消毒の匂いが満ちる部屋に微かな呼吸音が響く。入室できる人間が限られたその場所へ、初めて足を踏み入れた。なるべく音を立てないよう気をつけていたつもりだが、もともと深くは眠れていなかったのだろう。酷く虚ろな紅が緩慢にこちらを向いた。
「…だ、れ」
「俺だ。龍水だ」
「……りゅ、す…い」
幼い口調での問いに顔を近づけて答えれば、へにゃりと笑った。微かに動いた左手をそっと包み、血の気の感じられない頬を撫ぜる。柔らかく細められた瞳は許容だ。どうしようもなく愛しさが募る。
「飛行機完成の目処が立った」
「…そ、りゃ……良かっ、た」
呼吸が乱れるせいだろう。不自然に途切れる言葉は確かな喜色に染まっていた。どんな逆境でも口角を上げるこのこどもが、なによりも頼もしく、なによりも大切で。触れる指先は凍えるほどであるのに、やわい頬は熱かった。
今更恐ろしくなって目をそらす。撃たれた直後の虚勢は、この部屋に踏み入れた瞬間から霧散した。ゲンの策略虚しく、視界の外で響いた轟音は今でも耳にこびりついている。
震えを誤魔化すように、触れる左手を握りしめ額に当てた。少しでも温もりが移ればいいと、祈るように目を閉じて。
「…す、ぃ」
「なんだ?」
掠れた声で、思考を切り替えた。殊更優しく問えば、殆ど力の入っていない身体を起こそうとしているのが分かる。手を離しすぐさま背中を支えた。安静にしていて欲しいのは山々だが、千空の頭脳を借りなければまかりならない事が多すぎた。視線を逸らした先で眉間にしわが寄る。
頬に、ひやりとした感触。ついでグッと引き寄せられた。目に映ったのは、強い光を宿した紅玉。
「目ぇそらすな。こっちみろ」
苦しそうに脂汗を垂らしながら、それでも強気に笑ってみせる。両の頬から伝わる冷たい、けれどしっかりとした力は、千空が確かに存在していることを知らせていた。
「……大丈夫だ、りゅうすい。ちゃんと生きてる」
掠れながらも途切れることなく伝えられた言葉が。ぎゅうと抱き寄せられ、耳に押し付けられた胸から伝わる鼓動が。
───生きているのだと、証明していた。
重症人であることを言い聞かせながら、その細い背中に腕を回す。熱のせいであろう温もりと、とくとくと脈打つ心臓を感じる。漸く実感できた最愛の生に、不覚にも前が滲んだ。
「……千空」
「どうした」
「千空」
「おう」
何度も、何度も名を呼ぶ。その度に返ってくる小さな返答がなによりも嬉しかった。
さすがにこれ以上はマズイと理性が警鐘を鳴らし始めたところで痩躯をベッドに戻す。先程よりも悪くなった顔色に罪悪感が募る。それを大きく上回る喜びを噛み締め、笑った。呼応するように千空も笑う。
これ以上ないほどに精神は安定している。肉体のコンディションも万全だ。覚悟はとっくに決めてある。飛行機に関しても、即席とはいえ最愛と仲間の努力の結晶だ。微塵も疑ってはいない。
「操縦は任せたぜ、神腕船長?」
「ふぅん、誰にものを言っている」
決戦の時は、刻一刻と迫っていた。