(仮)二年以上、あと十分 薄く目を開いた。カーテンから差し込む光が眩しくて顔を背ける。
朝特有の部屋の籠った空気が嫌で、早々に起き上がって窓を開けた。入り込む空気が肌を撫でて、鼻から肺を通って目が冴える。窓の外は、どこまでも突き抜けていくような青があった。
窓枠に左手で頬杖をつく。触れた左頬は、昨日恋人に打たれたところだった。いや、もう元恋人と言うべきだろう。
「ホンマに言うんやなあ。『仕事と私どっちが大事なん』って」
他人事のように呟くが、それは紛れもなく自分が言われたセリフである。自分では大事にしていたつもりだったのだが、元恋人を満足させられなかったらしい。
「いやでも、だからって浮気はないやろ……」
「寂しかったから」と泣いた元恋人。問い詰めたら逆ギレをされて、挙句の果てには頬を平手打ちされて、散々だった。捨て台詞は「別れる!」の絶叫。こっちが言いたい。
「……どっか行こ」
こんな気分、こんな空気で家に籠っていたら腐る。そう思って治は寝室を後にした。
恋人とひどい別れ方をした翌日の朝だった。
さて、見切り発車に家を飛び出したはいいものの、どうしたものか。
そうだ、そろそろ暖かくなるから新しい服でも買おうか。適当な店に入って物色をして、とりあえずいい感じものを一着買っておいた。
服選びに夢中になっていたつもりはないのだが、気づけばお昼の時間になっていた。時計を見ずとも腹の具合でなんとなくわかる。十二時少し前くらいだろうか。早めの昼にしよう。
(なんか美味そうなもんないかなあ)
興味をそそられるような店はないものかと、ぼんやり見まわしながら街を歩いていると、大きな公園のベンチに座ったひとりの女性がサンドウィッチを食べているのを見つけた。
(なんやあれ、めっちゃ美味そう……!)
治は街のメインストリートから外れて公園に足を踏み入れる。迷いはなかった。
無意識に、歩が速くなっていく。女性がこちらに気づいて、身を固める。美味そうにサンドウィッチを食べていた顔が困惑と恐怖に染まっていっていた。
まずい、不審者と思われないだろうか。
「……あの、急にすんません」
治はできる限り声を落として、長身の背を丸めて人畜無害そうな顔を演じた。女性が「は、はい」と返事をした。よかった、会話はできそうだ。
「そのサンドウィッチ、どこで買いました?」
女性が目を瞬いて、手元を見つめた後に、治の背後をさした。
「あそこのお店です」
指の先を辿ると、キッチンカーがあった。あれか、あそこに宝があるのか。子どものようなことを思って、ときめく胸を抑えつけた。
「食べとる途中やったのにホンマにありがとうございます」
「いえいえ」
女性はまたひと口サンドウィッチを食べた。
治はキッチンカーに一直線に向かった。メニューを眺め、唸る。
(どれも美味そうやな、どれにしよ。三つくらいいけるか?)
結局、三つ頼んだ。両手にあるサンドウィッチの感触に、尋常ではない多幸感が押し寄せてくる。なんて幸せな重みだろうか。
さて、このサンドウィッチたちをどこで食べよう。
公園を見渡すと、日中ということもあってかベンチが埋まっていた。空いているのはつい先刻声をかけた女性の横のみ。
(うっわ、気まず)
だからといって三つも頼んでしまったので立ち食いもできない。もう少し後先考えてから頼めばよかった。
早く食べ終わってくれないだろうか、それとも他のベンチが空かないだろうかと期待をする。
しかし残念ながら、店の前のテーブルにはすでに家族連れがいる。子どもがレタスを器用に取り除いているのを親が叱っていた。
ベンチではお散歩に訪れたご老人らが気分よさそうに景色を眺めていたり、おしゃべりをしたりしている。
女性はまだ食べ終わらない。
治は腹を括った。というか早く両手にある宝物を味わいたかった。
治は話しかけた女性の横に腰を下ろす。迷ってはいけない。堂々としないと逆に怪しまれる。「飯食うとこ、ここしかなかったんです」という顔を貫き続けた。
買ったうちのふたつは膝に置いて、ひとつを手に取って頬張る。シャキっとしたレタスの食感、ベーコンとソースの味わい、なにをとっても百点のサンドウィッチだった。店的には米派を主張したいが、やはりパンも美味い。
「……うまぁ」
そこそこの声が出てしまって、咳払いをして誤魔化した。隣に女性がいるのをすっかり忘れていた。
「美味しいですよね」
「おん、特にソースがむっちゃ……え?」
横を見る。女性と目が合う。とりあえず目を逸らした。
視界の端で、女性がしゅんと項垂れた。
「……すみません、お食事中に話しかけてしまって」
「あ、いや、びっくりしただけで」
「そうですよね、驚きますよね。すみません」
「いやいや、謝らんといてください」と返して視線を戻すと、今度は女性のほうから逸らされた。
一応、彼女が気遣ってくれているのがわかる。治がそこそこの声量で「……うまぁ」とか言ってしまったのに対して、「(そうですね、たしかに声が出ちゃうくらい)美味しいですね」と返してくれた女性はきっと優しい性格をしているのだろう。
いっそのこと「声出とるで!」と笑い飛ばしてくれたほうがどれだけ楽だったか。そうしたら「いや、むっちゃ美味ないですか!?」といつものノリで話せたかもしれないのに。
気を遣いすぎた末路がこれか。この地獄のような空気をどうしよう。気まずいにもほどがある。
沈黙。しんどい。会話があったというのに盛り上がっていない現状。耐えられない。なにか言わなければ、なにか。なんかないかと苦悩した末、治が捻り出したのは。
「…………ええ天気ですね」
ちょい黙っとれ、俺。
「……そうですね、お散歩日和ですね」
返してくれるんかーい。
「返してくれるんかーい」
ほぼ脊髄反射で飛び出た声だった。今日はやけに関西人の血が騒がしい。
女性はきょとんとした顔でこちらを見ている。
「…………え?」
「……ホンマすんません、ちょっと殺してもろてええですか?」
「えっ、えっ?」
たじろぐ女性。左手で顔を覆う治。ふたりの間に流れ続ける微妙な空気。やはりここは地獄かなにかだ。
正直、消えてしまいたかったが、ここで消えればサンドウィッチを食えなくなるという思いだけが、治を治たらしめていた。
「あの、やり直しましょう」
「やり、なおす……?」
「はい。『美味しいですね』」
「……『おん、特にソースがむっちゃ美味い』」
「わかります。三つ買われてるみたいですけど、なにを買ったんですか?」
「ベーコン、たまご、えび」
「あ、えび一緒です。それもすごく美味しいですよ」
彼女はにっこり微笑んでサンドウィッチを頬張っていた。それ以上は話さず、もぐもぐ咀嚼している。治のサンドウィッチを食べる時間を優先してくれたのだろう。
(え、なんこの人、むっちゃええ人やん!)
聖人。そんな言葉がぴったりだ。もしかして、前世は菩薩だったのだろうか、あるいは天使……いや神かもしれない。
なんだろう、この心を撫でられるような心地。むず痒くて、恥ずかしい。でも心地がいい。不思議だ。
治は惚けながら、右手に残ったサンドウィッチをかじる。
「……やっぱ美味いなこれ」
「そうですねぇ」
ええ人もいるもんやなあと、治は言いかけた口にサンドウィッチを突っ込んだ。