あなたへの言祝ぎとあなたへの誓い(完成版) 真冬の空気が、深々と冷気を寄り添わせてハイラル平原に横たわっていた。
今宵、城の本丸から臨むハイラル城下町の灯りは、一層煌めいて見え、まるで地上にある夜空だった。
一つ、一つが人々の営みであり、幸せであり、喜びであるようで、それが余計に焦りを友にしてゼルダの心を凍りつかせる。
かわたれ時。不意に風が吹き始めた。日の出が近い。
ゼルダがふるりと小さく背中を震わせて肩を縮こませると、新年参賀の為に誂えたケープのユキイロギツネの毛皮が唇を柔らかく撫でた。
しかし、やにわに背に感じる風が和らいだ。
後ろに仕える彼だろう。ゼルダはもう驚く事も、振り向く事もしなかった。
「昨年、私にとって何より僥倖だったのは、貴方との事かもしれませんね。リンク」
白い息と共にホンネを口にするが、返事はない。いかにも彼らしくて、ゼルダは口元をほころばせた。
「五年です。貴方が退魔の剣を携えて、この城に登ってから。私も子供でした。あの頃、貴方がとても……恐ろしかった。まるで不出来な私を逸らせる、女神が遣わせた使いのようでした」
「……」
愛らしい形と褒めそやされるゼルダの耳に、風鳴りに隠されたリンクの小さく息を飲む音が響く。
「貴方ときちんと話ができて良かった」
ハイラル平原を見渡せるバルコニーから東。遠くラネール連邦からウォルナット山が連なる空が白み始めた。瞬きする毎に星が消え、山々を空に黒く切り取る。
「夜が明けます。願い事は、決めましたか?」
「はい。姫様のご健康とご多幸を」
複雑そうな表情で、ゼルダは彼を振り向く。すると、彼は赤い紐に手を添え、礼をとって膝をついたが、頭はたれなかった。
朝日が、白く透き通るゼルダの肌を、その金の髪を照らす。それは頭上のティアラの煌めきを霞ませる程で、リンクは眩しさに瞳を細めた。
ゼルダもまた、光差す彼の幼いながらも整った容姿に。何よりもその在り方と背中の剣に、同じく瞳を細めたが、逸らすことなくまっすぐに彼を見つめ続ける。
時が止まればいい。これ以上は今の自分の身の上に許されざる胸に秘めた想いを、止めてほしい。ゼルダは、息を詰めた。
そんな願いを誰が汲み取るはずも無い。しかし、そんな空気を変える様に、明けの空を待ち構えていた城の鐘楼の鐘が鳴った。空気が震える。
驚いて、ゼルダとリンクは本丸の頂を見上げた。厳かな鐘の音は鳴り響き、城下町からはそれに習って、教会の鐘があちこちから鳴り始める。
新しい節目を祝福し、安寧を願う音に、世界が清められていく。
それは、まるで役目を果たされよ、と。今の自分を咎める様だとゼルダは思い、瞳をゆっくりと閉じて彼の姿を消し去った。やがて余韻を残して鐘の音が消えていく。その頃には同じく消えるだろうと思った胸の痛みだけが残った。ゼルダは、そっと人知れず吐息を漏らした。
「貴方には感謝を。退魔の騎士、リンク。私は、私の務めを、と。そう……望みましょう。貴方に恥じぬ私に」
「それは……勿体のうございます」
ゼルダは小さく声をあげて笑った。
「勿体無いのは、私です。貴方の務めに、その忠誠に、報いる物は唯一つ。力の覚醒しかありません」
そう言って、ケープと揃いの柔らかな毛皮のマフから右手を出すと、自らその手袋を取った。
ほっそりとした指が優美な所作で、リンクの前に差し出される。
一瞬、リンクは空色の瞳を見開き、しばたたかせると、ゼルダと彼女の御手を交互に見つめた。
リンクには、真冬のどこまでも澄んだ白い空にもあたたかな新緑の瞳が、揺れているのが解った。
主として忠誠を求めながら、縋るような少女の不安な心をみた。
そして、自惚れだろうか。
男女の機微など全く知らぬ、上手く他人の心すら解らぬ自分が、もしやまさか仕える主の瞳に女の恋慕の情を見た気がした。
リンクは、そっと手を伸ばした。
指が、わずかに震える。それを、きゅっと革手袋が鳴る程に一度硬く握りしめ、ゼルダの手を取った。
逡巡したせいで冷えただろう彼女の温もりは、手袋越しには解り得ない。
しかし、何か。わずかに流れ込む物を感じた。
ゼルダもそうなのか。ふっと安堵の息を漏らすが、彼の冷たい唇と彼の温もりが混じる吐息を指先に感じて、反対に息を飲んだ。
触れたのは、一瞬。離れてしまった切なさに、手を握りしめたのは、今度はゼルダだった。
「……ありがとう、リンク」
想いを込めた言葉が、風にさらわれてハイラル平原の果に。遠く彼方へ鐘の音と共に消えていった。
✱ ✱ ✱
ハテノ研究所は、ハテノで一番高い場所にあり、海に面して朝日が一番近い場所だった。
名もなき星々が瞬き見守る、しんっと静まり返るわかたれ時の空気に、黒い海の波音が風に運ばれてくる。
遠く返しては鳴る波が、いつまでも続く明日と今しかないこの時を奏でていた。
リンクとゼルダは地面に腰掛け、一つの毛皮に包まれていた。ユキイロキツネの毛皮を内側に鞣して大きくしたそれはあたたかで、下に敷いたコウテイヒグマの毛皮のラグとあわせると、互いのぬくもりもあって寒さはさほど感じない。
しかし、数日前に髪を短く切りそろえたゼルダのあらわになった首筋を、冷たい風が撫でて行く。
慣れない寒さに首をすくめて、コウゲンヒツジの毛糸で編まれた空色のケープに顔を埋める。すると、後ろからあたたかな吐息を感じるとすぐに、ぎゅっと抱きしめられた。
きつく抱き寄せるぬくもりと、その腕の力強さと優しさが暖かさを生んだ。
「苦しくない?」
「大丈夫です」
振り向くと、二人の鼻先が触れ合った。
「つめたっ!」
「本当!」
笑うと二人の白い息が1つになって、消えていく。
「ゼルダ、鼻真っ赤!」
リンクが、彼女の通った愛らしい鼻先にちゅっと音を立ててキスをした。突然の事に鼻根に皺を寄せて、驚きと恥じらいを見せる表情にたまらず頬にも唇をよせる。
「リンクだって真っ赤ですよ」
ゼルダも負けないとばかりに彼の頬に口づける。それから頬と頬を合わせた。一瞬の氷の様な冷たさの後で、二人の温もりが重なり合って熱を持つ。
幸せが溢れて、二人そろって口元に笑みが浮かんだ。
「願い事は、決まりましたか?」
「うーん。おれの願いは全部叶っちゃったから……どうしようかな」
毛布の下でリンクの手がゼルダの手を握り、そっと指と指の間に自分のを滑り込ませて柔く絡めた。すると、ゼルダがそれをきゅっと握りしめる。
「そうだ! 2つあるかも。どっちにしようかな。悩むな……ゼルダは?」
「そうですね。私も叶ってしまったので、悩みましたが、少し前にもう決めていました」
「えー!?」
リンクがゼルダの顔をのぞき込むと、彼女は清まして笑う。
「ほら、早くしてください。もう朝日が」
リンクが、ゼルダの指さす方を見やると、水平線が橙色に染まり、紺碧の空と海が分かたれていた。海に落とされた光が島影をはっきりとさせ、またそれは天に還り、ゆっくりと空を優しい色に染めあげ、白んでいった。
「え えっ えー うーん。うーん……決めた!」
「じゃあ、一緒に願いしましょうか」
ゼルダの言葉に瞳を閉じると、刻一刻と眼裏が赤く染まり始め、頬に天の熱を感じる。
互いの息づかいを耳にしながら、二人はただ一心に祈る。女神に。女神が与える新しい節目の始まりを告げる光に。
どちらともなく吐息が漏れて、静かに瞳を開けると、目の前の世界は一変していた。山から現れた太陽に海は優しく輝き、小さな白波がいくつも見えた。その海面からは多くの蒸気霧が白く立ち上り、気嵐が風に流され陸を目指して棚びいている。
「綺麗ですね」
ぽつりとゼルダが言う。そして、分かち合っていた温もりに感謝して、互いに肌をすり合わせた。透き通る様な儚げな金の髪と大地に根ざした息吹を感じさせる金のそれが、ぐしゃぐしゃに混じり合う。
「何を願ったんですか?」
「ん?」
聞かれて嬉しい。そんな声音でリンクが応える。それがまた心に喜びを溢れさせたゼルダは「当てましょうか?」と、新緑をいきいきとさせて、空を見つめた。
「いいよ」
それがまた愛しくて、瞳を細めてリンクが返す。当てられるかなっと、いたずらっ子のような表情だ。
ゼルダは瞳をしばたかせてから、くしゃっと何とも言えない顔で笑った。
「私、自信がありますよ。リンク」
そう言って、せーのと音頭をとると、二人がそれぞれの願い事を口にする。
「「またこうして朝日が見られますように」」
それは一言も違わず、白い息に溶けると一瞬に遠くへと運ばれていった。
「どうしてわかった?」
「わかります」
得意げなゼルダに、今度はリンクが瞳をしばたかせた。
「私も同じ事を願いましたから」
視線を反らし、ゼルダが遠くを臨む。
それは遥か時を越え、城の闇に隠れ、秘密に過ごしたあの時。自分の事よりも、相手の事を誰よりも案じ、息と共に想いを潜めたあの自らの姿を見つめていた。
「今も。……本当は、あの時も」
段々と小さくなる声に、リンクは彼女の肩口に顔を埋めた。髪から蜜蝋とハーブの良い香りがした。
「恐れ多いよ。おれはそんな事、願えなかった」
「そうですか……」
寂しそうな声に、つないだ手を反対の手で包む。
「今も。昔も。『ずっとお側に』と、思う。けど、もう背中を見つめて、後ろに控えてるだけじゃ嫌だ。『ゼルダが幸せでありますように』ってのと、最後まで迷ったけど、それはきっとたぶん『一緒にいたい』と、同じ事かなって」
「リンク……貴方と言う人はっ!」
ゼルダはもぞもぞと彼の腕を抜け出して、彼の首に腕をまわして抱きついた。
ぎゅっとすると暖炉とお陽様の香りが、ゼルダの鼻をくすぐる。
「ありがとう。リンク」
「どういたしまして。『おれの姫様』」
はだけた背中を毛布で包みながら抱き寄せる。ぴんと尖って愛らしい耳に口づけ、「今日は、手じゃなくて、唇にしていい?」と、囁く。
思っても見なかった彼の言葉に、ゼルダがリンクを見やる。すると、見上げてくるその瞳は、細められ、照れた顔がどこか可愛らしい。胸の奥が愛しさであふれる。ゼルダにこんな気持ちを教えてくれたのは、今、目の前に在るリンクだった。
あの時。よく思えば縋るようだった恋慕の情。あのどこか拒絶を含んだ清廉さ。どこまでも凛とした彼ならば、たとえそうであったとしても、許されるような。自分もまた同じになれるかのようだとゼルダは思っていた。
今、ゼルダを見つめる瞳は、寛容性に溢れ、感情豊かで、どこかユーモラス。何より情愛にまっすぐだ。
しかし、こちらを見つめる澄み渡る清さは、紛れもなく心奪われた彼のもの。やはり自分はあの時、だだ逃避ではなく。確かにこの瞳に救われ、恋をしていたのだとゼルダは思った。
そして、また確かめようもないが、あの時の彼もまた自分をと。今ならそう確信してゼルダは瞳を閉じて、熱くなる物をそっと隠した。
「もちろんです」と、ゼルダはそっと彼の頬を包むように触れた。指先に冷たい彼の体温を感じる。
「リンク。来年も、その次も、またその次も。ずっと一緒に……」
「うん。一緒だ」
ふっと笑って、ゼルダからリンクへと唇が重なる。冷たい唇は、すぐに熱を持つ。
そこに触れ合える命があり、そこに通い合う気持ちの証だった。
リンクがゼルダの腰を抱き寄せ、その華奢な肩から背中を何度も撫でる。
誰が強いた運命だろうと、もう僅かな距離も許さない。例えもし何かあったとしても、必ずまた迎えに行くよ、と。そう、彼女に強く伝えたかった。
そんな二人を風が吹き抜ける。山々を超え、平原を過ぎ、遥か先の城趾の方──未だわからぬ未来へと。