Rain or Shine 1
何かを振り切るように、シャワーのコックを捻った。
『外傷は命に関わるものではありません。数日もすれば動けるようになるでしょう』
冷水が身体を打つ。
『一般常識や生活に必要な知識については問題ないようです。失われたのは、ブラッド・ビームス個人に纏わる記憶、そしてエリオスやサブスタンスに関する特殊な知識で――』
出来の悪いオレの脳は、今し方聞いた話のさわりすらもまともに変換してはくれなかった。
《Side: Dino》
ブラッドがイクリプスとの戦闘中に市民を庇って廃ビルから転落した――そんな報せを受けて、気が気でない思いでパトロールを終えてすぐにタワーに飛んで帰った俺たちを待っていたのは、思いもよらない事実だった。
「記憶喪失……?」
「うん、落下した時に頭を打ったらしいから、恐らくそれが原因だろうね。詳しいことはこれから調べるけど、少なくとも自分の名前は言えなかったし、エリオスのこともヴィクやおれのこともさっぱり、って感じだった」
「ブラッドは? 今は会えないんですか?」
「今、ヴィクに脳機能や知能のテストをしてもらってるところなんだ。終わったらディノくんたちにも会ってもらいたいから呼ぶよ」
ノヴァさんの説明を聞きながら、俺はもちろんブラッドのことが心配でならなかったけれど、隣にいて一言も発しないキースのことも同じくらい心配だった。
キースとブラッドは恋人同士だ。大っぴらにしているわけではないから、知っているのはジェイとリリーさんと俺くらいだろうか。ヴィクターさん辺りは勘付いていそうだけれど。
俺なんかはアカデミーの頃からいつ付き合うんだろうと思って二人を見ていたんだけど、実際付き合い始めたのは俺がエリオスに復帰してかららしい。二人曰く「色々あった」らしいけど、詳しいことは俺も教えてもらえていない。
数時間後にヴィクターさんに呼ばれて、これまで行った検査でわかったことを一通り教えてもらった。ブラッドは自分に関わる記憶を失くしている状態だけど、知能や一般的な知識レベルは入所時のテスト結果とほとんど変わらないこと。頭を打ったこと以外に考えられる原因は今のところないけれど、治す方法が現状見つからないこと。それから、洗脳の形跡はないこと。
ちなみに、フェイスは家族ということで一足先に面会が叶った。部屋に戻ってきたフェイスは「覚えてないってわかってるはずなのに、何のために呼ばれたんだか」と笑っていたけど、どこかぎこちない笑顔が痛ましかった。
そんなわけだから、俺たちと会ってもブラッドはきっと誰だかわからないだろう。でも会いたい、生きている姿を見たいと思った。
「なあ、キースもそう思うよな?」
「……何がだよ」
ブラッドのいる病室はもう目の前だ。俺が記憶を失くしていた時のブラッドとキースもこんな気持ちだったんだろうか、とふと思う。生きていてくれて良かったという安堵と、記憶が失われているという絶望感、心許なさが胸の中でぐちゃぐちゃになっている。
「ブラッドくん、入るよ」
ノヴァさんが声を掛けてドアを開ける。ブラッドは入院着姿でベッドで身体を起こしていた。頭に巻かれた包帯が痛々しい。
「検査の次は次々に人に会ってもらって申し訳ないけど、この二人には今のうちに会ってもらった方が良いと思って。同期のキースくんとディノくんだよ」
ブラッドが俺たちを見る。真っ直ぐな視線はいつも通りのブラッドみたいで、俺はまだ信じられない気持ちを抱えながら口を開いた。
「やあ、俺はディノ・アルバーニ。君とは同期の、親友だ」
2
今日は矢鱈と人に会う一日だった。と言っても、今日一日の記憶しか無い俺は比較する対象を持たないのだが。
「睡眠は記憶障害に良い効果を齎すとする研究もあります。まあ、何にせよ今日は長い一日でしたでしょうから、良く休んでください」
ヴィクター・バレンタイン。目を覚ました俺にかかりきりになっている二人のうちの一人だ。もう一人のノヴァ・サマーフィールド博士は少し前にAIロボットに引っ張られて風呂に入りに行かされた。変わった人だ。
ヴィクター(「俺」はそう呼んでいたらしい)は、今日話した限りでは理知的で、こんな状況になった俺への諸々の説明も分かりやすかった。心なしか、「サブスタンス」の説明には熱が入っていたように思えるが、その辺りは科学者ならでは、と言ったところか。
まず引き合わされたのは、「俺」の実弟だという青年と、従者(と言われて思わず聞き返したが、聞き間違いでは無かった)だという男だった。この二人を覚えていないことで、俺の記憶は直近数年分だけが失われたという類のものではないことが確かめられたらしい。俺を案ずる言葉を掛けるでもないぎこちない「弟」の様子に、残念ながら兄弟仲は良好とは言い難かったらしいことを、俺でも容易に察することが出来てしまった。「従者」の男は思い詰めたような目をしてそんな俺達を見ていた。
次にやって来たのは、「俺」の担っていた「メンターリーダー」という役職を当面の間代わりに引き受けてくれることになったという人物だった。ジェイ・キッドマン。何でも、このエリオスにおける「俺」の育ての親のような存在らしい。俺の状態に随分と心を痛めているようで、目に涙を浮かべそうな勢いで留守は任せてくれと力強く宣言された。
最後に引き合わされた二人は奇妙な組み合わせだった。一人は俺に会いたくて堪らなかったという顔をして全身で俺を心配していて、他方でもう一人は一刻も早くこの場から立ち去りたいという素振りを隠しもしなかった。ディノと呼ばれた前者の男は俺達の間柄を「親友」と言い切り、俺を気遣い、笑顔を向けてきた。キースと呼ばれた後者の男は、頭を掻きながらさもどうでも良さそうにこう言った。
『オレとお前は、あーその、何だ、腐れ縁ってヤツだ。十五やそこらの頃からずっとな』
要するに、同期で十年来の付き合いはあるが、ディノとは異なりキースとは仲が良い訳ではないということだろうか。差し当たりそう理解して、ならば無理矢理俺に面会させられてさぞ不本意だろうと、俺はキースに少し同情した。確かにただの同期ならば、突然呼ばれても話す内容など持たないだろう。
その後はディノに体調を案ずる言葉を掛けられて応じたり、これまで誰に会ったんだ、と聞かれて答えたりしていた。ディノは距離の縮め方が巧みで、俺は存外に楽しい時間を過ごすことが出来た。キースとは一度も目が合わなかった。
◇ ◇ ◇
ひらり。
花びらが舞い散る。数歩先にいるブラッドがふと消えそうに思えて、オレはガラにもなく声を張り上げた。
『ブラッド』
ブラッドが振り返る。とても静かだ。ただ、桜がしんしんと降るだけ。
『――好きだ』
ブラッドが目を瞠る。息を呑んだ気配がする。構うものか。オレは今、十年以上越えられずにいた境界を越える。
一歩踏み出す。ブラッドは動かない。
『お前じゃないとダメなんだ、ブラッド』
声が震えた。クソ、格好つかねぇ。舌打ちしそうになって、コイツ相手に今更か、と思い直す。
『オレと、生きてくれ』
ブラッドが微笑んだ。
その瞬間、舞い散る桜も、遠くの鳥の声も、消えた。
◇ ◇ ◇
随分と懐かしい夢を見た。
あれは一年近く前、ディノが復帰した翌年の春、桜を口実にブラッドを連れ出したグリーンイーストの公園でのことだった。笑ってくれたブラッドが綺麗で、とても綺麗で、このまま時が止まれば良いのにと本気で願った。
二日酔いで重い身体を起こす。時計を見るとまだ夜中だった。これ以上眠れないだろうと思いながらも動き始める気は全く起きなくて、オレは枕元にある瓶を呷った。喉が焼ける。そう言えば、「迎え酒」という日本の言葉を教えてくれたのもブラッドだった、とふと思った。眉間に皺を寄せてオレに説教する姿が脳裏に浮かんで、オレは慌てて頭を振った。視界がぐらぐらと揺れる。その揺れに身を任せるようにベッドに倒れ込んだ。冴えてしまった思考を持て余す間、頭に浮かぶのはブラッドのことばかりで、結局その後は一睡もできなかった。
3
《Side: Jay》
部屋に足を踏み入れた瞬間に、強烈なアルコール臭に思わず顔を顰めた。
ブラッドが記憶を失った数日後から、キースは元々予定していた二日間のオフに入った。本来ならブラッドと二人で過ごす予定もあったのだろう、そのキースがウエストの自宅に引き篭もって酒に溺れているとディノから聞いたのはオフが明けたはずの日のことだった。タワーに戻って来ず連絡も取れないキースを心配してディノが様子を見に行った時にはもう手の付けられない泥酔状態だったらしく、何度酒を取り上げても新たな酒を呷り始めて埒が明かない、あんなキース初めて見た、あんな、自分を傷付けるためみたいな飲み方、と、ディノは泣きそうな顔で俺に助けを求めてきた。
一緒に行こうかと申し出てくれたディノをやんわりと制して、俺はキースの自宅にやって来た。ブラッドのキーケースからディノが借りた合鍵で中に入ると、キースはリビングで机に突っ伏していた。周囲には酒瓶や缶が散乱していて、キースの手にも当たり前のようにウイスキーの瓶が握られている。
「キース」
声を掛けても反応がない。一瞬、意識がないのかと肝を冷やしたが、続けて呼び掛けると肩が微かに揺れた。
「キース、俺がわかるか?」
のろのろと顔を上げたキースは焦点の合わない虚ろな目をしていた。
「……ジェイ」
なんで、と呟く声は酷く掠れている。
「ディノからお前の話を聞いて、様子を見に来たんだ」
アイツ、ほっとけよ、唸るようにキースが呟く。
「そういう訳にはいかないだろう。それに、日付の感覚があるかわからないが、今日はもう勤務日なんだぞ?」
キースは一瞬固まると、納得したように溜息をついた。
「後で休暇申請する」
「その前にこの酒を何とかしないとな。身体に毒だぞ」
「……戻りたくねぇ」
呟いたキースは迷子になって途方に暮れた子どものようだった。
「ブラッドのこと、ショックなのはわかるよ。俺も皆もショックだが、お前は人一倍そうだろう。だが、俺もお前もヒーローである以上立ち止まっている訳にはいかないんだ、わかるな?」
「……」
「キース?」
「……わかんねぇよ」
俺はキースの言葉を待った。
「ブラッドが、アイツをアイツにしてたもの全部失くして、……それでオレが普通に生きてられるワケねぇだろ」
「キース……」
「アイツがいなくなったんだぞ、ヒーローなんてしてる場合かよ」
「それはどうだろうな」
「アイツの分までとか、言うなよ。綺麗事はごめんだ」
「ハハ、先を越されてしまったな。だが、一つ言えるとすれば、絶望するにはまだ早いということだ。記憶喪失の原因は究明中だが、脳の状態などからすれば記憶が戻る可能性は十分にあると、お前も聞いているだろう? 今は信じて待ってみないか?」
たっぷりと間を開けて、キースは呻いた。
「ジェイやディノを困らせたいワケじゃねぇんだよ……」
「……そうか」
「……戻ったら始末書だよな。ジェイに出せば良いのか? 変な感じだな」
「慣れる間もなくブラッドが戻って来てくれると良いんだがな。まあ、タワーに戻ったらブラッドに会いに行ってやってくれ。初日に顔を合わせたきりだからか、お前のことを気にしていたぞ」
「……今のアイツはブラッドじゃねぇ」
「そうかな?」
「……は?」
「会って、話してみるといい。きっとわかる」
「何が」
「それは自分で確かめてごらん。朝九時から夜九時までは基本的に面会可能にしているとノヴァ博士が言っていたから」
キースは眉間に皺を寄せたまま、曖昧に頷いた。
◇ ◇ ◇
戻らなければとは思いつつも結局ダラダラと重い腰を上げられずにいるオレの隣で、ジェイは根気強く待ってくれていた。
そのうちに、酒で気が緩んでいたのか、オレは話すつもりもなかったことを口走っていた。
「……記憶、なくなって良かったこともあるのかもって、思ってた」
「どうしてだ?」
「アイツが何か隠してるの、ジェイも知ってんだろ?」
ジェイは曖昧に口を引き結んだ。この人は根っからの善人だ。嘘がつけない。
「いつか記憶が戻るのか、ずっと戻らねぇままなのか、わからねぇけど、アイツのその背負ってるモン、今この間だけでも降ろしていられるんなら、それも悪くねぇのかもななんて、思っちまってさ、」
今更だけどヒーロー失格だよな、オレ。
アイツが一人抱えているものがこの世界にどんな帰結をもたらすのかなど知らないけれど。
ブラッドと世界など、はじめから天秤に掛けるまでもないのだから。
「いや、お前らしいよ」
思わず顔を上げると、ジェイと目が合った。
「それがお前の護り方なんだろう」
ジェイの目は優しかった。
タワーに戻って始末書を書いて、ディノに説教されて、それ以来、オレは「ブラッド」の病室に通うようになった。最初は居た堪れなさすぎてジェイやディノにも来てもらっていたが、そのうちに、誰かと一緒に訪ねる方がより居た堪れないということに気付いて、それからは一人で来るようになった。
「キースか」
「おはようさん。調子は?」
「可もなく不可もなくと言った所だな」
「……」
「何だ?」
「いや、当たり前なのかもしれねぇけど、喋り方とかはあんまり変わらねぇんだなって」
「そうか」
「悪りィ、言われても自分じゃわかんねぇよな」
「ああ。だが、周囲から俺がどう見えていたかを知るのは興味深い」
「……」
「どうした?」
「いや、何でもない。パトロール行ってくるわ」
「ああ、気を付けて」
「っ、わかった」
いずれにせよ調子が狂うことばかりだが、オレとのどうでも良いような会話も記憶が戻るきっかけになるかもしれないと聞かされたら、通うのをやめる気にはなれなかった。
4
「…ッド、ブラッド、起きろって」
目を開けるとキースが俺の顔を覗き込んでいた。どうやら肩を揺すられて起こされたようだ。状況を把握すると同時に、自分の息が酷く上がっていることに気付く。身体を起こすと顳顬を汗が伝った。俺は魘されていたらしい。
「……悪いな」
「いや、大丈夫なら良いんだ。……何か飲むか?」
「……頼めるか」
「おう」
キースが部屋を出て行く。面倒臭がりの癖に、妙な所で面倒見の良い男だと思う。今だって、何故こんな時間に病室に来ていたのだろうか。ノヴァ博士が緩やかに指定している面会時間を過ぎてもキースが居残ったり、夜中と言って良い時間に訪ねてくるようになったのはここ一、二週間ほどのことだ。
――ああ、あの日以来か。
少し考えただけで腑に落ちた。十日ほど前、俺は深夜に酷い頭痛に襲われて、ノヴァ博士とヴィクターを呼ぶ枕元のボタンすら上手く押せずにいるうちに、偶々やって来たキースが二人を呼んでくれたのだ。
あれがあったから、キースは恐らく俺を心配してくれているのだろう。もしかしたら俺が眠っている間に訪ねて来ていることもあるのかもしれない。
ディノと違って初めは一切顔を出さなかったキースは、今では一日に一度は必ず、日によっては一日に二回やって来ることもある。親しくもない俺のためにわざわざ何故、と不思議に思っていたが、何をするでもなく他愛無い話をして行くだけのキースとの時間は、存外に居心地の良いものだった。何より、不愛想なこの男の分かりにくい優しさや思いやりに触れる時間は、記憶を失って多少ともささくれ立った心を抱えている俺を、少しずつだが確実に癒していた。それに、いい加減でだらしの無い所も、何故か放って置けない気にさせられる。気付けばキースのことを考えている時間が自然と長くなっていた。
「お待ちどおさん」
「……!」
自販機で水でも買って来てくれるのかと思っていた。戻って来たキースは湯気の立つマグカップを持っていた。
「ホットミルクにした。熱いから気を付けろよ」
「礼を言う」
マグカップを受け取り、少し冷ましてから口を付ける。途端、俺は何とも形容し難い感情に襲われた。
マグカップを持って固まった俺をキースが怪訝そうに見ている。どうした。何事も無かったかのように飲み続ければ良い。それが出来ないなら何か言わなければ――
「……キース」
「ん?」
「……いや、何でもない」
思い描いた全てに失敗した俺は、手が震えそうになるのを堪えながらホットミルクをもう一口口に運んだ。
入院したばかりの頃、夜中まで寝付けなかった俺にノヴァ博士がホットミルクを作ってくれたことがあった。その時に感じた微妙な違和感――もっと言えば、物足りなさの正体が、今漸く分かった。今飲んでいるこの味を、俺は確かに知っていた。
「……ブランデーか」
「ん? ああ、ちょっとだけな、香り付け程度だよ」
「……美味いな」
「へへ、だろ」
キースが笑った。彼は今どんな気持ちでいるのだろうとふと思った。恐らくは「ブラッド」が好んでいたはずのホットミルクを俺が美味いと言って飲んでいる今、この男は――
その答えを推し量るには一杯のホットミルクを飲む時間は短過ぎて、キースは空になったマグカップを受け取るとあっさりと出て行った。眠るまで傍に居てくれる訳ではないのかと思ってしまった俺は、いつの間にか随分とこの男に絆されてしまったようだ。
5
《Side: Gast》
ブラッドが記憶を失ってもうすぐ三週間になる。研修チーム全体はジェイが取り仕切ってくれているし、サウスではオスカーが今まで通りルーキーのことを見てくれているようだけれど、俺には一つ気がかりなことがあった。
――キースのヤツ、実は相当参ってるんじゃねぇかな。
キースとは、時々飲みに行く仲だ。これまでは向こうから誘われることが大半だったけれど、そんなわけで今回は俺から誘った。キースは特に何も言わず了承してくれて、俺たちは終業後ウエストのバルに飲みにやってきた。
こんな状況なのに、というのも変かもしれないが、会話は弾んだ。とは言え、ブラッドの話を何もしないキースという時点でいつも通りではないのだが。程良く酒が進んできたところで、俺は気になっていたことを訊いてみることにした。
「……こんなこと訊いて良いのかわかんねぇけどさ、キースって、ブラッドと付き合ってるんだよな?」
キースは一瞬固まったが、目を伏せて笑った。
「……気付いてたか」
「な、何となくな? 大丈夫、俺の周りで気付いてるのはドクターくらいだから。俺も誰かに言ったりしねぇし」
キースの穏やかな雰囲気に助けられて、俺は言葉を継ぐ。
「……やっぱ、キツいよな、こんな状況」
うーん、とキースは唸った。
「そうでもねぇって言ったら嘘になるかもしれねぇけど……ただの腐れ縁だろうと、実際今みたいに傍に居られるなら上々だとは思ってるよ」
俺が返す言葉を見つけられずにいると、だけどな、とキースは小さく言った。
「今のアイツはヒーローじゃねぇだろ? 何だか知らねぇけど、オレ、そのことがすげぇショックだったみたいでさ」
まさに酒の力を借りて、という感じでポツンと呟かれたその言葉は、店の喧騒とは裏腹にはっきりと俺の耳に届いた。急にキースがキースじゃないみたいに見えて、俺は若干の緊張を感じながら続きを促した。
「……アイツの、ヒーローしてるアイツの夢ばっか見るんだ。戦ってたり、偉そうにメンターリーダーしてたりさ」
キースは薄く笑った。自嘲気味にも見えるその笑みは酷く弱々しかった。
ふ、とその表情が消える。
「この前、アイツの病室にいる時にアラートが鳴ってさ」
「ああ」
「アイツ、ピクリとも反応しねぇのな。まぁ当たり前なんだけど」
キースが新しい煙草に火を付ける。
「で、結局オレも出動しなくていいヤツだったんだけど、そしたらアイツ、『警報への反応が悪いのではないか?』だってよ。そんなとこまでアイツはアイツのままで、オレよりよっぽどヒーローらしくてさ……」
キースは両眼を片掌で覆った。そのまま動かずに、ややあって絞り出すように呟く。
「悪りィ、オレ、面倒くせぇよな」
キースのするブラッドの話を聞き慣れた俺からすれば日頃の酔ったキースの方がよっぽど面倒くさかったが、さすがにそんなことを言える雰囲気でもなく、俺はそんなことねぇよ、と相槌を打つしかなかった。確かに、キースにとってヒーローであるブラッドが大切ならその分だけ、今の状況は堪えるに違いなかった。
またぽつぽつと話をしながら俺たちは酒を飲んでいた。ブラッドのことをあれこれ考えながらキースと話していた俺は、つい反応が遅れた。
手元で発信音がする。見ればキースが誰かに電話をかけていた。いや、誰かなんて明らかだ。
「いや待て、キース!」
「……なんで?」
ダメだ、完全に酔っ払ってる。
俺の制止は間に合わず、間もなく電話はつながってしまった。
『……もしもし?』
怪訝そうなブラッドの声がする。俺は頭を抱えたくなった。
「おう、ブラッド〜。迎えに来てくれ〜」
キースは上機嫌だった。
電話口の向こうで一瞬ブラッドは沈黙した。困惑が手に取るようにわかる。しかし次いでブラッドは淡々と言った。
『君も分かっているだろう、俺は病室から出られない。そもそも何故俺が?』
キースの瞳が凍った。
俺は慌ててキースのスマホを奪い取って応答した。
「もしもし、ガストだ。ブラッド、悪い、キースの奴、かなり酔っ払っててさ。アンタとは同期で仲良かったの知ってるだろ? つい習慣でかけちまっただけみたいだから、気にしないでくれよ。遅い時間に悪かったな」
『……そうか、分かった』
事情を今ひとつ飲み込めていない様子のブラッドを放置して、俺は無理矢理通話を切った。今は一刻も早くブラッドからキースを遠ざけないといけないと思った。
6
「ああ、それであの晩キースの奴荒れてたんだな」
ディノは一人納得したように言った。納得出来ないのは俺だ。
「どういうことだ?」
尋ねると、一瞬躊躇ったかに見えたディノは苦笑気味に教えてくれた。
「キースはね、外で酔っ払うとブラッドに電話しちゃう癖があるんだよ。迎えに来てくれ〜ってね」
「何故……」
ディノは困ったように笑う。
「う〜ん、ブラッドが面倒見良いのもあるんじゃないかな? キースなりの甘えみたいなものだよ、きっと」
「キースは、」
尋ねかけて、俺は口を噤んだ。ただの腐れ縁だという妙な男のことを知って俺はどうするつもりなのだろうか。しかし、不可解なキースのことを知りたいと思う気持ちは俺の中で既に抑えられない程に大きくなっていた。
「ん? どうした?」
ディノと俺は、きっと良い友人関係だったのだと思う。俺に見せる気を許した態度や柔らかな笑顔からもそれは察せられる。そして彼やキースの口振りからは、ディノとキースもまたお互い気の置けない大切な存在なのだと分かる。では、俺とキースは――
「……キースは、ガストと親しいのか?」
俺の口から出たのは己でも思いもよらない台詞だった。案の定、ディノは一瞬驚いたように目を丸くした。
「ガストか? う〜んどうだろう、特別親しいってほどでもないと思うけど……あ、」
ディノは何か思い付いたように目を瞬かせて続けた。
「ガストはね、ルーキーの中でも少し成人するのが早かったんだ。だからキースがよく飲みに誘うようになって、ガストもノリ良く付き合ってあげて、それで時々二人で飲みに行ってるって感じかな。……ガストと何かあった?」
「……いや」
あの時電話口の向こうのガストの声に一瞬感じた胸の騒めきめいたものを思い返す。自分はあの時のことが気になっていたのだと、今になって悟る。
ふと、良い機会かもしれないと思った。
「ディノ」
「ん? 何だ?」
「……君は、ホットミルクにブランデーを入れるか?」
「え?」
ディノは面食らったように固まっていた。
以前から気に掛かっていた小さなピース達。
ディノやジェイにまで存在を知られている合鍵、酔うと当然のように迎えを呼んでくること、眠れない夜に飲むホットミルクの味の好みを知っていること。
――俺とキースは、本当にただの同期だったのだろうか。
キースから向けられる日々のさりげない気遣いや、今の俺の境遇を憐れむでもなくただ当たり前のように傍に居てくれるあの穏やかな優しさは、本当にただの腐れ縁に向けられたものなのだろうか。
一人内心で問い掛けても、答えは分かろう筈も無かった。
7
結論から言うと、オレは今混乱している。
ここ二週間余り病室に通って、いくつかわかってきたことがある。
一つは、「ブラッド」はクソ真面目だということ。日がな一日ベッドでゴロゴロできる最高の身分だってのに、アイツは怪我が治るとすぐにエリオスやヒーローについての勉強を始めた。休んでりゃ良いのにと言ってみたら、この間にも俺の給与や手当なりは支払われているのだからこの程度当然だ、と秒で返された。それに、記憶が戻るかも分からないのだから事務仕事くらいは出来るようにならないとな、とブラッドは、多分あまり意図せず零した。仮に記憶が戻らなかったとしても関係者である自分を、記憶がないとは言えエリオスが監視下から外せないことをわかった上での行動ということだ。つくづく先を読んで動くのが上手いヤツだ。
ちなみに、アイツのカタブツぶりは己の勉学に留まらない。
ブラッドがこんなことになってからのオレはつい深酒をしがちで、ある朝二日酔いで病室に行ったら思い切り眉を顰められた。
「君は、今勤務中ではないのか?」
「細けぇことは良いんだよ、これからパトロールだから、じゃあな」
「君は二日酔いで職務に当たるのか?」
「言っとくけどいつもじゃねぇからな? 昨日はちょーっと飲み過ぎただけだって」
「市民を守る立場にあるヒーローの行動として、それは望ましくないのではないか? ジェイに報告を……」
「ジェイだって今更何も言わねぇよ。オレがこんなんなのはわかってるからな」
「……信じられん……」
唖然とするブラッドを余所にオレはパトロールに出掛けた。案の定ディノとジュニアには説教されたし、フェイスにはゴミを見るような目で見られたけれど、オレ的にはブラッドの唖然とした顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
わかってきたことは他にもある。例えば、「ブラッド」は好奇心の塊だということ。特にすっかり忘れてしまったサブスタンスやヒーロー能力は大いにブラッドの興味を引いたらしく、ヴィクターなんかは、病室に伺う度にサブスタンスの話をせがまれるのですよ、と満更でもなさそうに話していた。オレのヒーロー能力にも興味津々で、どうやって制御するのかなどと目を輝かせて聞いてきた。金属を操る「自分」の能力について聞いた時もあからさまにそわそわしていて、記憶がないせいか今は発動できなくなっていることを心底悔しがっていた。
それから、「ブラッド」は結構なお節介焼きだ。せっかくなんだからのんびり休んでいれば良いのに、ある時はオレがたまたま持っていた報告書を勝手に添削し始めたこともある。それに、一度検査のためにトレーニングルームに来た時に目にしたルーキーたちのトレーニングにも関心を持ったらしく、基本的な体術の記憶はあるから俺にもアドバイスできることがあると思うのだが……などと本気で相談された時は流石にオレも困った。博士と相談して、結局は付き添い、もといお目付役なしに部屋から出られない現状では難しいだろうという結論に至ったのだが、アイツは思い切りしょんぼりしていて少し同情した。
――要するに、記憶を失った「アイツ」は、驚くほどブラッドに似ていた。
もちろんそれらだけがブラッドではないのだが、その一つ一つはオレの心を揺さぶるには十分過ぎて、オレは正直混乱していた。だってそうだろう、オレの惚れたブラッドはもう消えたはずなのに、ついこの間だってその事実を電話越しに本人から突き付けられたはずなのに、ブラッドを形成してた何もかもを忘れたはずのアイツが、ハッとするほどブラッドのままだなんて。今オレがどうしようもなく惹かれている相手は、ブラッドなのか、別人なのか、ブラッドとしての記憶を失ったブラッドに惚れるのはブラッドを裏切ることにはならないか?
そんなことばかり考えて、オレは見事に寝不足になり、それを解消するためにまた酒に逃げ、ジェイやディノに叱られた。酒で自分の気持ちごと忘れられちまえば楽なのに、飲んでも飲んでも上手く酔えなくて、今日もオレは発信履歴を表示したまま途方に暮れている。
あの日の後ガストが言いづらそうに言ってくれた、『ブラッドの連絡先、すぐ押しちまわないようにどこかに避難しておいた方がいいんじゃねぇか?』というアドバイスは、あいにくオレには聞き入れることができなかった。アイツの名前ばかりが並んだスマホを眺めながら、迎えを呼べないことを自らに突き付けながら酒を呷る。酒の味など、とうに思考の外だった。
8
ドアの開く音と足音で意識が浮上した。遅れて来る微かなアルコール臭。足音の主がベッドサイドの椅子に無遠慮に腰掛けた気配がする。警戒しないのはそれが誰かとっくに分かっていたからだった。
(……キース)
大方飲みに出て酔っ払って帰って来たのだろう。自力で帰って来たということは、今日は研修チームの誰かと一緒だったのだろうか。
元々寝たふりをするつもりだった訳ではないが、目を開けるタイミングを逸してしまった。酔ったキースとまともに会話を成立させる自信が無かったというのもあるが。以前の「俺」は一体どうやっていたのだろう、きっと上手くあしらっていたのだろうななどと考える度に微かに胸が痛むようになったのはいつからだったろうか。
ふと、傍らの空気が動いた。
頭に触れたのは手。それはゆっくりと額を下り、また頭頂部付近に戻って行く。
俺が動けなかったのは、手袋などしそうにない面倒臭がりな男の手が酷く冷たかったからではない。その手付きがあまりにも――あまりにも優しく、そして「慣れて」いたからだった。
「初対面」の時の会話を思い出す。
『オレとお前は、あーその、何だ、腐れ縁ってヤツだ。十五やそこらの頃からずっとな』
今なら、キースの言葉を鵜呑みにした自分が愚かだったのだと分かる。あの日から今までずっと、あいつはただの腐れ縁というには深すぎる情を「ブラッド」に向けていた。
俺の前髪を梳く手はやがて止まり、離れて行く。そのことを一瞬寂しいと感じてしまった自分を内心で戒める。
「……ブラッド」
前髪が分けられて露わになった額に、柔らかなものが触れた。
祈るように触れたそれが何なのか俺にははっきりと分かってしまって、それでいて否定し難く突き付けられた事実に情けなく衝撃を受けていて、遠ざかる足音の主に稚拙な恨み言をぶつけるくらいしか出来なかった。
(……嘘吐きめ)
「ブラッド」とキースはやはり恋人同士だったのだろう。そしてキースが愛するのは今も変わらず「ブラッド」だということ。その事実にこんなにも傷付いている俺は、もう言い逃れできない程あいつのことを――
目の奥が酷く熱かった。
翌日面会時間にやって来たキースは、清々しい程にいつも通りだった。今日は朝からパトロールで疲れた、と言いながらウエストに新しく出来た店のサンドイッチを土産に買って来てくれた。後から調べたら、開店当初から大人気で行列必至の店らしい。いつだったか、偶には病人食以外のものが食べたいと零した俺の言葉を覚えていてくれたのだろう、こういう所が優しいのだ。
キースは日頃のズボラな印象が先に立つが、頓着しないのは基本的に自分のことで、実はこまやかな気遣いを息をするように出来る男だと思う。そして、そんなキースの優しさに触れる度に、心が静かに疲弊していく。その優しさを本来向けられるべき相手は、俺ではないのだから。
9
ブラッドの様子が変だ。
何があったワケでもないはずなのに、ある日を境に目が合わなくなった。会話もどことなくぎこちなくなって、オレはこのひと月でようやく縮まってきた距離がリセットされたことに人知れずショックを受け、ショックを受けている自分に、近くに居られるだけで良かったはずなのに何を期待していたんだか、と呆れた。
本当のことを言えばオレの内心は呆れた、なんて生易しいものではなく、ブラッドに冷たい態度を取られる度に、記憶の中のブラッドにすら嫌われたかのような感覚を覚えていた。そんな思考回路では自分で自分を追い詰めることになるだけなのは薄々察してはいたが、止められなかった。
今日も、パトロールの前に顔を見に寄ったブラッドは「何の用だ」と言わんばかりの目をオレに向けていた。顔を見るためだけに来るような関係性ではないはずだろうと突き付けられているような気がして、オレは半ば逃げるように病室を後にした。
さすがにこんな調子だと頻繁に顔を出すのも憚られて、それから数日足が遠のいていた時、たまたま通りかかった病室からブラッドの声が聞こえてきた。
「そうか」
オレの足は止まった。
ブラッドの声音は直近一週間で聞いたことのないほど柔らかいものだった。そんな声が向けられた先がどうしても気になって、覗くつもりはなかった、ただ見えただけだと自分に言い聞かせて、オレは一歩足を進めて来訪者をチラリと見た。
ベッドサイドに腰掛けていたのは、オスカーだった。何の話をしているのかまでは良く聞こえないが、楽しそうな和やかな雰囲気は嫌でも見て取れた。
――脳裏が赤く塗り潰されるような気がした。
自分に纏わる全ての記憶を失っているブラッドは当然オスカーのことも覚えていないはずだ。それなのにオスカーは受け入れられて、こうして穏やかに会話を交わしている。
もちろん、心優しく忠誠心の強いオスカーがブラッドの現状に心底胸を痛め、それゆえに足繁く病室に通っていることはオレも知っている。それにそもそも、オレはブラッドが誰と親しく付き合おうが口を出せる立場にはない。でも――
オスカーは駄目だった。
オスカー個人を嫌う理由は何もない。ブラッド様への心酔っぷりはブッ飛んでるけれど、良いヤツだとは思う。でも本当は初めて会った時から、紹介されて「何だ従者って」と思った時から、オレは小さな反発めいたものを抱えていた。それが今のこの状況でむくむくと膨らんで、自分のブラッドへの気持ちすらよくわからずにいるオレは一丁前に嫉妬しているらしい。自分はブラッドとどうなりたいのか問われても答えを持たないクセに、そればかりか、何もなかったフリをしてただの腐れ縁として傍に居続けることを選ぼうとしているクセに、何とも勝手なことだ。
足音を立てないように病室から離れながら、オレは部屋にどれくらい酒があったかな、とぼんやり考えていた。飲まなきゃやってられねぇ。何だか知らないがブラッドはもうオレのことなんかどうでも良いんだから、オレが二日酔いになろうがもう説教もしないだろう。明日はパトロールが入っていた気がするが適当に言ってディノに任せよう。ガキかよオレはと内心苦々しく思いながらも、このイライラをやり過ごす方法は他に思いつかなかった。
10
ある夜、耳慣れないノックの音を怪訝に思いながら返事をすると、入って来たのは俺の実弟で同じくヒーローだというフェイス・ビームスだった。
記憶を失った当初にノヴァ博士に引き合わされて顔を合わせたが、その時の硬い表情や受け答えからして俺にあまり会いたくないのだろうことは容易に察せられた。それ以来見舞いに来ることもなかった彼は、しかしさも当然といったような足取りで俺の傍までやって来る。
「アハ、酷い顔」
「……」
「何か言い返しなよ。だんまりなのは記憶失くしても変わらないわけ?」
そう言いながら、フェイスはベッドサイドの椅子に腰掛けた。視線を感じる。沈黙が流れる。
「どうせ、キースのことなんでしょ?」
図星を指された俺が言葉を失っていると、フェイスは静かに言った。
「キースがどうして今もアンタに構うのか、考えたことある?」
俺は咄嗟に言葉を返せなかった。フェイスは淡々と続ける。
「今のアンタはよく知らないだろうから教えてあげるけど、キースは自堕落で面倒くさがりで、規則正しい生活なんかもロクにしてなかったんだよ。最近はそこそこ真面目に仕事もして、アンタの面会時間に合わせて甲斐甲斐しく通ってたみたいだけど」
確かに、自堕落で面倒臭がりな側面はこの数週間で俺も目にしている。そんなキースがどうして今も俺に構うのか――
「キースはね、斜に構えているようでいて、懐に入れた身内には際限ないくらい優しい人なんだよ」
今の俺がキースにとって「身内」だと言うのか? そんな筈が無いだろう、と言おうとして、俺の脳裏にはキースにかけられた情の形が次々に浮かんでは消える。
俺が何も答えないから、再び沈黙が流れる。フェイスはそれを気にする様子も無くたっぷりと時間を取って、言葉を継いだ。
「それから、これは俺の見立てだけど、キースは本当はものすごく臆病で、重度の諦め癖がある」
その言葉の真意を悟って、心臓が跳ねた。努めて冷静を装って尋ねる。
「……何故、それを俺に教えてくれるんだ」
フェイスは薄く笑みを浮かべた。
「別に、アンタたちがどうしようと俺の知ったことじゃないけどさ。……アンタたちの辛気臭い顔は鬱陶しいってだけ」
それだけ言うと、フェイスは立ち上がった。言葉を返す暇は俺には与えられなかった。若干ぎこちない「お大事に」と共にフェイスが出て行ったドアを、俺は為す術無く暫く眺めていた。
◇ ◇ ◇
ひらり。
花びらが舞い散る。この花を俺は知っている。そしてこれが夢であることも。
『ブラッド』
俺の背後にはキースがいた。振り返ると、数歩分の距離を空けたまま立ち止まったキースが俺を見ている。キースは見たこともないような思い詰めた目をしていた。
『――好きだ』
予想し得なかった――否、予想はしていてもキースが口にするとは思っていなかった言葉に、俺は息を呑んだ。キースが一歩踏み出す。
『お前じゃないとダメなんだ、ブラッド』
キースの声は静かだった。俺は両手を握り締めてその震えをやり過ごそうとして、失敗した。
『オレと、生きてくれ』
――ああ、やっと言ってくれたな。
半ば無意識に笑みが零れる。それを見たキースの目が見開き、次いで喜色に表情が輝いていく。
今この瞬間、世界には俺達二人だけが居た。
◇ ◇ ◇
11
「キース」
ある日訪れたブラッドの表情が、いつにも増して硬かった。嫌な予感がした。
「君はもう気付いているかもしれないが、言っておく。俺は君と記憶を失う前の俺が特別な関係だったであろうことを察している」
「なっ……」
出された話題はあまりに予想外だった。
「だが、俺は君に今の俺ともそのような関係を結べと強いるつもりは全く無い。己に纏わる記憶を失くした俺は別人も同然だろうからな。だから、君には俺に囚われずに生きて欲しいと思っている」
そんなことを急に言われて、自分の気持ちの整理もついていないオレが何かを言い返せるワケもなく、オレは「ちょっと待て」と言い捨ててその場から逃げた。我ながらクズだ。
とりあえず屋上に逃げて、ベンチで頭を抱えていると、しばらくしてスマホが鳴った。
「ディノ……?」
『キース、今どこだ?』
屋上にやって来たディノはオレの隣に座り、開口一番こう言った。
「ブラッドに何か言われたろ」
「……何で知ってんだよ」
「さっきフェイスがお見舞いに行ったらしいんだけど、明らかに様子がおかしかった、絶対キース絡みだって言うからさ」
「フェイスが?」
「ああ、ずっとお見舞いには行ってなかったらしいんだけど、この前初めて顔出したんだって。その時発破掛けるつもりでブラッドに色々言ったんだけど、さっきの様子を見ると変な方に転がっちゃったかもって……」
ディノはしょんぼり、と言わんばかりの顔で眉を下げると、オレにちらりと窺うような視線を向けた。
「突き放すようなことでも言われたか?……いきなり振られたとか?」
「振……まあ、そんなもんだ」
やっぱりか、とディノはオレの隣で頭を抱える。ややあって、小さな声が聞こえた。
「……キースはどうしたいんだ?」
「どうって……」
「このままブラッドの記憶が戻らなかったら、キースはどうするつもりなんだ?」
ディノの問いはオレがこの数週間ぐるぐると考えていたことそのものだった。
「……わからねぇ」
「わからないって、何が?」
「……オレが惚れてんのは今のブラッドなのか、前のブラッドなのか、もうわからなくなっちまってて……」
オレは己の混乱状態を正直にディノに話した。ブラッドのためを思うなら、何もなかったことにするのが良いと考えていることも。静かに聞いていたディノは、聞き終わるとポツリと言った。
「俺には、もう手遅れなくらい今のブラッドのことも好きなように聞こえたけど」
「は……」
「違うか? そりゃ、ブラッドをブラッドたらしめてる、あいつのこれまでの人生とか、経験とか、そういうものをキースがすごく大事に思ってるのはわかるよ? だけど、それを覚えてないブラッドでも、それでも好きだと思ったんだろ?」
「……」
「それなら動くしかないよ。このままじゃお前たち拗れて、取り返しのつかないことになるかもしれないぞ」
「……今のブラッドはオレのことなんて何とも思っちゃいねぇよ」
「だとしたら敢えてそんな突き放すような態度取る理由もないだろ? それに、もし本っ当に何とも思ってないなら、告白したってそう言われるだけだろ。そこで気を遣って思ってもないこと言ったりしないもんな、ブラッドは」
「……まあな」
どうやらオレに逃げ道はないらしい。覚悟決めるか……と、オレは再度頭を抱えた。
12
天気予報によれば今日は一段と暖かくなるのだという。この部屋の中で生活が完結し、高層階ゆえに窓も開けられない俺には実感の湧かない話だが。
そんな日の昼下がりに、数日ぶりにやって来たキースは珍しい手土産を持っていた。
「その枝は、桜か?」
「お前外出られねぇから、たまにはと思ってさ。あ、ちゃんと店で買ったヤツだからな?」
「分かっている」
今日のキースは少し変だ。何処となく緊張しているように感じる。
「綺麗だな」
それを少しでもほぐせればと声を掛けたものの、返ってきた声音は一層硬かった。
「……ブラッド」
花を活け終えたキースが向き直る。そもそもこいつが自ら花を活けるなんてどうかしているのだ。
「好きだ」
俺は一瞬目を閉じた。願ってはいけないと知っていて尚願った筈の、でもとても額面通りには受け取れない言葉を受け止めるには、瞬き一つ分の時間では到底足りなかった。
「キース、だが俺は、」
「ブラッドじゃないとか言うんだろ? 大丈夫だから」
「何が……」
「記憶は、戻ったらそりゃ嬉しいとは思うけど、もう何つーか、戻んなくてもそれはそれで良いやって」
キースは何処か晴れやかな顔をしていた。この数日間で、こいつに何があったと言うのだろうか。そもそも俺はキースが踏み出す筈が無いと思っていたのに。
「……何を言っているんだ」
「記憶がなくても、お前がオレを忘れてても、オレはお前を好きになったって、そういうことだよ」
こんな、抜け殻のような俺を?
「信じられねぇ?」
「……そうだな」
「じゃあこれから、気が遠くなるほど時間かけて、納得させてやるから」
――だから、オレと、生きてくれ。
キースは静かにそう言った。
瞬間、割れるような頭痛に襲われた。記憶に無い光景が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。目の前のキースの姿が、歪んだ。
意識を手放す直前、伸ばされたキースの手を取ることが出来たかどうか、そればかりが気掛かりだった。
◇ ◇ ◇
ブラッドは間もなく意識を取り戻したが、その後は検査三昧で、解放されたのは夜になってからだったらしい。らしい、というのは、それらの検査にはもちろんオレが立ち会えるはずもなかったからだ。
意識を失う直前、オレの手を取ったブラッドが淡く笑んだ。目を覚ましてから、その同じ笑みを、病室の隅から見つめるオレに返してくれた。それだけでオレには十分だった。
検査の結果、脳に生じていた小さな異常は解消され、それに伴って記憶も問題なく戻った、とのことだった。ちなみに、どういう仕組みかは知らないが、記憶を失くしていた間のことも今のブラッドは覚えているらしい。
ブラッドが記憶を取り戻してから、少し変わったことがあった。
一つは、フェイスがブラッドとオレの関係に気付いていることをそれとなく匂わすようになったことだ。以前から勘付かれているかもしれないとは思っていたが、今回オレたちのゴタゴタを解決するのに一役買って吹っ切れたのか何なのか、オレにブラッドの話を振ることも増えた。オレが部屋で酔ってフェイスをブラッドと間違えた時には、「そのうち愛想尽かされても知らないよ」と冷たくあしらわれたが。
もう一つは、ガストがサシ飲みに付き合ってくれなくなったことだ。こちらから誘ってもやんわりと他にも誰か誘おうぜと言われるようになった。どうやらブラッドに気を遣っているらしい。二人の間で何があったのか、それともなかったのかはわからないが、おかげでオレは情けない恋愛相談をジェイやヴィクターにまでする羽目になった。
ブラッドは復帰直後から多忙を極めていて、ゆっくり話をする機会もしばらくなかった。復帰後半月ほど経った今日、メンター会議の後に何とか声を掛けることに成功した。
「ブラッド」
「何だ」
「今週土曜、空けとけ」
「何故」
「グリーンイースト、満開だってよ」
ブラッドは一瞬目を見開き、次いで思わず、という風に口許を緩めた。
「金曜期限の報告書を確実に片付けておけよ」
悪戯な視線を投げて踵を返したメンターリーダーさまの背筋は今日もピンと伸びていて、その凛とした後ろ姿にオレは間延びした返事を返して歩き出した。この日常がただ愛おしかった。