潔高くんの厄日
テレビをつければやれ最高気温更新だの海だの川だの。虫も人間も暑い暑いと喚いている。ここ、呪術高専も全く例外ではないが、木々に囲まれた山奥であるぶん、都会よりは随分と涼しいのだ。
普通に過ごしていれば、であるが。
「っは、が……!」
「げ! 顎入った」
「伊地知くん!」
四時間目は伊地知は一人体術の自習の予定であった。しかし、任務帰りの七海が加わり、現地調査帰りの灰原も加わり、三人でかわるがわる身体を動かし続けていれば、この暑さで当然汗も滴り落ちる。そよそよと木々を揺らす風だけが救いである。
今は灰原と伊地知の組み手中。七海はスポーツドリンクを飲みながら、それを観察していた。
伊地知は灰原の蹴りに備えて腰を落として右に腕を構えて灰原の蹴りをいなそうとした。ふと、呪力で腕を強化しただけでは踏ん張りが足りず身体ごと吹っ飛ばされたのを思い出した伊地知は、足にも呪力強化を、と気を逸らしたのがいけなかった。細い顎に気持ち良くヒットした灰原のスニーカーは、骨を砕かん勢いで振り切られた。ずざざとグラウンドに横たわる一年生の身体はいつも以上にひどくちっぽけに見える。
やっちまったと頭をかいて灰原が駆け寄る。七海は飲み物を冷やしていたバケツを携えてやってきた。
「伊地知‼︎ 大丈夫⁈」
「っ、……ぁ、はい」
「とにかく冷やしますよ」
「ぶあ‼︎」
ざばん!
脳が揺れているであろう伊地知の身体は横たえたまま、返事ができていることに安堵した七海は勢いよくバケツの水をひっくり返した。あの灰原が若干引き気味で問う。
「……なんで水?」
「足も腕の向きも疎かになっていた。熱中症の可能性もあるかなと。ふらつきや吐き気などはないですか?」
「い、え……ただの不注意です、けほっ」
口の中に容赦なく入った水は、氷混じりで非常に冷たかったがほてった身体には心地が良かった。確認不十分なまま水をぶちまけたことを素直に謝った七海だが、先ほどの伊地知の動きはどうのとアドバイスと説教を続けつつ、伊地知の目の動きや口の中の怪我の有無をチェックしていた。
「七海も手慣れたもんだね」
「伊地知くんのおかげですよ」
「……怪我が多くてすみません……」
「一応、しばらく寝たままがいいでしょうから安静に」
言い方は非常に嫌味っぽいが嫌味ではない。この数ヶ月でそれを学んでいる伊地知は七海の言葉を素直に受け取るが、手間をかけさせているのには変わりなく、申し訳なさから眉を下げた。向こうのほうでは吹き飛んだ眼鏡に歪みがないかを灰原が確認している。
仰向けでグラウンドに寝転がるのは果たして何度目か。夏の太陽がギラついて眩しい。
「あ」
伊地知の薄い唇が開いた。灰原のくりくりした瞳が上から影を作るように覗き込んだ。背にしている青空が似合う男はにこやかに、どした? と問いかける。
ひゅう、と吹いた風が爽やかだ。
「五条先輩に、呪具貸してもらう予定だったの思い出して……」
「今から?」
「はい、四時間目終わったあとに教室まで取りに来いって」
しばしの沈黙。水浸しの後輩。先輩との約束。
僕が代わりに受け取りに行くよ! と灰原は胸を叩いたが、傍ら、ポケットから取り出したボディシートで肌をぬぐっていた七海がそれを制した。さっぱりとしたミントの香りと石鹸の香りがする。伊地知は中学の時に体育後の教室がこんな匂いだったなとふと思い出していた。
「そんなことしたら伊地知くんがあの人に余計にウザ絡みされるだけですよ。ずぶ濡れでも伊地知くん本人が行った方がまだマシじゃないか?」
「でもこんな濡れて校舎入ったら夜蛾先生にドヤされるだろ」
「……それは、恐いです……」
いかつい二年生担任はその実、大変ファンシーな趣味を持っているがどこから見てもカタギの人ではないのであの威圧感に伊地知は未だに若干ビビっているのだ。
灰原は悩むことなく七海に視線を送った。
「じゃあ仕方ないな。七海」
「は?」
二年生の会話がぽんぽんと進む中、体調はどうやら大したこともなさそうだということで伊地知は上体を起こした。
「っ、す、すみません……」
「良いって良いって!」
「灰原がそれを言うな。というか伊地知くん。私の汗がついてて申し訳ない」
「いえいえいえ! 滅相もないです……‼︎ ほんとすみません……っ」
バケツの水はかなりたっぷりとかけられており、パンツまで濡れてしまっていた。そんな伊地知への提案は、蹴りを入れた詫びと水をかけた詫びとして二年生二人が伊地知に、衣類を貸すというものであった。
パンツ一丁は絶対に嫌だと言う七海の主張を優先し、灰原がハーフパンツを貸して、七海がTシャツを貸すということで話がついた。
最初、伊地知は断っていたのだが四時間目が終わるチャイムの音。待たされて五条の不機嫌な顔が脳裏に浮かぶ。こうなれば背に腹はかえられぬと慌ててグラウンドの端でそそくさと着替えたのであった。先ほど七海が使っていたボディシートの香りがする白いTシャツ、灰原の汗がゴム部分にたっぷり染み込んだ赤いハーフパンツを身に付けて、ぺこぺこと頭を下げた。
「早く行ってきなー! 遅れるとめんどくさいだろうし!」
「そうですね。転ばないように」
「ありがとうございます! 行ってきます!」
お礼もそこそこに校舎に向かって走ると、大きなTシャツと大きなハーフパンツが風をはらんでふわりと膨らむ。ハーフパンツはあまりにもずり下がるので腰紐で絞めたが、こんな色履いたことないなと身体にも心にも合わなくて、伊地知はそわそわしながら階段を駆け上がった。
奥から三つ目の教室が、待ち合わせの場所である。
「五条先輩! お待たせしてすみません! 呪具を貸して頂きにきました」
「おっせーよ」
教室には五条一人。行儀悪く椅子をギィギィと傾けていた。別に伊地知が貸してほしいと頼んだ訳ではないのだが、色々あって借りることになった呪具である。五条が立ち上がって差し出したそれは、薙刀のような形をしていた。すらりとした長い柄は、漆塗りのような鮮やかな朱だ。反った刀身がぎらりと光を反射する。
「な、なんか高そうですね……!」
「呪具だぞ? もっと他の感想持てよ」
五条は呆れてデコピンをくれてやる。伊地知は、あだ! と額を抑えた。
「五条先輩は六眼で分かるのかもしれないですけど、僕の目にはさっぱりなんです」
「……」
しっとりとした髪。オーバーサイズの白いTシャツ。真っ赤なハーフパンツ。ボロっちいスニーカー。伊地知の頭から足先までジロジロと眺めた五条は、サングラスの奥の目を顰めて疑問を口にした。
「お前、なんかにおいするな」
「え? あ、もしかし「七海のにおいだ。七海が使ってる身体拭くやつ、と、あとは……七海のにおい」
五条はすん、と鼻を鳴らした。伊地知は思わず目を見開く。
「すごいですね。強い術師は五感も鋭いってほんとなんですね」
「……ちげーよ」
五条は表情を暗くし、伊地知の足の間に、ローファーを差し入れた。なぜ⁈ と伊地知は後ずさる。しかし五条はまだ距離を詰めようと伊地知に向かって歩みを進める。虫取り網よろしく薙刀を掲げている伊地知は、長い柄を抱くようにしながら後ろへ後ろへと下がっているうちに、ついにはもう下がれないところまで来てしまった。ガン! と壁にぶつかる音。 ドン‼︎ と五条の足が壁を蹴った。
「な、な、なんですか……⁈」
「なんで、お前から七海の匂いがすんの?」
「……ふ、服を、濡らしちゃったので、借りて……」
「は? それ、七海の……?」
「は、はい……っ」
五条の視線はシャツよりも下へと降りる。
「あいつは赤とか着ないだろーが」
「いえ、ズボンは灰原先輩ので……!」
なぜか怒っている五条の声と圧に、伊地知は気圧される。空気がピリついて、いつものウザ絡みとは違う雰囲気に半泣きである。
五条は低く命令した。
「…………お前、俺の学ラン着て寮まで帰れ」
突如、五条の手が白いシャツの裾を引っ張る。
なんで⁈
伊地知は悲鳴にも近い叫び声を上げた。薙刀を手放して床に倒す訳にはいかないが、脱がされるのは勘弁‼︎ といよいよ泣きが入る。
「やめて下さい……‼︎ ちぎれます‼︎」
「んなゴリラじゃねーよ。手ぇ離せ」
「第一、五条先輩の学ラン無駄に高そうだから着たくありません……‼︎」
「あいつらのは着てんのに俺のは着れねーってなんだよ! くっさい匂いぷんぷんさせんなよ‼︎」
「くさくないです! 七海先輩のいい匂いです‼︎」
「言っとくけどお前乳首透けてるからな」
「え」
これは嘘である。ただ、伊地知が白だから⁈ と一瞬抵抗を止めたのだから、口からでまかせの勝利である。一気にガバッと脱がされ、丸めて放られた白いTシャツ。五条は斜め下の床を見つめながら、脱いだ自分の学ランを差し出した。
「おら。さっさと着ろよ」
「うううう……おばあちゃん家の桐ダンスの匂いがしそう……」
「伊地知お前ぶっ殺すぞ」
和のイメージで高級そうな匂い、ということが言いたかった伊地知であったが、五条からすると不本意だったらしい。殺害予告をされてしまい、ひぇ、と肩をすくませた。
早く着ろと急かされて、裸でいる訳にもいかず本当に渋々と言った顔で学ランに腕を差し入れた。質感は伊地知が知っている呪術高専の制服そのものであり安堵したが、布地についている香りがふわりと鼻をくすぐった。異香と言っても過言ではないような、とてつもない良い香りがして、伊地知の顔が青ざめた。
汗臭くて生乾き臭のしそうな僕のにおいがうつったら絶対どやされる。すぐさま脱ぎたい。早く脱ぎたい。
その一心であった。痩せ気味の顔は心情を隠すことなくげんなりとしていた。
「んだよその顔は! 文句あんの?」
「ないです……あるけど、ないです」
「どっちだよ」
薙刀を握りしめて露骨にため息を吐く伊地知。お借りします。ありがとうございます。とロボットのように頭を下げ、ボロボロのスニーカーを寮へと向けた。特級がゆえに嗅覚過敏らしい先輩の学ランに臭いを移さないうちに、と早足になるのであった。
腕の長さが全く合っていない学ランに赤いハーフパンツ姿という奇天烈な格好でいる伊地知と寮の玄関口でばったり出会った七海は海、よりも深いため息を吐き、灰原は大笑いしながら携帯で写真を撮って諸先輩方へと送信したのであった。
厄日が過ぎる。伊地知は盛大に肩を落とした。
終