残酷な理解「どう?動ける?」
テライが僕の手を握る。
僕はベッドから腰を持ち上げて、震える足に力を込める。
冷たい床にしっかりと両足を付いて、できるだけ自力で立てるように体のバランスをとる。
ほとんど痛みはない。これなら動けそうだ。
「うん。大丈夫、歩ける」
よかった、と胸を撫で下ろすテライが、僕に目線を合わせてしゃがむ。テライの目はとても綺麗で、すごく優しくて。
カトラに、よく似てる。
……………カトラ。
お別れになってしまった。ちゃんと挨拶もできなかった。
あんな形でお別れなんて、全然納得いかない。
お礼も、謝るべきことも、何も出来なかった。
僕は涙を零す。
やるせない気持ちと行き場のない寂しさが、ズキズキと僕の心を刺してくる。
そんな僕を見てテライが優しく撫でてくれる。
温かい。
本当に、カトラみたい。
僕は泣いたままテライに抱きつく。
テライは直ぐに抱きしめ返してくれた。カトラよりも大柄で、すっぽり僕のことを包み込んで、優しく摩ってくれる。
小さな声で「寂しいよね」って囁きながら、何度も僕のことを摩った。
ふとテライを見上げれば、切ない微笑みがある。
カトラが毎日のように僕に見せる、笑顔。
笑っているのに、寂しそうな、見ていて辛い顔。
結局僕、カトラを心から笑わせてあげられなかった。
いつも何をやっても切なそうで、一生懸命訴えてもわかって貰えなくて。
僕のせいだ。
僕が、ちゃんと人間について勉強して、人間の言葉がしっかり話せていれば、カトラに想いを伝えることも出来たはず。
それを投げ出してしまった僕に、カトラとちゃんとお別れする資格なんてなかったのかもしれない。
「……………カトラ…」
泣きながらそう呟く。ここにいるのはテライだけど、テライは本当にカトラと似ているから、どうしても重ねてしまう。
テライは頷いて僕を抱きしめたまま、言いづらそうに「きっとカトラも、寂しがってるよ」と慰めてくれる。
テライだって、辛いこといっぱいあるのにね。
我慢してくれてるんでしょ。
僕のために。
カトラもきっと寂しいはずなんだ。
僕のことを好きでいてくれたから。僕のこと、大好きだって言ってくれたから。
だから、僕がいなくて寂しい…はず……………
…僕はどこで育ったんだっけ。
…ああそうだ、僕はあの家に生まれて、お母さんとお父さんと一緒に暮らしてたんだ。
でもお父さんが怖くて、毎日痛くて、辛くて。
だから抜け出したんだっけ。
でも、それでも愛されてたのかな。
じゃなきゃ、生かしておいてもくれなかったんじゃないのかな。
「生きてるだけでもありがたいんだ」
カトラが言っていた言葉。テライが訳してくれた言葉。
なら、僕が出ていってしまって、母さんも父さんも、寂しかったかな。
全然考えてなかった。
僕は嫌われてるとばかり思ってたけど。
もしかしたら、僕がいるだけでも何か違ったのかな。
そういうことだよね、カトラ。
カトラが教えてくれたこと、これで合ってるよね。
それなら。
「…テライ、ごめん、行きたいとこある」
僕がテライの顔を見て言うと、テライは目をぱちぱちして、首を傾げた。僕がテライの腕から離れてひたひたと歩き出すと、テライは背中に問いかけてきた。
「どこに行きたいの?」
僕は自分の裸足を少し見て、答える。
「僕の家」
テライは立ち上がって「一緒に行くよ」と言ってくれる。
けど。
僕も、いつまでも甘えちゃいけないんだ。
ずっと今まで甘えさせてもらったから。
もし、いつかまたカトラに会えたら。
立派になったって褒めて貰えるように。
「一人で行く」
そうキッパリと言って、復棟から出た。
意外にも地獄のことは覚えていた。
復棟から僕の地元はすごく近いから、徒歩でもすぐ行ける。
それで僕の家は、その住宅街の1番端っこにあるんだ。
「……懐かしいな…」
そびえ立つ一軒家を見て、僕は呟く。
もっと大きな家だと思っていたけど、なんだか小さく見える。
表の表札には「ルー」の文字。僕の苗字、僕の家系だ。
僕は勇気をだして玄関に近づく。
そして、深呼吸をして扉をノックした。
どうしよう、手汗が止まらない。
お母さん、怒ってるかも。
すごく、叱られるかも。
でも…
僕が勝手に出ていっちゃったんだ。
僕と同じで、お父さんを怖がってたお母さんを独りにしたから。
だから、どんな罰も受け入れよう。
ちゃんと、謝るんだ。
扉が開いた。
ボクは息を飲んで、扉を開けた相手を見上げた。
…でも。
「……え?」
「…ビャクニブ…?」
出てきたのは、ブバダだった。
おかしい。ここはブバダの家じゃない。
僕の家だ。
なんでブバダがいるの?
玄関に頭をぶつけないように少し屈んで僕を見下ろすブバダが、クシャッと笑う。
でも、その笑顔もなんだかぎこちなく見える。
頭が、混乱する。
「…なん、で?」
僕が率直に聞くと、ブバダは答えないできまり悪そうな顔をするから、僕は怖くなって問い詰める。
「…お母さんは?どこ?中にいるの?」
ブバダは目を伏せている。そして唇を噛んで切ない顔をする。
何それ。なんでそんな顔するの。
ブバダ、そんな顔したことないじゃん。
いつもは顔赤くして、僕に笑いかけてくれるじゃん。
「ブバダおじさん、なんで?
お母さんはどこにいるの?」
もう一度問う。
ブバダはドアノブを握ったまま立ち尽くし、口を開いたり閉じたりして、何かを言おうとしている。でも声にはなっていなくて、僕の耳には届かない。
僕はますます怖くなってブバダを掴む。
大きな声で、震えるのを我慢して叫ぶ。
「ねえ!!お母さんはどこなの!?
おじさん知ってるんでしょ!?ここ僕の家だよ!!
お母さんは、お母さんはここに住んでたんだよ!!」
いくら揺すってもビクともしないブバダを見上げる。
ブバダは益々顔色を悪くして、眉間に皺を寄せている。
少し、怖い顔をしている。
怒らせた?
僕、ブバダのこと、怒らせちゃったのかな?
「…ブバダおじさん?」
声が震えるけど、どうにかして声をかける。
「ビャクニブ」
ブバダが口を開いた。そして、しゃがんで僕の両肩に手を置いた。
ブバダの大きくて真っ赤な目が、僕を真っ直ぐ見つめてる。
僕ととてもよく似てる目だけど、ちょっと怖い。
「…お母さんに、会いたいか?」
そう問われ、僕は何度も頷く。
会いたい。会って謝りたい。
お母さん、きっと寂しがってるんだ。
僕がいなくて、きっと怖かったと思う。
それに、今もお父さんに殴られて、怒られて、酷い目にばかりあってるかも。
「ブバダも一緒に来て!お母さん、もしかしたらきっとね…」
「分かった。ついておいで。」
ブバダが、僕の言葉をさえぎった。
ちょっと驚いたけど、ブバダが笑ってなかったから、それ以上何も言えなくて僕は黙り込む。
そして言われるがまま、ブバダの大きな背中を追いかけた。
どこに向かっているのか聞きたくても、ブバダの顔が怖くて聞けない。ブバダはいつも優しいから、きっとこんな顔をしてるってことはすごく真剣なのかもしれない。
でもなんで?どうしてブバダがそんな真剣になる必要があるの?
ブバダには関係ないのに。
結局移動の間、ブバダは一言も話してくれなかった。そんな中長いこと僕が黙ってついていった結果、着いた場所は仄暗い場所だった。
元々地獄は暗いところだけど、中でもかなり暗い場所で、不気味だった。
大きな道を挟んで大きな岩が長く道沿いに聳えている。霧で見えにくいけど、その岩に、いくつも鉄格子の部屋が掘ってある。
「…ここ…」
僕が口を開くと、ブバダは立ち止まった。
そして振り返ってまたしゃがみこみ、僕の目を見る。
そして低い声で答えた。
「お前さんの母親は、右の列の、突き当りから2番目の部屋にいる」
え?
お母さん、こんな所にいるの?
なんで、と聞こうとしたが、ブバダが目を合わせてくれなくなったので、また諦めるしかない。
僕は言われた通り、右の列の岩に沿って歩く。
いくつも牢屋があって、中には誰かいたり、いなかったり、霧で見えにくくてよく分からないけど、怖い気持ちを押し殺して、真っ直ぐに進む。
ここの奥に、お母さんはいる。
こんな場所じゃ、きっと怖くて震えてるかも。
だってお母さんは、僕にとても似てるから。
早く、会いに行こう。
突き当たりから、2番目。
暗い牢屋を覗き込み、冷たい鉄格子を握る。
奥行きのある牢屋の一番奥に、座り込んでいる人影が見えた。
「…お、お母さん?」
恐る恐る、声をかける。
人影は声に反応し、ゆっくりと振り返った。
通路側の方が明るいせいか、振り返った顔がはっきりと見えた。
僕の、お母さんだった。
間違いなくお母さんだった。
けど。
酷く痩せて、ボロボロで、目に精気がない。
虚ろというか、ぼんやりしていて、感情がない。
それでも。
「……ビャクニブ?」
掠れた声で名前を呼んでくれた。
久しぶりに聞いた、優しい声。
僕の、お母さんの声だ。
「…おっ、お母さん!!お母さん、お母さん!!」
何度も呼んで、鉄格子に顔を食い込ませて手を伸ばす。
触りたい。なんでか分からないけど、触りたい。
お父さんの恐怖に共に脅えていたお母さん。
僕に謝ってばかりだったお母さん。
今度は僕が謝らなきゃいけないんだ。
お母さんは「ぁ」と小さく言って、体を引きずるようにして、僕に近づいてくる。
ようやくその手が触れた時、堰を切ったように僕は泣いた。
母さんは僕の手を力なく握っていて、何も言わなかった。
「お母さ…うっ、ひぐ…ごめんなさい…ごめん、なさい……お母さん…うっ…うぅ」
謝り続ける僕を、母さんはじっと見ていた。
ただ真っ直ぐに僕を見て、唇を噛んでいる。
良かった。
やっぱり僕、お母さんに嫌われてなかった。
「…置いてってごめんなさい…」
置いていかれる寂しさはよく分かる。
カトラの帰りが遅い時の、僕が感じた苦しさときっと同じだ。
寂しくて、怖くて、悲しくて。
会えたあとは、安心して、たっぷり泣きたいんだ。
その度にカトラは僕に言ってた。
ごめん、ごめんって。
「ゴメン」は人間の謝る言葉。
それだけは、わかってるんだ。
「ビャクニブ、謝らないで」
お母さんが僕の手を摩って答えた。
僕が顔を上げると、格子越しに僕の頬を伝う涙を拭ってくれた。
懐かしい、温かい感触が蘇ってくる。
もうずっと触ってなかった、大切な温もり。
お母さんの温もりだ。
「全部お母さんが悪いの」
嫌に聞きなれた言葉が聞こえた。
そうだ。
お母さんはいつも僕にそう言っていた。
僕がお父さんに殴られた時も、火を押し付けられた時も、暴言を吐かれて泣いていた時も。
ずっと、お母さんのせいだって言い続けてた。
ううん、違う、違うよお母さん。
僕が悪かったんだ。
僕がわがままばっかり言って、お父さんを怒らせたんだ。
僕が大人しくしてれば、お父さんが怒ることもなかった。
僕がもっと大人なら、こんなことにはならなかったよ。
ごめんなさい、お母さん。
本当にごめんなさい…
ふと僕は、嗚咽を我慢してお母さんに問った。
「お母さん、なんでこんな所にいるの…?」
そう、1番気になってたこと。
どうしてこんな暗くて寂しいところにいるのか、気になった。
家はあるのに、なんでここにいるのか。
お母さんは少し黙ったあと、俯いて答えた。
「…お母さんね、お前を大切に育てなかった。
何にもしてあげなかったでしょう。
父さんから守ってあげるべきだったのに。
いつも私が逃げて、何もしなかった。
結果的にお前を追い出して、さらなる苦しみを与えてしまった。
だからね、罰を受けなきゃいけないの。」
何言ってるの?
お母さんは何も悪くない。
お母さんはいつだって僕のことを守ってくれた。
いつも僕と一緒にいてくれたじゃないか。
「お母さんは何も悪くない!
お母さんは何でもしてくれたよ!僕のこと守ってくれたよ!」
必死に訴えても、お母さんは首を横に振った。
「いいえ。何もしなかったの。
あなたを息子として大切にしなかった。
だから罰を受けるの。
もうここから出られないの。
それが運命なのよ。」
違う。こんなのおかしい。
否定しなきゃ。
お母さんは何も悪くないんだ。
悪いのは、悪いのは…
「ごめんね、ビャクニブ」
それだけ言ってお母さんは僕の手を離した。
お母さんの目には光もなく、何の意思も感じなかった。
昔なら感じられた、温かな視線は、そこになかった。
もう、僕のことを叱ってもくれないし、見てもくれない。
お母さん、すごく変わってしまった。
僕があっけに取られてぼうっとしてる間に、お母さんは僕から距離をとる。あわててつかみ返そうとして、お母さんはまた檻の奥へ戻っていく。
待って。嫌だ。
お母さん、待ってよ。
お母さんは何も悪くないよ。悪いのは僕だ。
僕がお母さんを助けなかったんだ。
僕が悪いんだよ、そう言ってよ。
叱ってよ、叱ってよ。
カトラみたいに、叱って…
……
「…誰がこんなことしたの…」
僕は呟く。
檻の奥に行ってしまってまた顔が見えなくなったお母さんは、壁に頭を押し付けて何も言ってくれない。
「誰が、お母さんをここに閉じ込めたの…」
誰、誰だ。
天使?もしかしてトワイラ?
トワイラが僕へ嫌がらせをしてるの?
それとも、違う誰か?
そいつが誰であっても許せない。
僕のお母さんをこんなふうにして。
酷いよ、お母さんは何も悪くないのに。
僕の大好きなお母さんを、こんな目に遭わせて。
許せない、絶対許さない。
僕はさっき流れた涙とはまた違う涙を流し、唸った。
とぼとぼと、来た道を戻る。
ぬるい風が頬を撫でて、僕の髪を揺らす。
そういえばブバダ、一緒に来てくれなかった。
檻まで一緒に来て欲しかった。
ブバダなら、お母さんのこと変えてくれたかもしれない。
お母さんを、取り戻してくれたかも…
いや、取り返してくれる。
戻ったらブバダにお願いしよう。
ブバダにお願いして、お母さんを檻から出してもらうんだ。
ブバダは大人だもん。きっとやってくれる。
僕のお願い、きっと聞いてくれる。
岩の列を抜けて、この薄暗い場所への入口へ戻ってきた。
入口の横の壁に寄りかかっていたブバダは、僕を見て壁から背を離した。
そして僕をじっと見つめる。
僕はまた涙が出てきて、がむしゃらにブバダにしがみついた。
ブバダは、僕の体を抱きしめてくれなかった。
「おじさん!!お母さんを助けて!!
酷いんだよ、閉じ込められてるの!!
どうして!?なんでお母さんがこんな目にあうの!?
やだよ!!おじさんお母さんのこと出してあげてよ!!」
ブバダは何も言ってくれない。
ただ僕に布掛けを引っ張られるがままで、気難しい、切ないようにも見える顔をしていた。
「だれがこんなことしたの!!
誰なの!?おじさん知らないの!?
知ってるんでしょ!?お母さんがここにいること知ってたんだから、それも知ってるんでしょ!?
教えてよ!!誰なの!?」
「…ビャクニブ」
「そいつやっつけてよ!!
そいつがお母さんを苦しめたこと、ゆるせないよ!!
逆に檻に入れてやってよ!!こんなのおかしいよォ!!」
「ビャクニブ。」
ブバダが、僕の肩にまた手を置いた。
強い力で握って、ブバダを揺らす僕を無理やり止めた。
肩が少し痛んで、僕は黙る。
ブバダは、僕と目を合わせて、息を吐いた。
ただ静かに息をして、角に巻いた長い髪を揺らす。
そして、静かに言った。
「俺が、やったんだ」
思考が止まる。
真っ白になる。
嘘だ。
ブバダが、そんなことするわけない。
ブバダはいつも優しくて、誰にでも優しくて。
こんな酷いことするようなひとじゃない。
「うそだ」
「嘘じゃねえんだ、ビャクニブ。
お前さんの母親を、檻に入れたのは俺だ」
頭が痛い。
耳鳴りがする。
何も見えなくなって、何も聞こえなくなる。
訳が分からない。
そんな。
そんなの。
嘘、うそ、う…そ………………………
しんじて、たのに……………………
**************
「……………い」
ビャクニブが、俺に何か言った。
俺は何も言わずに肩を握っていた手を緩める。
瞬間。
「ひどい!!!!」
ビャクニブが、俺の頬を強く引っ掻いた。
避けることは、容易く出来る。
でも、俺は避けなかった。
頬に鋭い痛みが走る。
俺がフラつくと、ビャクニブは今までになく歪んだ顔で、威嚇にも似た顔で、俺を睨んで飛びかかってきた。
「ひどいよ!!!ブバダのバカ!!!!!バカァ!!!!!」
俺に股がったビャクニブが俺を何度も引っ掻き、殴る。
久々に流れた血が、黒い地面を明るく染める。
泣きじゃくるビャクニブは、爪が俺の服に引っかかってバリッと音を立てて剥げても、お構い無しだった。
「嫌い!!!ブバダなんて嫌い!!!大っ嫌い!!!」
もはや声にならない叫び声を上げて俺を傷つけているビャクニブは、一回り体が大きくなっていた。
ロエメヌの症状が出てる。
でも、記憶は飛んでいない。
怒りのままに俺を傷つけることで、理性を保とうとしている。
俺は抵抗しなかった。
いずれこうなると分かっていた。
俺のしたことを、幼いビャクニブが理解出来るわけが無い。
教えてもきっと、分かってはくれない。
それでも。
親として。
父親として。
教えなくてはいけない。
ビャクニブの手を握る。
必死に動こうとするビャクニブを、強く抑える。
「離して!!!嘘つき!!!裏切り者!!!」
「ビャクニブ」
「なんでなんでなんで!!!!どうして!!!!」
「ビャクニブ、聞け」
「なんでこんな酷いことするの!!!意味わかんないよ!!!」
「ビ ャ ク ニ ブ」
強く、ビャクニブを抱きしめる。
身動き出来ないように、強く強く抱きしめる。
「離し、てっ………離せっ……………」
そして、俺は耳元で囁く。
「これは、決まり事なんだ、ビャクニブ」
ビャクニブの動きが止まる。
「ぇ」と小さな声で言って、俺を見上げる。
返り血と、涙と鼻水とヨダレで酷く汚れた顔をして、少し大人になったビャクニブが腕の中で震えている。
「悪いことをしたら、罰を受けなくてはいけない。
誰が、どう思ったとしても。」
俺の頬についたいくつもの傷が、速やかに消えていく。
細かい傷があちこちについていたが、跡形もなく消えていく。
「お前の母親は、悪いことをしたんだ。
絶対に、許されないことだ。」
ビャクニブは震えた声で言い返す。
「お母さんが何をしたっていうの!!!」
俺はビャクニブを抱きしめたまま、諭し続ける。
「何もしなかったんだ」
訳が分からない、という顔で俺を見たままのビャクニブの頬についた俺の血を、手の包帯で拭う。
「お前に、何もしてやらなかった。
それが、罪なんだ。」
ビャクニブは俺の手を強く噛もうとする。
いけない、俺の血が口に入ったらまずい。
俺は手をすばやく退けて、顎を掴む。
負担の無い程度に、強く。
ビャクニブは苦しそうに唸って、なお言い返した。
「そんな、ことない!!
お母さんは、僕を守ってくれた!!」
俺は、顎を掴んだ手をそのままに、顔を近づける。
鼻がつきそうなほど顔を近づけて、問いかける。
「本当に?」
ビャクニブは、目を見開いていた。
そして「本当だもん!!」と怒鳴る。
だから、もう一度聞く。
「本当に?」
「本当だよ!!!」
もう一度。
「本当に?」
「僕のお母さんは!!僕をっ…!!」
罪悪感はある。
でも、こうするしかない。
「本当に、お前を守ってくれたか?」
「っ…ほん、と…………に………!…………ほ……………ん…………
お母さん…は…………………………」
ビャクニブの体が縮む。
元の大きさになって、俺の腕の中に収まる。
そうだろう。
お前の母親は、お前のことを守ったことなんてなかったろう。
ずっとお前を、放っておいたろう。
だからお前は、
助けてくれる人がいないから
逃げたんだ。
母親がお前を守っていたなら
お前は逃げたりしなかったはずだ。
すすり泣くビャクニブの背中を撫でる。
ついでに片手でビャクニブの剥げてしまった爪の部分を軽くさすり、再生を促す。
ゆっくりと爪が生えてくるのを確認して、俺はビャクニブを優しくさすり続ける。
「許されないことなんだ、ビャクニブ。
そうしてしまったら、誰でも罰を受けなくてはいけないんだよ。
俺でも、ビャクニブでも。」
ビャクニブは顔を上げて、掠れた声で訴える。
「でも、僕が許すよ…
僕、怒ってないよ……………………」
「それでも、ダメなんだよ。」
ビャクニブは何も言わなくなった。ただ啜り泣いて、俺の服を握りしめている。涙で俺の服が濡れて温かくなる度、その温度が体に伝わってくる。
「お前が許したとしても、許されない。
それが、決まり事なんだよ。
この世界の、ルールなんだ。
何がなんでも逆らえない、現実なんだ。
そして俺も、これに逆らえない。
だから、俺も、拒むことが出来ないんだ。」
「ブバダが、拒んでも?」
ゆっくり頷く。
「拒んでいいなら、拒んでたさ…
でも拒んだら、俺も牢屋行きになるだけなんだ。」
幼いビャクニブからすれば、理不尽極まりないこと。
きっと理解して貰えない、難しい話。
それでも俺は。
俺はこの現実から、ビャクニブに目を逸らして欲しくない。
知りたくなくても、知らなきゃいけないことがある。
分からなくても、分からなきゃいけないことがある。
時には、親でも嫌われ者にならなきゃダメな時があるから。
ビャクニブは、暫くすすり泣いていた。
静かな獄牢の入口で、ただひたすらに泣いて、受け入れたくない現実と向き合うしか無かった。
それでも、立派にやってくれてる。
もっと暴れてしまうかと思ったけど。
随分成長したじゃないか、ビャクニブ。
多少の知恵遅れなんて気にする事はない。
お前は十分、立派な悪魔だから…
そのまま、ビャクニブは俺の腕の中で眠ってしまった。
体を抱きかかえて、獄棟の前でウロウロしていたテライにビャクニブを引き渡す。
何があったのかと聞かれたので「少し大人になった」とだけ伝えた。
テライもそれ以上言及することは無かった。
そのままビャクニブを預け、しばらく面倒を見るように頼んだ。
テライは、全く抵抗せずに承諾してくれた。
テライになら、ビャクニブを安心して任せられる。
ビャクニブが今信頼出来る相手も、彼くらいだろうから。
つくづく俺は無責任だと思う。
父親としてやるべき事、なんて言っておきながら、本来一番最初にするべきだったことを、俺はしなかった。
そして、今更俺にその権利がある訳でもない。
もともと、1番悪いのは俺なんだ。
俺がもっとお前に構ってやれていれば。
お前とずっと一緒にいれば。
俺はため息をついて、頭についた鈴を揺らす。
そうして喧騒が戻ってきた街を後にし
幹部として
蹴りを、つけに行くことにした。