはいない。むしろ安心したら言えることだ。
怒っているようにも聞こえてしまうかもしれないけど、賢くて頭の回る渝なら、それくらいやってくれるはずだと思っていたから、なんとなく意外というか。
ところが、渝は言った。
「………僕、言わなかったっけ…霞くんに」
僕はえ?とまた聞き返した。
渝はつまり、手紙を書かないでいるということを僕に報告したものだと思っているらしい。
しかし、そんな大事な内容を流石に僕でも見落とすわけないし、渝なら絶対に分かりやすく書いてくれているはず。
「書かれてなかったよ。どこにも。」
そう言いながら僕はリビングまで軽く足を運び、書類とか本をまとめてある棚から、最後に受け取った手紙を渝に渡す。
渝はそれを受け取り、中の手紙を取り出して、読み始めた。
その間に僕は、彼の空になったマグカップに改めてキャラメルラテを注ぎ直す。
ちなみに今回のキャラメルラテは、特別な白キャラメルをふんだんに使っている。
記念すべき親友との再会がこんな形になるとは思ってもいなかったけど、再会したら絶対にそうしてあげたいと思っていたからだ。
「…ほんとだ…書いてないね…」
渝は手紙を4つ折りに折り直してから、さっきよりももっと申し訳なさそうに僕を見て言った。
渝が物忘れをするなんて、珍しい。
とにかく獄校に通っていた時からしっかり者だった渝は、忘れ物をしたりとか、約束をすっぽかしたりとか、細かいことを言えば授業で習った内容だって絶対に忘れたことがなかったのに。
そんなに大切な報告を忘れるなんて、なんだか渝らしくない。
「その時期、忙しかった?」
「うーん…2年前だからね…さすがにはっきりと覚えてないけど…でも、うん…書いたとばかり思ってたよ…ごめんね」
渝は僕に手紙を返しながら、小さな声で謝罪する。
まあ、生きてれば忘れ物の一つや二つくらい、誰でもするから仕方ないけど…
何故か、僕はその件については少しだけ心に引っかかっていた。
けどまあ、気のせいだろうと思いながら、僕は深呼吸をする。
「気にしないで。そういうこともあるから。
とにかく無事でよかったよ。」
「いや、無事だなんてそんなぁ、おおげs…ごほっ、ゴホッゴホッ」
ふと、僕が手紙を棚に戻しに行った時、台所から突然渝が咳をするのが聞こえた。
キャラメルラテで噎せてしまったのだろうか。
「大丈夫?噎せた?」
僕が台所に戻ってからそう聞くと、苦笑いして渝は言った。
「あぁ、ううん……実は、1年くらい前から咳が酷くなってて」
その言葉に、僕は凍りついた。
咳…しかも、一年以上も前から…?
僕は、背中が凍りつくような感覚にゾッとして、真剣に彼に聞いた。
「渝、それ…まずいんじゃない?」
え…?と困った顔をして、渝は聞き返してくる。
咳と言えば、ジャマ。
ある程度進行すると出てくる、初期症状。
憑依型の間で感染する病気だからこそ、特に警戒しなくてはいけない初期段階の症状。
風邪とかならともかく、そんな一年以上も前からずっと続いてるとすれば…
可能性が、高いどころの話じゃない。
「渝、獄棟行こう」
僕が低い声でそう言うと、いよいよ驚いた顔になった渝が焦って言った。
「えっ、いや、霞くん…!
これは多分その、ジャマじゃないよ…!」
僕は何故そうと分かるの?と聞き返す。
「その…ほら、前にも言ったでしょ?僕の家系は喘息持ちが多いから、僕も少しその傾向があるんだって。日頃から僕よく咳してるでしょ?あれね、時期的にけっこう波があって、酷くなったり治まったりするんだよ!」
確かに渝は、昔から咳をすることが多かった気がする。
実際に喘息持ちの家系だという話も、確かに聞いたことはある。
…ああ、そういえば随分昔にも、同じように僕が焦って獄棟連れてって、ただの喘息だったってこと、あったな…
あの時は僕らがまだそんな稼いでない時で、柘果寺一家にお金がかかるとかの問題もあってご両親に睨まれたりしてた…
「それにね、ジャマで出る咳って、普通の咳と違って結構特徴的なんだって。感覚的に、この咳は喘息の時と同じ咳だよ。」
渝が僕を安心させようとしているのが分かる。
確かにあの時のことは、渝にとっても結構ストレスだったかもしれない。僕が両親に頭を下げて謝った後、特に怒られたのは渝だったみたいだし。
…今回もまたただの喘息だったら、渝のご両親に見せる顔がない…
…少し心配だけど…渝の言うことを信じるしかないな。
「…分かった。けどあんまり酷いなら獄棟行こうね」
「うん、うん!そうするよ。」
渝が笑って言った。久々に見た、渝の笑顔。
この笑顔が本当に素敵だから、脳裏に酷く焼き付くから、離れると辛いんだ。
僕はまた軽くため息をついて、気持ちを切り替えて言う。
「…久々に、地元巡りでもする?」
すると渝はパッとさらに明るい顔になって「行きたい!」と言った。
僕はそれを見て頷き、手荷物をまとめるためにリビングへ行った。
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