「ごめん!!」
退屈な授業が終わり、お弁当を食べようと学校全体がザワつく昼休み。窓の外は晴れ渡っている。そんななか、場違いにも思える謝罪と、勢いよく手を合わせる音が響いた。
「えっ、と?」
「ごめん杠!ごめん」
深く頭を下げ謝り続けているのは、杠と呼ばれた少女の友達のようだ。今にも泣き出しそうな様子に、困惑しつつも杠は優しく声をかける。
「落ち着いて、ね?怒らないから」
「うわ〜ん!女神か杠〜〜!」
「わお」
タックルとも形容できる勢いで抱きついてきた友人を危なげなく受け止めながら杠は苦笑した。少しは落ち着いてくれたようだ。
「それで、どうしたの?」
「うん…あのね、杠がくれたうさちゃんがね、その……」
話しながらじわりと涙が滲み始める。杠が大丈夫だよと優しく笑いかければ、震える手でカバンから小さなうさぎの人形を取りだした。
手のひらサイズのそれは、腕と思しき部品がちぎれていて、心做しか人形の顔も悲しそうに見える。
「ごめんね!ホントにごめん!!ウチの猫が勝手に遊んでて…っ」
「わおわお、痛かったねぇ」
眉を寄せながら、人形をそっと撫でる杠。ついには耐えられなくなった涙腺が決壊したようで、友人はポロポロと泣き始めた。その手から優しく人形を受け取った杠は再び大丈夫だと笑いかける。
「幸い治療道具は持ってます!すぐ治せるよ」
言いながら針に糸を通し、直ぐに手を動かし始めた。その鮮やかな手さばきを友人は泣くことも忘れて食い入るように見つめている。
数分もしないうちにくっついた腕にお礼を言おうと口を開いた友人は、けれどすぐに閉じる。取り出した無地の布をザクザクと迷いなく切り出したからだ。型紙も無いのに正確に切り取られていく布は、小さなベストに早変わりする。まるで魔法のようなその手技に友人は釘付けだ。
「はいっ!オペ完了です!」
「わぁぁあ!!ありがとう杠先生〜!とっっっても可愛い!」
きゃらきゃらと楽しそうに笑う友人を優しく微笑み見守る杠。楽しそうな声につられたのか、更に友人が集まって人形を愛でる。
ふと杠が教室の入口へ目をやると、手持ち無沙汰そうにこちらの様子を伺っている特徴的な2人がいることに気づいた。友人たちに声をかけお弁当を片手に駆け寄る。
「お待たせしましたっ!」
「全然待ってないぞー!!」
「…良かったのか?」
紅い瞳がきょろりと友人の方を見ながら問うてきた。普段は傍若無人な態度の彼だが、こういう細かな気遣いができるのだ。杠はそんなところも好ましいと思っているし、もっと周知して欲しいと日頃から考えている。
「今日は2人と約束してたから良いの。…千空くんは私と食べるの、嫌?」
ことり、と首を傾げた杠に向いた紅い瞳が細められた。彼──千空は小さく首を振る。
「じゃあ早く行こ?大樹くんも!」
元気よく呼ばれた巨体、大樹も大きく頷き3人は歩き出した。常日頃からそうであるように自然と千空を真ん中にして、屋上へ向かう。
杠は可愛らしいランチバッグ、大樹は大きな紙袋、千空はコンビニの袋を片手に取り留めもない会話をして歩を進めた。屋上扉を開きいつもの場所へ腰を下ろす。そこでふと会話が途切れた時、千空が口を開いた。
「テメー、嫌なこととかねぇの?」
「へ?」
「〜いや、…わり、なんでもねぇ」
ふぃと逸らされた紅に、杠が慌てて思考を回す。嫌なこと、とは、さっきの人形の話だろうか。確かに壊れているのを見て悲しくなったが、友人の方が悲しそうで傷ついていて、大切にされているのが伝わったから嬉しかったくらいだ。
それをそのまま伝えるか悩み、問いへ答えようと考える。家族との別れ、友人との喧嘩…どれも嫌で悲しいが必ず経験するもので、感情に振り回されながら相応の覚悟と対応はできるだろう。
ではそれ以外、と考えて1つ浮かぶ。
「……千空くん」
「ん?」
「あ、えっと、嫌なこと…なのかな、わかんないけど」
でも、と言葉を切って柔らかい光を宿している紅い瞳を正面から見つめる。
「千空くんを悲しませる人がいたら赦せないかも!」
そう言って口角を上げた杠の目は、少しも笑っていない。きょとんと数秒幼い顔でフリーズし、千空は頬をひきつらせた。
それまで会話に混ざれず目をウロウロさせ始めた大樹にも満面の笑みで同じことを言っている。じわじわと熱が集まる耳を誤魔化すように、千空はエナジードリンクの栓を開けた。
シュルリ、しゅるり、布の擦れる音が狭い部屋に響く。所々赤く染まったそれを脇に置いて、真新しいものを取りだした。
「ちょっと染みるよ」
「…、っ」
予め用意しておいた消毒液を未だ塞がりきらない傷にかける。ぎくりと強ばった身体と眉間による皺が、彼の苦痛を知らせていた。鼻の奥がツンとして、慌てて首を振る。泣きたいのは自分ではない。
ほぼ全体重をかけているだろう彼を難なく支え、更には心配もしている幼なじみを見て気を紛らわす。少しでも早く終わらせるために、包帯を巻くスピードをあげた。
「はい、終わったよ!」
「うおお大丈夫か千空ー!!」
力みすぎていた身体が弛緩し、小さく息を吐いて。握りしめていたらしい背もたれがわりの幼なじみの服を離して力無く笑う姿が、どうしようもなく悲しかった。
「ありがとな杠」
「これくらい任せて!」
はだけさせていた衣服を整えながらふと気づく。形のいい唇に血が滲んでいた。軟膏を取り出し薬指で掬うと、細い顎をとりこちらへ向かせる。
「なに…」
「唇、切れてるよ?このままじゃ痛いからお薬塗ろう」
「また噛んでたのか?もうしないって約束しただろ」
雑頭やデカブツと呼んでいる幼なじみに叱られながら大人しく手当を受けている彼を見たら、普段一緒にいる仲間たちは目が点どころではないだろうな、と優越感に頬が緩む。それだけでは誤魔化しきれない悲しみと怒りに、今度は苦笑が漏れる。
真白い包帯の上から傷に触らないように撫でた。きょとんとした紅い瞳は今朝見た夢と変わらない。そんな些細なことに救われた心地になって、思わず言葉がこぼれた。
「半分は冗談のつもりだったんだけどなぁ……」
「なにが?」
こちらを向いた茶と紅が同じ色をしていて吹き出した。大きく瞠られた目になんでもないよと震える声で応えながら、滲んだ涙を拭った。
彼がどうやって戦って、どのようにして決着が着いたのかを知る者は少ない。当事者である彼は語ることをしないから全容が分かることは無いだろう。彼が集めていた破片を組み立て起こした船長から掻い摘んで聞いただけでも竦み上がるほど恐ろしかった。
非戦闘員で自他ともに認めるミジンコの彼が、常と変わらない顔で笑っていることにどれほど安心したか、きっと彼は分からない。
安心した自分に腹が立っていることも、彼が知ることは一生ないのだ。今なお石化しているあの男が許せないのは勿論のこと、不可避だったとはいえ、彼ひとりを残して暗闇にのまれた自分が何よりも赦せなかった。
自分を責めたって変わらないことは理解している。誰かに話すつもりも、共有するつもりもない。私だけが心にとめておけばいい。
この安堵も怒りも愛おしいものでしかないのだから。
「杠?」
ぼんやりと考えているうちに、俯いてしまったようだ。切り替えるように2度頬を叩いて顔を上げた。真正面から見た紅い瞳は、柔らかい光を宿している。
これはきっと分かってるなぁ。聞かないということは私に任せるということだ。彼からの信頼ほど力になるものはない。
彼をひとりにした事実は覆らないし、悔いたってどうにもならない事だ。ならば次に繋げよう。彼をひとりにしないように。彼を追い詰めるものがないように。彼が、悲しむことのないように。
幼なじみに顔を向ければ、しかと頷きが返ってきた。そうだね、私だけじゃできないけれど、あなたと2人で…仲間を頼って。この最愛を二度と傷つけてしまわないためにできることを探していこう。ひとまずは、この怪我が癒るまで。
いつもより白い頬を撫で、うっすらと浮かぶ隈をなぞる。猫みたいに目を細めて頬を擦り寄せて来るから愛しさばかりが募った。
「……千空くん」
「ん?」
「愛してるよ」
「は、」
「…あっ!」
急激に顔に熱が集まって変な汗が流れていく。愛しいなぁかわいいなぁと思ってたら本音がポロッとでた!脳直すぎるよ!!
両手で顔を隠しながら言い訳を考えている横で幼なじみがオロオロしながら彼を締め付けたらしい。
「ぐぇぇぇ苦しいデカブツ!!おい!死ぬ死ぬ死ぬ!」
「ゆ、ゆずりは…あい、あ、あいし……???」
「そういうんじゃねぇよな!?なぁ杠!頷いてくれ頼むこのままじゃ全身砕ける!!!」
先程とは打って変わって必死に助けを求める彼に頬が緩む。丸見えの耳も項も真っ赤になっていてさらに笑みが深まった。幼なじみも動揺しながら力加減はしているようでそこまで苦しそうでもない。
わちゃわちゃ絡んでいる2人はそのままにしておいて、使った道具を片付ける。ひとつずつ丁寧に、きちんと閉まっているか、傷がついていないかを確認しながら箱に収めていく。
「っ、大樹! いたい」
「すまん千空!!大丈夫か!?本当にすまん!!!」
「いいから落ち着け、な?杠もそういうつもりで言ったんじゃねぇから」
「おう……」
たとえ彼を落ち着かせる目的であっても、落とされた言葉に嬉しくなる。勿論心配はあるが。
日頃弱音をはかない彼が素直に痛いと零してくれた。それは信頼の証のようで、何度聞いても喜びを感じてしまう。
初めて聞いた時は信じられなくて何度も確認してしまったほどだ。普段ニコニコしている幼なじみにも逆に心配されてしまった。その反応に羨ましく思ったりもしたのが遠い昔のように感じる。
「嘘じゃないよ」
発した言葉が思ったよりも大きく響いた。こちらを向いた紅を真っ直ぐに見返す。数秒固まっていた彼が素頓狂な声を上げるのにさらに笑う。
「は?」
「やっぱりそうなのかー!?!?!?」
「千空くんのこと、この世の何よりも愛してるよ。千空くんの為なら何だってできる」
「むっ!それなら俺もだー!!!愛してるぞ千空!!」
こぼれ落ちそうなほど見開かれた紅が、きらきらと輝いている。宝石のようなそれが長い睫毛に隠されてしまってもったいないと思う。それでも、じわりじわりと染まっていく頬も耳も見えていて。
「……俺も」
なんて、小さく零された言葉に緩む頬が止められない。愛しさを感じるままに、彼の痩躯を抱きしめた。
もちろん、傷に触らないようにだけれど。