ひかるきみーわかむらさきー「市川さんに梨を剥いてもらったから、秀ちゃんと一緒に食べてね」
エリザベスさんはお盆からぽてぽてと梨が盛られた薄い白い皿とまろんっと光が鈍く映る黒い漆の皿を二枚机の上に置いて部屋から立ち去った。ドアの向こうから風見くんってやっぱりえらいからちゃんと宿題してたわぁ!とよかったですね奥様とエリザベスさんと市川さんの声が漏れ聞こえ、足音が遠くに消えていった。
集中力が切れて塾のテキストから目をはずす。まず、こんなに大きな梨を見たことがない。砲丸投げの玉ぐらいの大きさの梨。それにどうして市川さんは、剥いていない梨を剥いた梨の横に用意をしたのだろうか。
皮が剥かれていない梨をつーと触ると温くざらざらしていた。まだ赤井さんはいないけれど、せっかくだしと木のフォークで梨らしい手ごたえを感じながら刺して口まで運ぶ。しとしと水気を含む梨はしゃりしゃりしていて甘くおいしかった。果物を食べる習慣がないので、季節ごとに果物を食べる彼らは四季折々をこうして舌で楽しむのだなと思うも、特異というか、自分が今まで出会ったことのない人種であった。特にその中でも目の前の男は特異の中の異質すぎて理解の範疇の外である。目の前に赤井さんがいる?足音もドアの開閉音すらしなかった。
「梨を食べてるのか…俺より先に」
「え…あ…すいません」
「いや………君は一応お客様だから……いいんだ」
「赤井さん」
「風見くん…!良いのか?初物だぞ」
梨一つでこんなにウキウキできる大人って凄いなと思った。赤井さんは俺が取り分けてやった梨を素手で食べる。
俺の目の前でしゃくしゃく梨を食べるこの男は赤井秀一という男で、彼はこの自分の家から新幹線が止まる最寄り駅まで一族の土地だけを歩いて行ける家の本家の長男だ。つまり超金持ちでそして二ヵ月前に俺を軽トラで跳ねた。不思議なことに俺はその男のもとに身を寄せて、彼の横の部屋で暮らしている。玄関の岩みたいな木の衝立、生きた花があちらこちらに置いてあって、長い廊下と沢山の畳と高い天井にと凄い家。今でもよく迷子になりかけるので絶対に同じルートでしか自分にあてがわれた部屋に行けない。
家と同じように豪華で複雑な男に思える赤井秀一は赤井秀一であると理解するのにそう時間はかからなかった。立ち振る舞いが優雅で気品があるのでそう見えるだけで、中身は俺よりも年下か…年下というか。小学校の頃に橋の下で暮らしていて俺が給食で食べきれなかったパンを渡したら喜んで食べてくれた人を思い出す。フラットな人。そう。赤井さんは誰に対しても同じ、ドブネズミでも女王陛下にでも同じように接する人なんだ。
ふと、ギプスが蒸れて足がかゆくなる。どうしてだか足がかゆくもどかしく我慢ならなくて嫌な気分だ。痒い所がかけない。不快感が芋づる式に自分の浅いところに顔を出した。嫌だった。県大会の日に引っ越しするだなんて、何を言われたのか解らなかった。嘘であってくれと何度も願った。でも、それが変えられない現実であると解っていた。解っていたから信じられなかった。
「来年までここに居るって」
父さんは東京に戻れると喜んでいた。喜ぶ父さんの姿に俺は何を口にするのが正解か知ってはいたけれど、反故にされた約束に対して俺は正解を口にできるほど大人ではなく、不貞腐れて拗ねるほど子供ではなかった。嘘。これは嘘。俺は大いに不貞腐れ拗ねた。父さんの転勤に継ぐ転勤で中学も高校も2年と一緒の学校で過ごせなかった。家も。自宅を思い浮かべるとき、仙台の名古屋のマンションの間取りが交わって思い浮かぶ。家もたくさん引越しした。塾もたくさん変わった。飛び石のように弾き飛ぶ俺に仲の良い友達もいなく。頼れる人もいなかった。
父さんの転勤に付き添い続きだったこの青春。高校は変わらないと言われていたのに2年目にして高校が変わることを県大会出場が決まった日に知ったのは、本当に嫌だった。
本当に嫌で嫌で父さんと一緒に過ごしたくなかった。もう、こんな場所に居てたまるか。という気持ちが強くなったので塾か家か学校しか知らない俺は早めの登校を決行した。大体、自分の不満を体現するだなんてこと、学校や塾で教えてもらっていない。
つくづく自分が情けない。家以外に学校しか知らない。道も塾への行き方しか知らなかったから、もっと、何か逃げる場所が欲しかった。楽しい場所を知りたい。5時間目の人が居ない図書館の隅、中庭のベンチ、通学路の枇杷の木、土砂降りの後のグランドの匂い、体育館倉庫の埃っぽさ、仲の良い友達の部屋だったり、塾の自習室の切れかけた蛍光灯、時間をつぶす馴染みのチェーン店。クラスで話す奴は部活でも塾でも居たけれども、どうしてだか、話せば話すほど、遠くに感じてしまった。地元の祭り、中学校での修学旅行、地元武道館の強い奴、小学校で行った工場見学。知らない話をする彼らはとても楽しそうだった。
ブックオフで買った型落ちのiPod-miniを引っ張り出して絡まったイヤホンを解して耳にはめてジャックを挿す。虫の鳴き声や風で葉と葉が当たる音が薄れてMDから落とした堀江由衣の天使の卵が聞こえる。堀江由衣の声が可愛い。先週のラジオをもう一回聞こう。アイドル声優のラジオ番組は万病に効く。コレは風邪とかと一緒ので、身体だって弱るなら、気持ちだって弱くなるときはある。
このまま学校に行って、部室のシャワー室で身体を洗って着替えは持ってきたから着替えて、普通に授業を受けて、塾に行って、また俺は家に帰る。それまでに正解が言えるように元気になってないといけない。
だから気が付かなかったといえばいいのか。後に聞く所によるとブレーキもかけられずの一発であった。あまりにも突然だった。倒れた時に香った土の湿った匂いと、何かがスパークする焦げた臭い。目を開いていたのに光がパチパチと散った。大きな衝撃。頬に土の触感。
「…やかったな」
光の中から外国人?が出てきた。目が緑色の男だ。鮮やかな緑はエイリアンのように光っていると思い込むには十分で、一瞬日本語かどうかすら解らなかった。
そうか、俺、トラックにはねられた。トラックのライトに照らされている事に、焦点があって視界が少し広がったため理解ができた。眼鏡が壊れていないことに安堵の息を漏らすも、自分の置かれている状況がわからなかった。
え?俺、トラックにぶつかったのか?
エイリアンはベコベコの軽トラを運転しない。コイツは人間だ。運転免許を持っていやがるくせに、俺を轢きやがった。
現場は自分のマンションと学校の近道で、いつもなら横切らない場所である。フェンスがかかっていない所に“この先、日本国憲法通じず”の看板が立て並ぶ場所を突っ切ってしまった。日本で日本国憲法が通じない場所があるのか?今まで生きてきた中でこんなにも解らないことばかり続くことがあるか。なんで今日なんだよ。こんなこと、学校や塾で習っていない。
「とにかく、病院だな。乗れ」
「俺、乗りたくない」
「俺を困らせて、楽しいか?」
アンタが怖いからと言えたらよかった。
「救急車、救急車を呼んで下さい」
「此処は私有地だ。救急車なんか待っていたら日が昇るぞ。俺の叔母もそれで脚を悪くした」
「俺に構わないでください…歩けます」
「俺がキミを轢いた。ならば、最後まで見届けないとな」
何を言っている。エイリアンじゃなくて死神なのか?
エイリアンであり死神は地面と一体化して起き上がれない俺を大の字に整えて動くなと命じると俺の身体の上を転がって俺を担ぎ上げた。ガッガッッガぐるん!
初動はゆっくりで俺は何か知らない方法で殺されると閃き、虫のように蠢くのを自重で押さえ付けられ、動けなくなった。動かせる方の膝を立たせろと言われどうにか立たせた片膝を腕で掴まれた。この状態で、掴んだ反対の肘を地面に叩きこんだ反動で身体を起き上がらせて、俺はエイリアンか死神に担がれた。体幹が凄い。化け物か?
エイリアンか死神か化け物は初めてにしては上手く行ったなと呟いた。
あまりコイツを刺激しないようにしないと。恐怖でか、俺はいたって冷静になれた。
座れるかと聞かれ、俺は痛くて座れないと答えたら荷台に乗れと押し込められた。細いとはいえ身長がある俺をガッガッヒョイドスンと荷台に乗せる。痛い。俺は米俵ではない…痛い……痛い…エンジンの振動が身体に、脳みそに、心を震わせる。どうして俺がこんな目に合わなきゃならないんだ。俺を軽々しく荷台に?ゾロか…コイツ。ロロノア・ゾロ。海賊狩りの…ゾロ。なんで…ゾロはルフィ一味なのに…まだゾロだけ……海賊狩りのって…二つ名なんだろう…もう……ゾロも…海賊なのに………
気が付くと、AM/PMを過ぎた辺りの恐ろしいほどボロくてデカい建物の前でトラックは止まった。蔦が建物を覆っていた。改造されるのか俺はこの施設で。
「やめろ…やめろ」
「ほら行くぞ」
アイツは俺を荷台から普通に担ぎ上げると自分の家のように入口玄関を開けて、たすたすと適当にスリッパに履き替える。俺も靴だけ脱がされて、パジャマのままの死にそうな爺さんの前に座らされた。後はよろしくとアイツは言うと部屋からいなくなる。
爺さんはなるほどと言い、俺の赤黒く馬鹿みたいに腫れた足を撫でた。
撫でられたそこは驚くほど痛く、こんなに足が腫れる事なんてなかった。
「折れてます。絶対」
「なんでそんなのわかるの?キミは骨か?」
「…俺は骨じゃないです」
「折れてたらね、こんなにしゃべれないよ。打撲打撲」
打撲なわけかあるか…と言おうとしたら、何度か行った事がある病院が見えた。いつの間にか俺はまた軽トラックの荷台に横たわっていた。さっき喋っていた死にかけの爺さん医者は幻か?あの施設も?俺は改造されてしまったのか?すでに?じゃあ!なんでこんなに足が腫れて痛いんだよ!
トラックは止まった。アイツはまた俺を担ごうとしたのでそれを制して肩だけ貸してもらい。よたよたと呻きながら夜間入口を目指した。
入ったらまず、看護師さんが俺の顔を見て車椅子を用意してくれてそこに数人の手を借りて座る。小児科か内科の先生しか手が空いていなくて小児科でとりあえず診てもらいながら外科の先生の手が空いたらとなった。アイツは薄ら笑いながら付いてきた。一応は心配してるのか、それとも…証拠隠滅で俺を…完全に?俺は負けないと凄んで見せた。俺は絶対に死なないし、改造もされない。
アイツは診察室まで付いてきた。外科の先生からレントゲン写真を見せられながら俺の脚が折れている説明をホォーと聞いていた。レントゲン写真の右下、日付時刻の次に風見裕也と俺の名前が書いてあった。そこだけよく見えた。県大会に出れない。
ギプスを外せるのは県大会が終わって全国大会が始まる日と同じであった。
痛くて悔しくて泣いてしまった。
そんな俺にアイツは力強く背中をさすった。悔しい。痛い。悔しい。まるで俺の気持ちが分かっているような強さで、嬉しかったけど、驚いてその手を弾いてしまった。身体がこんなに熱いのに、熱い手を擦り付けないでくれ。
俺はこのまま入院した。前に通院したことがあったので父さんの連絡先がやっと分かって、このタイミングで父さんに連絡が行った。俺の携帯はトラックにはねられた時に壊れてしまっていた。父さんは俺が夜中に家を出ていったことも知らなかったようだ。
「裕也…お前だけこっちに居るか?」
「はぁ」
「赤井さんが気を使ってくださってな…怪我したまま馴れない土地で暮らすよりも治るまでこっちに居たらいいと」
「はぁ」
「…で、その間当分の面倒は見るから好きにしなさいと」
「…好きに」
「…どうする」
「え」
「お前の好きにしなさい。でも、此処のマンションは来月解約の契約をしてしまったから、父さんは東京に戻る」
「え」
県大会には応援として制服で後輩に交じり応援した。悔しかった。なぜなら副将は自分が勝ち取った場所であったからだ。応援席は俺の場所ではない。というか正座ができなかったので顧問の横、パイプ椅子に座っての観戦だ。こんなにも俺は偉くなったのか?赤井さんのように薄く笑うのを保護者に見られ、眉をひそめられた。
観戦に集中なんか出来ない。自分の代わりに次鋒が副将に繰り上がり、次鋒に補欠が収まったのは本当に納得ができなかった。県大会に出場したかった。ここにはまだ2年も過ごしてはいないけれど、1年からの個人戦や練習試合で勝ち取ったレギュラーで副将だ。個人戦で出場したことはままあったが、団体戦での出場は小学校以来でうれしかった。副将は俺の場所だった。なんで、父さんは東京に俺もついてこいって言わなかったのだろう。俺は跡形もなく消え去りたくなった。
県大会2回戦でストレート負けをして団体戦は終わった。
嫌な思い出はここで途切れる。
美味しいものを食べても、どんな話をしていても、俺は、俺のことばかり考えてしまう。恥ずかしい。
「そういえば…サボテンの花は咲いていたよ」
「はぁ…おめでとうございます?」
「あぁ…めでたいな」
赤井秀一と過ごすようになって、自分の事ばかり考えてしまうのも悪くはないかなと思った。何故ならこんなにも自分のことばかり考えている大人を初めて見たからだ。
…サボテン………おかしいな………この人は花の種類なんてピンクだったら桜、青だったら紫陽花、黄色だったらたんぽぽ、その他の花は薔薇と呼んでいるのに。なにか嫌な予感が胸いっぱいに広がった。
3日後、その日は木曜日なのに午前中しか授業に参加せず、午後から中央病院でギプスを外す予約を取っていた。それもあって俺は給食の後、荷物をまとめて保健室で赤井さんが来るのを待っていた。外は熱い。夏休みが始まる少し前でテストも帰ってきて、緩んだ気分だと思われがちだが、実は俺は気が沈んでいた。
「風見くん…そういえば、赤井さん家にお世話になっているのよね」
保健の中村先生が夏休みをもって退職となるからだ。
学期中の退職に驚き、戸惑い、失望が複雑に混じり合う。ギプスが外れる最後の日、俺はやっぱり中村先生が好きなことを噛み締めた。笑うと白い歯が見えて可愛かった。中村先生の手は柔らかくて、優しくて、それに声が可愛い。
「コレ、渡しておいてくれる?よろしくね」
気がついたら赤井さんが横にいた。
俺とぶつかって凹んだ跡があるバンパー。ボロい軽トラ。赤井さんの私有地は舗装されていない場所がほとんどなのでよく俺と赤井さんは天井に頭をぶつける。何時もなら俺は文句を垂れるのに、何も口から言葉が出なかった。
「今日は静かだな。風見くん」
「どうして?」
もしかしたら俺は泣いていたのかもしれない。涙を見せるのは赤井さんに軽トラで轢かれた時以来かもしれない。
「風見くん」
「俺が…中村先生が好きって知っていましたよね」
「風見くん」
「だって、俺、そんな事が言えるの、赤井さんだけで、だから。なんで、中村先生は結婚するから辞めるのに…なんでですか」
「ほぉ………コレが…若さってやつか」
「どうしてだって!聞いているんだ!」
はじめて人を殴った。
「もう知らない!嫌だ!降りる!」
助手席の鍵なんて馬鹿になっているので有って無いようなもので、俺は止まっていたマスタングから降りた。
赤井さんがボロの軽トラをフォードってアメリカの車会社のマスタングってスポーツカーになぞってマスタングと名前を付けているから、俺もそう呼んでる。俺と猪の血で赤く染まった呪われた車だ。そもそもが可笑しかったんだ。
「風見くんがどうしてもというのなら止めないが俺の話を聞いてからでも遅くない」
徐行をしながらのろのろとマスタングが俺を追いかける。この人はやたらめったら口が上手いから俺は口を利きたくなかった。
「風見くんも、俺が風見くんの思うような大人じゃなかったから俺にそんなに冷たく当たるのか?」
「どの口がいう!」
どうしようもない!この男!道端に落ちていたこぶし大の石を拾い握り、マスタングへ叩き込む。ギプスのせいで踏み込みが効かない。それでもドガドガ殴りつけると塗装がはがれドアがへこむ。
「キミの気が済むのなら好きなだけ壊すといい」
ちょうどギプスの上に落ちた石には軽トラの白い塗装が付いていた。固く握り白くなっていた指に血が戻り始めている。脈打つようにこの男への明確な怒りが湧いてくる。自分の正当な怒りをボロい軽トラへの八つ当たりでトントンにしろというのだ。許せない。俺を見ものに煙草を吹かすこの男に何か言いたかった。が何も出てこない。
「赤井さんなんて、嫌いだ」
「大嫌いだ!」
シートのビニールが焦げる嫌なにおいが一瞬鼻をかすめた。
「驚いた…そうか…俺はしてはならないことをしてしまったようだ」
「俺は、どうやら風見くんに嫌われたくない」
「どうしたら俺を許してくれる」
呆れて怒りの炎が萎えてしまった。この男に懇願されているのに少し胸がすっとして、そして、この男にこんな事をさせてしまったと罪悪感も芽生えてしまった。
「中村先生と…そんなことして…俺が怒らないと思ったのか」
「だって、たかが寝ただけだろ」
「たかがって!じゃあアンタ!俺とだってできるんですか!」
「風見くんとはできないよ。だって、君は子供だ。俺のことを一生忘れられなくなる」
「俺を轢いて!もう!もう、俺はアンタのこと一生忘れるわけないだろう!最悪だ!」
「風見くん」
駄々をこねるように大きい声を出してしまって恥ずかしかった。セミがじょわじょわじょわじょわ煩いはずなのに、俺の声のほうがデカかった。赤井さんの顔を見ることができなくなってしまったので下を見ていると、さっきまで手で握りしめていた石が見えた。白い塗装のほかに血が付いていた。手を見ると手の皮がむけて血がにじんでいた。
手を怪我していることに気が付くと、途端に手が痛くなった。きっと、赤井さんもこういった生き方をしてきたのだろう。痛くなってからじゃないと痛いことに気が付かない。
「俺を忘れないでくれるのか」
「忘れてやってくれるか」
これ以上泣いている顔を見られたくなくて、よたよたと歩いてゆく。もう帰りたい。どこに帰りたいのかわからない。東京の母親と姉が住むマンションか、父親と暮らしていたマンションか、どこが自分の居場所なのだろうか。ぼろい軽トラの油が足りないドアが開いて締まる音が背中から聞こえた。自分を追いかけてくれる存在に胸が熱くなって涙が止まらない。うれしくて、恥ずかしくて、俺を追いかけてほしくて。
俺はよたよた杖もつかず、ギプスが泥で汚れるのも構わず歩いた。もうこれは数時間後に取り外されて、俺はまた何処かに帰るんだ。嫌だ。嫌だ。
「風見くん!」
赤井さんの横の部屋に帰りたい。
「風見くん!」
俺を思って追いかけてくれる人が存在していることに、どうしてこんなにもうれしくなってしまうのか。どうして、手はもう痛くないのに涙が止まらないのだろうか。
「風見くん!危ない!」
俺は、溝に落ちた。
足元に地面がなくて、やっぱりギプスだと踏ん張りが効かなくて、バランスも取れなくて。とっさに左手を付いたはずだけど支えきれずに転がり落ちる。落ちる岩がぶつかり削れるように身体中に衝撃を感じた。
もう、外からの衝撃は終わって、地面の上にいる。よくわからない。眼鏡を確認しようと左手を動かしたけれど反応が鈍い。眼鏡はまたも無事なようで、よくよく左手を見ると、左手首がとんでもない方向に曲がっている。嘘だ!今度は怖いことに痛くない。
ぎゃあ!と叫ぶ俺に息を切らした赤井さんが近くに居た。いつの間に!見てくださいよ!
「また!また!アンタのせいで!」
「ハハハ…いつもしっかりしているのに。態とか?」
「ぅ…!………ふっ…………っわざとなわげ…あるが!」
「わかった。すまない、風見くん。俺は君への責任を取ろう」
「うん、うん」
赤井さんが子供を宥めるように抱きしめて、あの時と同じように背中を力強くさすってくれた。赤井さんは弟さんと妹さんの面倒を見ていたから、きっと、俺のことも弟かなんかだと思っているんだろう。俺はこんな兄貴要らない…肩口に涙と鼻水を擦り付けるように赤井さんにすり寄った。タバコ臭くて嫌だった。暖かい手が気持ち良かった。
赤井さんは俺が泣き止むまで抱きしめて背中を擦ってくれた。
「まずは病院だな」
俺を溝から引きずり上げて泥だらけの赤井さんがまた懲りずにあのヤブ医者に連れて行こうとするので俺は出せるだけの力をもって中央病院に連れて行くように声を張り上げた。