結婚するなら『結婚するなら』
かべ
「卒業したら結婚すっか」
俺がなんでもないことの様にそう伝えれば、目の前の男は目をパチパチとさせ、たっぷり数十秒かけて声を漏らす。
「……は?」
音としては認識したが、どう処理して良いか分からないのだろう、未だ瞬きを繰り返す瞳は左右に揺れ、困惑を表していた。
「……。もっかい、いいか? 何て?」
もしかして聞き間違いでは? と、でかでかと書かれた顔に、笑いがこみ上げてくるが、今は別に茶化しているわけではない。軽く息を吐いて、シトリンの瞳を見つめながらゆっくりと告げる。
「卒業したら、結婚しよう」
自分でもびっくりする程に真剣で、淀みない声だった。
今度こそ正しく伝わったようで、目の前の男――ネロは、聞き間違いではなかったと、息をのみ、驚きの表情でこちらを見ている。
「け、けっこん⁉」
「そう言ってんじゃねぇか」
「ば、バカだろ? 男同士ではできねぇ事になってんだよ」
じわじわと侵蝕した赤は耳まで染め上げ、逸らされた瞳に喜びが混じった。と思ったのも束の間、今度は哀しみと苦しさが埋め尽くしていく。
それを見て、良い気分だった気持ちにも影が差す。
――またこの顔だ。自分の気持ちに蓋をして、諦めた顔。
今までにも数回、この顔を見掛けた。直近では、数年前に大喧嘩したときだったか……。
いや、今はそれはいい。どちらにしてもネロは俺様の事が好きだという確信がある。普段の態度も、ふとした時に見せる視線も。だから、尚更その顔は解せない。
――勝手に諦めてんなよ。
「そんなん、関係ぇねぇだろ」
「いや、あるだろ。……ほ、法律とかさ」
多少の苛立ちの乗った声も、どうにか断る言い訳を考えているネロには伝わっていないようだった。
「どうしてもってなら海外でも行きゃいいじゃねぇか」
「か、海外? 喋れもしねぇのにか?」
「言葉なんざどうとでもなる」
「いやいや、ムリムリムリムリ……。海外なんて行ける気がしねぇ」
一瞬想像したのだろう。口元に手を当てて青ざめて眉間にシワを寄せる。中学英語すら使いこなせないネロには確かに厳しい状況にしかならないだろう。それでも器用なこの男のことだから、時間が経てばなんとかやっていけるという根拠のない自信もあるのだが。
それよりも今は。
「で、海外が嫌なのは分かったが、俺様と一緒になることは嫌じゃないんだな?」
「え? あ、いや……」
ニヤニヤとそう告げた俺を見て、しまったという顔をしたかと思うと、泳ぐ目でどうにか打開策を探している姿に先ほど感じた苛立ちはあっさりと消え去った。随分と可愛らしい反応だ。
「どうなんだよ」
「どうって」
言いくるめられそうなのを察してか、こちらをにらみ直すと、ネロは話を変えようと必死に試みる。
「だいたい、なんで結婚なんて話が突然出てきたのかわかんねぇって」
「あぁ、チームの奴が明日姉貴の結婚式らしくてな、話の流れで、俺様は結婚相手の理想が高そうだって言ってやがったんだよ。で、結婚なんて、微塵も考えたことねぇってなってよ」
「……」
ただの幼なじみ。それだけの関係と言うには近すぎる距離にいつも居た。ごく小さな頃からネロは他のチームメイトとは違う特別な存在で、唯一、何でも話せる、全てをゆだねられる奴だった。家族と思っていた頃もある。でも、家族には感じない情を抱いてから、こいつだけは手放さねぇと、無意識化で思っていたのだろう。
――だから、改めて意識した時、
「結婚、すんなら、てめぇがいい。そういう結論になった」
「なったって……」
「てめぇはどうだ?」
「……そんなこと、考えたこともねぇし……」
「じゃぁ、今考えろ。俺様以上にいい男なんているか?」
「てめぇには、いい女が、現れるかもしれねぇじゃねぇか……」
「ハッ。飯が死ぬほど美味くて、人が笑ってるのが好きで、不良らしくない気遣いできて、自分の正義があって、一緒に喧嘩して、背中を任せられて、ずっと一緒に居てぇって思う奴がか?」
「……。でてくるかも、しんねぇだろ」
「出てこねぇよ。俺様に説教するのも、らしくないことさせるのも、お前だけだからな」
「そ、それに、あんた、子供好きじゃねぇか」
「嫌いじゃねぇが、別に血の繋がりが必要なわけじゃねぇ」
「……俺なんかと一緒に居たって、何の得にもなんねぇよ」
「俺様が認めた男だぞ。最高の宝だろ」
「……」
うだうだと、言い募っていたネロは、どうしたら諦めてくれるのかとでも言うような態度だ。俺様が狙った獲物は絶対に手に入れることをすっかりと忘れている。
「それだけか? 結局、てめぇの気持ちはどうなんだ。さっきから俺がどうだとかは言ってやがるが、それはてめぇの理由じゃねぇ」
「お、俺は……」
往生際が悪いとばかりに腕と顎を掴んで上を向かせた。息を詰めてこちらを見上げるシトリンと、普段瞼に隠れて見えない夜の色。
この言葉を伝えたら、きっと否定して暴れるだろう。そう見越して、痛くない程度に力をこめる。
「ネロ、俺様の事が好きだろ?」
「なッ……。う、うぬぼれんなよ! す、好きじゃねぇよ! 俺の言うことなんて聞いてねぇし、すぐ無茶するし。てめぇなんて……」
「『てめぇなんて?』」
「た、タダの幼なじみの腐れ縁で……」
「それで?」
「それで……」
「観念しろよ」
想定通りに暴れる手を押さえ込み、次第に小さくなって行く声に、駄目押しとばかりに耳元で囁けば抵抗が完全になくなる。認める気になったのだろう。
ゴンッと、音のしそうな強さで胸におでこが押しつけられるのと同時に、消え入りそうな小さな声が聞こえた。
「嘘だ。すきだよ、バカ」
「俺も、好きだぜ、ネロ」
自然と口角が上がるのは、きっと想像以上にその言葉が嬉しかったからだ。確信はあっても、直接聞くのはまた別なのだと、実感した。
この腕の中にいる、臆病で純粋で真っ直ぐなのにどこか素直に感情を出せないこの男と、一生を共にするのだと、己に静かに誓った。
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「なぁ、結婚、とか、マジで言ってんの?」
「そりゃ、まぁ。目に見えるものがねぇとてめぇ、しなくていい心配しだすだろうが」
「……」
図星だろう。このまま付き合うだけで、内縁だなんだと曖昧な関係でいれば、結婚はしていないのだからと、どこの誰とも知れない女との関係を想像して勝手に不安になる。ネロはそういう奴だ。と言っても、これも気休めで、この国で同性同士の結婚は厳密には難しいのだが……。
まぁ、交際ゼロ日で婚約。というのも、世間的には珍しいことではあるし、こいつが何も気づいていないのなら、問題はない。余計なことを考えて、思い直す前に、行動あるのみだ。
「指輪、買いにいかねぇとな」
「……そんな金ねぇぞ」
「心配すんな。そんくらい賞金で充分足りる」
「賞金って、おまえまた地下に行ったのか⁉」
「そんな怒んなよ。楽勝だったって」
「そんな問題じゃねぇって!」
「あ、ついでに式も挙げようぜ」
「へ? 式?」
「結婚式場は一年前から予約するのが常識だってよ」
「なんでそんなこと知ってんだよ」
「さぁな」
これからの二人の人生を祝福するかのように、窓の外には大きな虹が架かっていた。 終