背中の傷 -3- 珍しく、早くに目が覚めてしまった。
リゼルは、窓から差し込む朝の光りが、うっすらと明るく照らし出す部屋のベッドに上半身を起こして、ぼんやりとした目で辺りを見回した。
いつの間にか、自分が居てもあまり違和感を感じなくなった、二人で居る事が当たり前になってきた、宿の男の部屋。
自分が居なくても自由に出入りしても良いと合鍵を手渡されてからの方が、こうして二人で会う機会が増えた気がする。それはきっと、いつでも会えるが故の「寂しさ」からかもしれない。
およそ己らしくない思考に小さく笑って、リゼルは枕に顔を押し付けるようにうつ伏せで眠りに就いている男を見下ろした。
光をかすかに反射する男の漆黒の髪。
思いがけずすっきりとした長い襟足から緩やかに盛り上がった肩の筋肉。己くらいならば抱え上げる事も苦もなくやってしまえる長く力強い腕。節は目立つが整った長い指。切り揃えられた爪。
うつ伏せになっていて見えない胸板は厚く、薄い陰影を付ける腹筋はそれまでの戦歴と常の鍛錬を如実に語り、細いがどっしりとした腰回りはリゼルの腕を回すに丁度良い。男っぽい双丘に、滑らかな両の足は長く逞しい。
リゼルはしっとりといまだ湿り気を帯びている上品な色味の髪を物憂げにかき上げると、小さくため息をついた。
深い寝息にゆっくりと上下する背中。その背に刻まれた痛々しいまでの爪痕。
それは、リゼルが付けた傷だった。
もう数え切れない程この男に抱かれているにも関わらず、やはり男の欲望が己の体内に埋め込まれる瞬間の違和感に慣れる事が出来ずに居る。
その所為か、どれ程……それこそ、蕩ける程に丹念に秘処を解されたとしても、その瞬間はどうしても縋りつくものを探してその背に爪を立ててしまう。
体内から溶かされるような熱に貫かれ、揺さぶられ、深い官能的な響きを帯びる声に囁かれると、もうリゼルの躯はリゼルの意思ではどうにもならなくなる。嵐のような激しさと、確かな官能を引きずり出すに足る淫靡な指先に翻弄され、リゼルは容赦なくその広い背に爪を立てるのだ。
いつか傷が残るかもしれない。
何気なく気になってそう言えば、
『俺にとっては嬉しい傷だな』
あっさりとそう言って笑う男に、火照る頬が抑え切れなかった。
「ジル……」
熱っぽい吐息をついて、リゼルはかすかにベッドを軋ませながら身を屈めると、ゆったりと上下する男の背に刻まれた傷にやんわりと唇を押し当てた。
途端、ピクリ、と僅かに身を震わせて、深い眠りに就いていたはずの男の目がゆっくりと開かれた。
「……何だ……?」
起き抜けの掠れた声で小さく呟いて、ジルは躯を反転させると、のろのろとリゼルと同じように上半身を起こした。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「いや、目ぇ覚めた」
緩々と首を横に振って、ジルはリゼルを見下ろした。
「珍しいな……。お前の方が早いなんて」
「俺だって、たまには先に目が覚める事もありますよ」
ジルに思う様貪られた翌朝は、確かにジルの方が先に起きている事がほとんどだ。
小さく笑うと、リゼルはジルの肩に己の頭を預けた。
不思議そうに目を瞬きつつも、リゼルを拒む理由など何一つとしてないジルは、ゆっくりと腕を上げると擦り寄ってくるリゼルの肩を抱き寄せる。
「いい事でもあったか?」
見下ろす線の細い横顔に隠し切れない機嫌の良さを感じ取って、ジルは首を傾げた。ちらり、とジルを見上げて、リゼルは目を細める。
「そう見えますか?」
「何かあったのか?」
うふふ、と喉を震わせて、リゼルはジルの首筋に鼻先を擦りつけた。途端、ふわりと鼻腔をくすぐるのは、男の匂い。
互いの熱を交し合ったまま、簡単な後始末だけをして、湯も使わなかったのだ。常より色濃く男の匂いを感じたとしても不思議はない。それはジルも同様なのか、擦り寄ってきたリゼルを更に抱き寄せると、その柔らかな髪に鼻を擦り付け、
「……お前の匂いがすんな」
そのままやんわりとリゼルの耳元に唇を押し当てた。
「……んっ、」
敏感に身を震わせて、だがリゼルは小さく笑うと顔を上げて男の唇に己のそれを重ねた。かすかにかさついたその唇が、どれ程己の熱を煽り立ててくるのか、リゼルは身をもって知っている。
ジルの手がゆっくりとリゼルの頬を撫で、耳の後ろをくすぐり、後頭部に回されると、緩くリゼルの柔らかな髪を掴む。
不自然な姿勢のまま重ねる唇が、気を抜くとずれてしまう。だが、触れる柔らかな熱を離してしまうにはあまりにも惜しく、リゼルは腕を伸ばしてジルの肩を掴むと、より一層唇を押し付けた。
「んっ、……ふ、は……」
薄く開かれたリゼルに誘われるまま、彼の口腔内へと舌を差し入れれば、小さく震える躯。濡れた肉を絡ませて、時折くすぐるように敏感な上顎を舌先で撫で上げる。
流し込まれた唾液を素直に嚥下して、だが飲み込みきれなかったものが重ねる唇の端から顎を伝い落ちる。
散々リゼルの唇を貪ってから、ジルは静かに唇を離した。
とろりと蕩けるリゼルのアメジストの瞳に笑いながら、ジルはリゼルの顎を伝い落ちた雫を親指の腹で拭う。
「珍しいな。本当にどうした?」
低く囁かれた言葉にリゼルは無言で首を振ると、ジルの背に腕を回した。
背に回した手に感じる、ややささくれた感触は、己の立てた爪の痕。
リゼルはそのまま、つ……と指を滑らせた。
「……っ、」
ほんの少し驚いたように肩を震わせたジルを見上げて、リゼルはアメジストの瞳を悪戯っぽく細めた。
「痕が残るくらい、ジルの背中に爪を立てたくなりますね」
「……朝っぱらから、随分と刺激的だな」
低く呟かれたジルの言葉に、リゼルは満面に笑みを浮かべて、ジルの首に腕を回す。
「どうします?」
朝の陽の光を反射して輝くリゼルの瞳を覗き込んで、ジルはゆったりと男っぽい艶やかさを滲ませた笑みを浮かべた。
「そうだな。……このままお前を喰うか」
「朝食はどうするんです?」
「喰うならお前の方がいいだろ」
くすくすと喉の奥で笑うリゼルの腰を引き寄せて、ジルはそのままリゼルを己の下に引き込む。
抵抗もなく、白いシーツへと押さえ込まれ、リゼルは笑いながらジルの背にゆるゆると腕を回した。
「……お残しはなしですよ?」
「それを言うなら、おかわりだろ?」
滑らかなジルの背を煽るように手の平で撫で上げながら、リゼルは寄せられる唇に目を閉じた。
やんわりと重ねられる唇の熱さに、やがてリゼルは我を忘れて男の背に爪を立てる。
ジルが、己の背にリゼルが我を忘れて爪を立てる事を、密やかな喜びとして感じてるなどとは、まったく気付かないまま。
そして、リゼルはその背にこそ、口付けを施したい程の愛情を感じている事に、ジルは気付かないまま。
朝の穏やかな空気に不似合いな、濃密な空気が部屋に満ちるのは、それからすぐの事だった。