ご褒美にもほどがある※
遠くで誰かが啜り泣く声がする。
……誰か、じゃない、雲さんだ。そして声は遠くじゃなく、どうやら私の耳元で聞こえていたらしい。重い瞼をこじ開けて最初に視界へと飛び込んできたのは、春の雨のような、優しい桜色の髪。
「雨さん!」
「……くも……、」
「よ……かったぁ! このまま起きてくれなかったらどうしようかと思った……」
ごめんね、ごめんね雨さん。苦しげに細められた眼からぼろぼろと涙が溢れる。私の唇にぽとりと雫がおちた。淡く温くて、少し塩からくて、……雲さんの味だ、などとぼんやり思う。
あぁ、そんなに泣かないで、雲さん、
「すみません……私は、どれくらい……?」
「あ……半刻くらいかな、まだ真夜中だよ」
日付が変わる前、雲さんに抱かれた。
いつものように江の仲間たちとれっすんの反省会をしたあと、雲さんと一緒に小腹を満たしに厨に向かい、そこで遭遇した大典太光世と鬼丸国綱に夜食の焼きおにぎりを分けてもらい、部屋に戻って、そういう雰囲気になりーーそこから先の記憶は飛び飛びだ。ただ昨日の雲さんはどういうわけかいつもより意地悪で、私が気を遣る寸前で触れるのをわざとやめてしまう、それが何度も何度も続くので体ぜんぶが切なくてたまらなかった、ことを覚えている。我慢できず私が子供みたいに泣き出すと、雲さんはもっと意地悪になっていった。まだ彼を受け入れたことのなかった奥まで、入ってこようとして、私はくもさん、そこはいやです、こわい、ゆるしてくださいおねがいします、と泣きじゃくってしまったこと、……忍にあるまじき自分の醜態などより、雲さんの声や表情を思い出させてくれればいいのに。
少しため息をつきつつ体を起こした瞬間、ふらりと眩暈をおぼえたけれど、情事のあとにつきものの濃密な熱っぽさはあまり感じなかった。涙やら何やらでぐちゃぐちゃだったはずの顔も、汗まみれの体もきれいに清められ、糊のきいた新しい浴衣を着せてくれてある。……くもさん。彼の傍らの手桶の縁に掛かっていたのは、雲さんお気に入りの芝犬柄の手拭いだ。現世土産に買ったままずっと眺めるだけだったのに、私の汚れた体を拭くのに使ってしまったのだ。……雲さんが泣いているのは、まさかそのせい、ではないですよね?
「着替え……ありがとうございます。あの、雲さん。どうして……」
「本当にごめんなさいっ」
「雲さん!?」
「言い訳はしません。ごめんなさい、俺、雨さんにひどいこといっぱいした」
「やめてください、雲さん」
畳に額を擦り付けようとする彼の肩を慌てて掴んだ。
わけが分かってほっとしたのと、どうしてそんなことで泣くのか、訳が分からないのとで少し混乱してしまう。謝らなくていいのです。だって、貴方から欲をぶつけられるのも、ひどくされるのも本当はいやじゃない。そもそも私は貴方がするすべてのことを、最初から全部許している。この身を得て、本丸で仲間たちと暮らし、風の匂いを知った、花の色を、光の色を、水の味を知った、おいしいものを食べる幸せを、お風呂の気持ちよさを、雲や雨ひとつにも数え切れない彩があることを覚え、たくさんの季語を得た。けれどその影でたしかに息づく、時にままならない心やからだのことをおしえてくれたのは、他の誰でもない、貴方なのですから。
……などということを伝えるのに、まだ思考のまとまらない頭では上手に言葉を選べる自信がなかった。雲さんに届ける言葉がいい加減なものになるのはいやで、今は、……とてもとても、きもちよかったです、とだけ、吐く息とともに口にする。雲さんは大きく目を見開き、うわずった調子でいやっ、あのさっ、と両手をばたつかせた。身じろぎした拍子に彼の脚が手桶にふれ、常夜灯を映して光る水面にちいさな漣が生まれる。その漣に乗ってゆらゆら、薄紅の花びらが踊っているのは、彼から生まれたものだろうか。あるいは私から、生まれたものかもしれなかった。
「それは、すっっっごく嬉しいんだけど……ね?でもやっぱ、最低だ……ごめんなさい。あんなに泣いてる雨さん初めて見たのに……お腹、痛いでしょ……」
まだぐすぐすと鼻を鳴らしながら項垂れる彼の頭に、しおしおになった犬の耳が見えるようだ。あぁ愛らしい、愛しい、ぎゅうっとこの腕に閉じ込めて愛でたい、あれだけしたのにまた、腹のなかに彼が欲しい気持ちがじんわりと湧きあがる。はしたない犬だ、もっともっと貴方に躾てもらわなくては。
大好きな雲さん。
私は五月雨江。刀として長く生きてきた身ですので、たぶん貴方が思うほど、壊れやすくも無垢でもないです。
「わかりました。……では、許すかわりにひとつ……私と約束してくださいますか」
「約束?するする、なんでもしますっ! ……あ。でも……二度と雨さんの半径1メートル以内に近づかない約束、とかは勘弁してほしいかなぁ……」
私は布団に手をついたまま身を乗り出し、すこし不安そうに眉を顰める雲さんの耳元に唇を寄せた。他の誰が聞いているわけでもないのに、……だってそのほうが、忍、らしいでしょう?
「明日、雲さんが出陣のとき……私はお弁当を作ります」
「へ。お、べ……んとう……?」
「それを、必ず残さず食べてください。……約束ですよ?」
小指を差し出す。雲さんはへらりと顔を綻ばせ、自分の小指を絡めてくれた。それはとても温かくて、そこには生きているものの強さと弱さがあって、なんだかひどく胸が疼いた。もう少しまともに頭が働いてくれたら、一句詠んでみたいところだった。
「というか、雨さんが作ってくれるの?それってただのご褒美じゃ……」
「さあ、どうでしょう」
「ぇ、もしかして地獄のハバネロもりもり弁当とか?!お腹がしぬやつ……あっでも、がんばります、もちろん……」
「ちがいますよ。……開けてのお楽しみ、です。わん」
「わ……わんっ!あーもう、雨さん大好きぃ……」
……明日のお弁当はご飯の上に、貴方の髪とおなじ色をした桜でんぶで、大きなハートを作ろうと思います。刻み海苔でえるおーぶいいー、のおまけつき。このような弁当をヒトの世ではアイサイ弁当、と呼ぶそうですが、仕事に持ってくるのは少々はずかしいものだとも耳にしたので……これで少しだけ意地悪のお返しをさせてくだされば、私はもう満足ですから。