『ブラッド』
――ああ、まただ。
俺は軽く頭を振ってノートを閉じた。先程から課題が一向に捗らない。提出期限はまだ先だから大きな支障は無いものの、このままでは今日明日の勉強の計画が狂ってしまう。
今し方俺の脳裏に響いた声は、暫く前から妙な縁のあるクラスメイトのものだった。キース・マックス――彼とは、友人というのとは大分違う、それこそ妙なとしか言いようの無い関係だった。本人には言っていないが俺は教師から奴の様子を見ておくように言われていて、それで声を掛けるようになっていた所にディノも奴を気に入ったらしく、三人で過ごす(と言ってもキースは鬱陶しそうに黙っていることが大半だが)機会が少しずつ増えてきた所だった。
そんなキースが最近アカデミーで頻発している備品破壊の犯人だとまことしやかに噂されていて、俺もディノも苦々しく思っていた所に、つい先日、俺とキースの二人が真犯人の犯行現場に遭遇するという事件があった。見過ごせずにその二人組に声を掛けてしまった俺は、標的を俺たちに変えて口封じに向かってきた二人からキースにことごとく庇われ、最後には逆上した犯人が取り出したナイフで狙われた俺をまたもキースが庇ってくれた。
その時、向けられた剥き出しの敵意とぎらつくナイフに身動きが取れなくなった俺の耳に、キースの聞いたこともないような切羽詰まった声が確かに届いた。
『ブラッド』
キースはそれまで、頑なに俺を名前では呼ばず、俺を呼ぶ最低限の機会には「おい」とか「カタブツ」と呼んではディノに窘められていた。だからあの日、キースが俺の名前を呼んだのは初めてのことだった。
そして、その日から俺はどこかおかしい。
あの経験は物騒な世界に縁の無かった俺にとっては衝撃的で、だから度々思い出すのだと思っていた――いや、自分にそう言い聞かせていた。本当は、キースに守られたことが、認め難いことだけれど、俺は嬉しかったのだ。誰にも興味が無さそうな風を装っているが本当は優しい所のあるキースが、煙たがっていたはずの俺を気にかけるばかりか体を張って守ってくれた、そんなにも俺に心を傾けてくれた、そのことがどうしようもなく嬉しいのだ。
そして更におかしなことには、俺が度々思い出すのはあの時恐怖を煽ったはずの犯人の怒声ではなく、決まって俺の名前を呼ぶキースのあの声なのだ。そして、日が経つにつれて、また、翌日から何事もなかったかのように俺をまた「カタブツ」と呼び始めたキースと接するにつけ、俺は自分の中にある願望を自覚せざるを得なかった。
――もう一度、あの声で名前を呼んで欲しい。
本当にどうかしている。というのは、俺の望みはそれだけではないのだ。もっとキースと話がしたいし、その綺麗な色の瞳に俺をもっと映して欲しい。キースが日頃何を考えていて、何を嬉しいと思い何が苦手なのか、本人以外の誰も知らないようなことまで、知りたくて仕方がない。気さくにキースに話しかけるディノに面倒臭そうに応じている姿を見るだけで、胸の中で何かが燻る。
ここまで来れば、認めざるを得ない。俺はこの男に惹かれているのだ。それだけでなく、彼にとって特別な存在になりたくて堪らないのだ。
恐らく、これが恋というものなのだろう。小説や周囲の話から想像していたよりもずっと歯痒くて苦しいものだけれど、確かに心が浮き立つような感覚もある。
――悪くない。
課題をこれ以上進めることを諦めた俺は、目を閉じてキースを振り向かせる方法について思案し始めた。無論一筋縄では行かないだろうが、負けてやる気はさらさら無い。そうだ、振り向かせるどころではなく、キースから告白させてやろう。あいつの方こそ、俺のことで頭がいっぱいになって何も手につかないほどになってしまえば良い。
さて、どうしてやろうか。これは面白くなりそうだ。