片思い あ、ムリかも。そのフロアに足を踏み入れた瞬間そう思った。
催事スペースは人でごったがえしてる。いるのは主に……というか、全員女性だ。ぱっと見る限り、男なんてひとりもいない。よく考えなくてもそりゃそうだ。そりゃそうだよ。
「こちらバレンタイン限定セットは売り切れてしまいまして……」
一番近くのお店の店員さんが、お客さんの女性の質問に答えてる。
売り切れとかあるんだ。そっか、そうだよな。こんだけ人がいたらそうなるよ。
つか、こんなにみんな買うものなんだ。たまたま駅を歩いてたら、たまたま催事の看板を見つけて、なんとなく入ってみただけなんだけど。ホントに、ただそれだけなんだけど。今日は別に予定もないし、看板を見てそういえば明日だったなって気づいて、なんとなく見て、もし気に入ったのがあったら買ってもいいかなってそう思っただけで、別に絶対に何か買おうってつもりでもないし。つか、こんなに人がいるものだなんて思ってなかったし。
フロアに入ってくる人たちが次々に俺を追い抜かして、ずらっと並んだショーケースの中を覗いていく。あー、そっか、きっと有名なのとか人気のやつとかもあるんだろうな。どれがいいとか、悪いとか、そういうのも俺全然わかんねーや。
ふと、ショーケースの向こうにいる店員さんと目が合った。さっき女性のお客さんに売り切れの説明をしてた人。そのお客さんを見送った後、ふいに目があって、それで、やさしく微笑まれた。
言うなれば、「大丈夫ですよ」みたいな顔。「大丈夫ですよ。こちらにどうぞ」みたいな。「男性の方でも買われる方はいらっしゃいますよ」とか。「全然おかしなことではありませんよ」とか。いや、全部俺が勝手に想像してるだけなんだけど。
急激に恥ずかしくなって、くるって背を向けた。帰ろう。もう、帰ったほうがいい。
思いつきでこんなところにくるのはよくなかった。目に入ったんだ。こういうのやってたんだって初めて気づいた。知らなかった。多分、毎年同じようなことはやってたし、俺もその前を毎年通ってたと思うんだけど、認識してなかったんだと思う。気にしたこともなかった。
それが今年は、目に入るようになってしまったし、気になるようになってしまったってことで、それがなんだか、俺は、めちゃくちゃ恥ずかしい。
♡
「腹へった……死ぬ……」
八雲さんがふいに言った。ついさっきまで集中して作業してたのに、今は同じ場所でお腹を抱えて丸まってる。そんなに?
「朝食べてないんすか?」
「食うもんなかった。起きてから何も食ってねー」
進級制作も佳境に入って、アトリエにはみんなの姿がある。八雲さんの反対側の隣にははっちゃんがいるし、今はいないけどモモちゃんもきてるみたい。
「八雲んち酒しかないもんねー。朝ご飯の代わりに酒飲んでたことあったし」
「え、ヤバ。アル中じゃん」
「あれはもうやんねー。空きっ腹に朝から酒はマジでやべー」
「やる前にそれは分かるでしょ」
別に約束したわけじゃないし、予定を聞いたわけでもないから、いない可能性だって十分あった。
あったけど……あったけど、まあ、うん……いるかなって思いながら来たところはある。いや、別にあえて会いに来たとかそういうわけでは全然ないんだけど。つか、俺も制作しなきゃヤバいし、時間ないし、何がどうあっても学校には来なきゃいけなかったんだけど。全然、ほんとにそれだけなんだけど。
ただ、そういうのとは別に、いるかいないかは気にしちゃってたっていうか。
いっそいなかったらいいのにって思ってた。……のに、絵画棟の一階でやたらでかい声で名前を呼ばれて、あーやっぱいるじゃん、って思った瞬間ちょっと笑った。
いない方が絶対楽だし、余計なこと考えなくてすむのに、それでも反射的にうれしくなっちゃうのは俺の頭がおかしくなってるから。
夏くらいからちょっとずつ変になって、最近はもう完全におかしい。イカれてる。
「腹減りすぎて動けねー」
「何か食べたら?」
イカれてるんだよ、俺の頭。
こんななんでもない会話にドキドキしてる。
こういう流れは、正直言って想像してた。想像してたけど、まさかホントにくるとは思わないじゃん? 大体期待してるものほどこないのが普通だしさ。物欲センサーっていうの?
……いや別に、こういう流れがきてほしかったわけじゃないんだけど。むしろこなかったらいいのにって思ってたけど。
「タバコしかない」
「タバコは食べ物じゃないよ八雲」
「でもタバコ吸うと腹ふくれねー?」
「分かるけど、それいつかホントに倒れるよ?」
こなかったらよかった。
その方が絶対楽だし、余計なこと考えなくてすむから。
チャンスだなんて思わずにすむから。
「でも金ねーしなあ……」
こなかったらよかった。
のに。
「チョコレート」
めちゃくちゃ気を使ったおかげで、声の調子は普通だった。心臓が破裂しそうなくらいドキドキしてるし、背中に変な汗かいてるけど、声だけは普通だ。
タイミングも、変な感じではなかった、と、思う。
「……あるんですけど、食べます?」
「えっマジ!?」
「いいすよ。あとで食べようと思ってたんですけど、死にかけの人ほっとけないし」
特別なものじゃないよ。
来る途中でコンビニで買ったやつ。この時期だろうがなんだろうがいつも同じ場所にある定番商品。チョコが溶けて手につかないように、ひと粒ひと粒がつるつるしてる。おやつにちょうどいいサイズで、たまに買う。確か140円くらいだった。パッケージだって普通だし、味もただのビター。
そう、ビター。いつもはミルクを買うけど、今日はビターにした。なんとなく、そっちの方が好きそうな気がして。
カバンから出したそれを渡したら、八雲さんは両手でうやうやしく受け取った。
ニコニコしながら早速パッケージを開ける。大きな口でひと粒食べて、ぎゅって目をつぶる。
「うっめ〜〜〜〜! 腹にしみる〜〜〜〜」
「よかったすね」
「は〜〜〜、八虎聖人かよ。一生ついてくわ」
「大げさ……」
自分の絵に向き直って、一筆置く。ドキドキする。心臓が、変な風に跳ねてる。
声は、大丈夫だったと思う。呆れた感じに響いてたし、変なことも言わなかった。いつもどおりの俺だった。
別に、大したことじゃないのにな。この人はいつだって、誰が相手だって、食べ物だったらこうして大げさに喜んで受け取るに決まってるのに。今に限らずいつだって、四六時中お腹をすかせてるんだから、断るわけなんてないのに。
誰のどんなチョコレートだって喜んで受け取るに決まってるのに。
それなのに、たったこれだけでこんなに嬉しくなるんだから、やっぱり俺の頭は相当おかしい。イカれてる。こんなだまし討ちみたいな方法で渡して、それで満足してるって。少女マンガかよ。ダサすぎ。ウケる。
「はー、生き返った。いつかなんか返すわ」
「八雲さんが言わなさそうなセリフ第一位ですよそれ」
「返すって! 金できたら!」
「絶対返さないやつじゃん……」
顔だけは見ないでほしい。多分絶対変な顔してるし、多分絶対赤くなってるから。
♡
偶然だった。偶然、筆を洗いに廊下に出てたんだ。洗ってる間にきねみさんたちが部屋に入っていったことは知ってた。
「みなさんにバレンタインのプレゼントでーす!」
きねみさんの明るい声がする。どうやら、女子数人でお菓子を作ってみんなに配ってるらしい。
部屋にいたみんなが歓声をあげる。「すごいね、これ作ったの?」とか、「かわいい! お店のやつみたい」とか。
美術やってる人って手先が器用だからお菓子もすごそう。そういえば恋ちゃんが前見せてくれたケーキも装飾がすごかった。しかも見た目だけじゃなくて味もばっちりおいしいっていうね。
お菓子作れる人ってすごいよなー、と思いながら、部屋に戻ろうとノブに手をかけた瞬間だった。
「俺はいいや」
八雲さんの声がした。
どうして? と誰かが聞く。めずらしいね、村井くんが食べ物欲しがらないって。
うん、って八雲さんが答える。
「今日はひとりからしかもらわないことに決めてるから」
こーみえてロマンチストなんだよ俺、って笑ってる。
ノブにかけた手が動かない。
それって。
それって、どういう。