パティシエのタルタリヤと大学の先生な鍾離の話②くるり。木ベラを翻すとそれに倣うように鮮やかなオレンジ色が形を変える。舌触りが良いように、と丁寧に裏ごししたそれにグラニュー糖と、卵黄、それに生クリームをたっぷりと。全体が柔らかな黄色に変わるまでくるりくるりと混ぜ込み仕上げにバニラを加えてまたひと混ぜ。急がず焦らず、できる限り丁寧に…そうして出来上がったものは、ツヤツヤと滑らかに銀色のボールの中で輝いていた。
「んー、ちょっと甘いかな?まぁいいか。上のクリームが甘さ控えてるし」
味見用のスプーンから舌の上へと滑り降りてきたそれは、こっくりと甘く、それと同時に素材の香りも消えていない。なかなかの出来に自然と上がる口角はそのままに、準備しておいたタルト台を冷蔵庫から取りだした。
しぶとく残った残暑もようやっと収まり、朝晩はもう寒いとさえ思えるようになってくるこの時期、公園の木々や街路樹の葉がその色を変え始めるのをみると、どうにも作りたくなるものがあるのだ。所謂、秋と言えば、なお菓子達。栗…は、人気商品の為に年中扱ってはいるが、芋とかぼちゃはこの時期しか出さない期間限定もの。『限定』という言葉に弱いのは万国共通で、この時期のガラスケースには芋とかぼちゃは欠かせないものだった。それに、作る身としても、やはり季節物を扱うのは楽しいもので。タルト台へ作ったフィリングを隙間なく流し込み、トントンと軽く叩いてからオーブンへ。全部で三台、業務用の大きなオーブンに並ぶそれは、本日のオススメ品だった。
元から料理が好きだったオレが、この道……パティシエになろうと決めたのは、育ての親とも呼べる人のせいだった。十代も前半で親元を離れていたオレの面倒を何かと見てくれていたじいさんが、ケーキ屋をしていたのが全ての始まり。それの手伝いをしているうちに、まぁ気が付けば製菓学校に進んで、更にはパティシエになっていた。しかもそのじいさんの元で二、三年働いたら、自分はもう引退するからあとは任せたと言われ、今のこの状態である。いや、一般的に二十代になりたてで店を持てるなんて幸運以外の何物でもないだろうとは思う…多分。事実、じいさんの知り合いである同業者達もみんな年上でオレが最年少だ。経験も浅い若造が作ったもんだ…いくら頑張ったって舐められてすぐ潰れるだろうと思っていた店は、しかしそれなりに客足が途切れることも無く、何度も来てくれるお客さんも増えているおかげで、今のところ奇跡的に潰れる気配は無い。が、それと同時に、やはりどうしたって自分に技術や経験、知識が足りないと思う瞬間も多いのだ。あーめちゃくちゃ口煩かったけどもうちょっと雄鶏のじいさん、いてくれても良かったのになぁ、と。遠い故郷の国へと帰って隠居している顔を思い浮かべ、ちいさくため息をついた。
「さぁて、と」
そんなどうしようもないことを考えてないで、作業を進めないと開店時間に間に合わない。次作らなきゃならないのはなんだったか、と。軽く伸びをしながら、店内のガラスケースの中を確認する。
――その時だ。ふと、目に入った店の入口前。その、スリガラス越しに人影がゆらゆらと揺れているのが見えて、思わず「え」と声が漏れた。
「あれ!?」
しまった、仕込みに集中しすぎてもうオープンの時間になっていたのか!?
通り過ぎるのではなく、明らかに店の中の様子を伺っている雰囲気の人影に、慌てて手を洗い、腰に巻いていたエプロンを剥ぎ取る。粉類がどこかに着いている気がしないでもないが…それを拭う余裕は無く。一応気持ちだけパタパタとコックコートを叩いて、そうしてドアへと手を伸ばした。
「お待たせしましたー!いらっしゃいませ……って、あんたは」
言ってしまってからしまった、と慌てて口を抑えるが、時すでに遅し。ついつい出てしまったお客様に向けるべきでは無い呼称に、脳内で雄鶏のじいさんがこらー!と拳を振り上げる姿が浮かんだ。それに分かってるよと心の中で返して、すいません、と呟きつつ、目の前の見覚えのある…どころか、昨日の閉店前最後に見た顔へと視線を向けた。
「あぁ、いや」
あんた、なんて呼ばれたその人は、一瞬キョトンと不思議そうな顔をしてから「むしろ俺の方が悪かった」と頭を下げる。それに今度はこちらが首を捻る番だった。
「えっ、なにが…」
「いやまだ開店前だったのだろう?」
そう長い指が示したのは、扉に掛けられた営業時間の書かれたボード。
「オープンは十時半だったのだな」
二時間も早く来てしまった、とどこかしょんぼりと眉を下げた男に、ぱちぱちと瞬き数秒の沈黙。そうしてじわりじわりと込み上げてきた笑いを堪えることは出来なかった。
「ふ、ふふ…ほんとだ、まだオープン前だ。しかも二時間も」
「気がついていたから出てきたんじゃないのか?」
「んふふ、あはっ、いや仕込みに集中してたから時計みてなかったんだよ」
慌てて出てきたというのに!己の失態があまりにもおかしくて、笑いの止まらないオレに目の前の人はそうなのか、と頷く。
「ならば、仕込みの邪魔をしたな。悪かった」
「いいよ大丈夫。オレが勝手に間違えただけだしね」
ひらりと手を振り、改めて。蜂蜜よりも濃い、べっこう飴のように綺麗な石珀色の目に笑いかけた。
「いらっしゃい、鍾離先生。昨日来たばっかりなのに、また来てくれてありがとう。そんなにオレのケーキ、恋しくなっちゃった?」
昨日、同じくここで見送った時とは少しだけ服装の変わった姿で現れたその人に、ちょっとだけ揶揄いを込めて。「それともオレに会いたくなったとか?」と、付け加えて問えば、ふむ、と顎の下に長い指を添えた鍾離先生は、
「いやそうでは無い…訳では無いか。そうだな」
と何とも曖昧な答えを返してきた。
「何それどっち?」
変な人だ、とまた笑って。半開きのままだった扉を開く。どーぞ、と昨日と同じように中へと促すと、長いまつ毛で縁取られた切れ長の目が驚いたかのように見開いた。
「開店前なのだろう」
「別にいいよ。先生だけ特別ね」
シー、と悪戯っぽく立てた指を唇に当てて。そう、片目をつぶって見せたオレに、小さく「可愛いな」という呟きが聞こえた。それに、いやそこはあざとい、とかじゃない?と顔には出さず内心で密かにツッコミを入れる。これでも一応成人男性である。顔は悪くないとは思ってるけど、さすがに可愛いと評価されるものではないだろう。
と、言うか、どちらかと言えば。
「あぁ、どれもいいな」
なんて、ガラスケースに納まったケーキを見てふわりと頬を緩めるこの人の方がよっぽど可愛いと思うのだ。より近くで見れるようにと腰を折り、ガラスケース内に鎮座するケーキを見つめる横顔は、ケース内のライトのせいもあってか、なんだかキラキラして見えた。あ、これはあれだ。子供が誕生日ケーキを選んでいる時と一緒の顔だ。ワクワクが止まらない…みたいな表情。ほらね、あんたの方が可愛いじゃないか…と。なんとなく勝ったような気持ちになりながら、そのおっきな子供の隣に並んだ。
「仕込み、まだ殆ど終わってないから昨日の残りとかしかないけどね」
「それでもやはり、公子殿のケーキは美しく、可愛らしい」
「へ」
美味しそう、と言われることは多々あるが、美しく可愛らしいなんて褒められたことは殆どなくて。ケーキたちに向けられていた視線が、今度はオレを捉えて真っ直ぐと告げられたそれに、思わず言葉が詰まる。嬉しいけれど、なんだか恥ずかしくて。じわりじわりと熱くなる頬を隠すように、慌てて顔を逸らし、ありがと、と返した声は蚊が鳴く程に小さかったが、果たして先生に届いただろうか。
「そんなこと言うの、先生だけだよ」
「そうか?昨日、帰って食べている最中も思ったが、外側の造形も公子殿の丁寧な作業がよく分かる程に美しいが、中の断面もまた整っていて溜め息が出るほどに綺麗だったぞ。更には見た目だけでなく味もまた素晴らしく、スポンジからクリームまで全てバランスが」
「わー!もう!いいから!そんな丁寧に食レポしないで!!」
突然始まった解説を慌てて止める。いや、勿論今言われたのは全てオレがこだわっている所だけど……正面切って褒められると、嬉しいより恥ずかしいが勝ってしまうのだ。分かった、ありがとう!!と強引に口を塞ぎ止めたオレに、むう、とどこか不満げな顔をした先生は「ではまた今度伝える事にしよう」と恐ろしいことを呟いた気がしたけど、それは聞こえないふりをした。
「ってか、昨日結構な数持って帰ったけど、まさかもう食べちゃったの……?」
「あぁ勿論だ。大変美味しかった」
「ん、ありがと。で、今日は何しに来たの?なんか苦情?」
あの量を一晩で食べてしまったという事実に驚きを隠せぬまま、再び店に来たことに首を捻る。何かあったかな?と問うと、まさかそんなわけが無い、と首を振ったこの人は、
「朝起きたらまた貴殿のケーキがどうしても食べたくなったんだ」
と。とんでもないことを言ってきた。
「へ?またって…」
「職場に行く前に寄ったのだが…開店前に悪い事をしたな」
「いや、いやいやいや、そうじゃなくて!昨日あれだけ食べたのに?また食べたい?オレのケーキ?」
「あぁ。何かおかしいか?」
「おかしい…でしょ?え、おかしくないの?それが普通…?」
一般の人はそんな連続でケーキを食べたくなるものだろうか。いや、なったとしても、即行動に移すものか…?どうにもついていけない先生の思考に、おかしいのは自分の感性なのかとさえ思えてくる。
「脳は糖が不足すると思考速度が下がるからな。疲れている時に活動するには甘い物を摂取するのが一番いい」
「そ、ういうこと?まぁ先生が欲しいって言うならいいけど…」
「脳が欲していると同時に、オレも公子殿の味が忘れられなかったんだ」
「ふーん」
オレの味が忘れられない…そこまで求められて嬉しくない料理人なんて居ない。無意識に緩む頬を片手で隠して、そっか、とどうにか返事をする。
「先生、案外甘党なんだね」
「甘い物は嫌いでは無いが、ここまで好ましいと思ったのは公子殿だけだぞ?」
「オレ、だけ……って、オレのケーキだけ、ね!」
「む?」
誤解を招きそうな言い回しを慌てて訂正し、はぁ、と一息。このままこの人のペースに乗せられていると、仕込みも終わらないし、なんだが心臓が痛くて仕方ない。無理やり気持ちを切替えるべく頭を振って、ちょっとまってて、と調理場へともどる。ちょうど先程オーブンへと入れていたタルトを取り出し、ひとつ、ケーキクーラーへと乗せた。
「そこにあるのじゃ昨日食べたのと一緒でしょ?今できたヤツあるから、これ持っていきないよ」
「それは?」
目の前に差し出された、まだ暖かいタルト。それを興味津々といった様子でじっ、と見つめる先生は、やっぱり子供みたいだ。かーわいい、と口の中で呟いて。冷蔵庫に入れて置いた生クリームを小さめのケースへと絞り出す。
「この時期にしか食べられないやつだよ。何のタルトでしょう」
「……南瓜か」
「さすが先生!大正解」
秋限定の味覚のひとつ。かぼちゃのタルトは自分でも自信のある一品だ。本来なら冷えてから上に生クリームを添えるのだが、今回は別添えで用意する。
「ちょうど出来たてだから好きな分だけ切り分けてあげるよ。かぼちゃ、嫌いじゃなければ」
「あぁ、南瓜はすきだ。ケーキでは食べたことは無いが…」
「なら初体験だ!」
なんとなく嬉しくなって、どれくらい欲しい?と問うオレに、先生はふむ、と少し考えて。
「ひとつくれ」
と、指先でまぁるを描いた。
「ひとつ?一切れ?」
「いいや、これ一台全てだ」
「え、ホールで?」
まさか、目の前にある直径十八センチのホール、丸々一個の事かと驚き聞き返せば、あぁ、と首が縦に揺れる。うっそ、と呟き「これ、六人分くらいあるよ?」と聞くが、大丈夫だとまた首が揺れた。
「朝食にちょうどいい」
「ちょうどいいわけあるか」
「南瓜だから野菜だろう?」
「そうだけどそうじゃないよ」
何言ってんだこの人、と。突っ込むオレに、目の前の酷く整った顔がしょんぼりとする。だめか…?と。お菓子売り場で母親に欲しいものを強請る子供みたいな顔をしてくるのに、なんだがこれまでの人生で刺激されたことの無い心の一角が締め付けられる。まさかこれ母性か…と。明らかに自分より歳上だろう相手に感じるにはおかしい感覚に軽く絶望しつつ、そっとかぼちゃのタルトのホールを箱へとしまった。
「一気に全部食べちゃダメだからね」
「む…善処しよう」
嬉しそうに箱を見つめる顔に、善処しよう、は一般的に善処されることはないんだよなぁと、溜息をついたのだった。
ちなみに、今回はちゃんと現金で支払ってくれた。ただし、財布は持っていないんだ、と封筒のまま持ってきたけれど。