アフタートーク 見慣れない演劇を眺めてみたはいいものの、流れの剣士であるヨルンには”正直あまりよく分からなかった”というのが感想で。それらを理解できないことにちょっとした歯がゆさを感じたせいで、むしろ気分が悪かった。普段ならば絶対に足を踏み入れることはない世界に迷い込んだようなものだ。落ち着かなさにさっさと席を立って劇場を出ようとしたときに、ヨルンはふと馴染みのあるものを見かけ、足を止めた。
……ヨルンにはそれが何なのか、すぐに認識することができなかった。否、認識はできていたがどうしてそれがこんな場所にあるのかが理解できなかったのだ。
それは、劇場に飾られた花々や行き交う人々の香水の中に……嗅ぎなれた血の臭いが、さも当然のように人の姿をして歩いていたのだから。
「君は、自らが見たものを信じるかね?」
演者たちにとっての神、名声の覇者、大陸一の劇作家。殺人者アーギュスト。
派手な身なりのその下どころか外套の様に血と死を装飾に纏う──少なくともヨルンが知る中では最も人間臭く、そして人の■しさを教えてくれた男だった。
*アフタートーク。
「……、」
「きみなら来ると思ったよ」
「だから厭なんだ」
辺獄、名声の領獄。舞台の上では誰とも知れない救世主の寓話が語られているその真っただ中、席の末端から手招くアーギュストの呼びかけに答えたことをヨルンは後悔していた。
ヨルンは舞台と目の前を交互に見やる。舞台の上にはアーギュストが寓話を語り続けている、そして目の前にも優雅に席に構えたアーギュストがいる。アーギュストが増えている、今に始まったことではないのだがその光景は異様だ。
おいで、と子どもを呼ぶように彼は手を差し伸べる。
ヨルンは席に着くことを躊躇い……ほんの少しだけ迷ったが、結局彼に促されるままキープされていた観客席に腰掛ける。位置が悪いのだろう、舞台の様子はあまり伺えない。安い席であろうことは分かったが、少なくともあの日の劇場よりかは居心地が良い。
寓話の語りだけが聞こえてくる、しかしヨルンは舞台上のアーギュストに違和感を感じていた。あのアーギュストが語る劇だというのに微塵も心が動かないのだ。何かしらの意味が込められているだろうことは読めるというのに集中できない、それは確かにあのサザントスの数少ない悲鳴であることも理解できていたはずなのに。
「……貴様の出番じゃないのか?」
出来ることならこの隣で詰まらなさそうにしている男に自ら話しかけたくはなかったのだが、ためらうよりも先に言葉が出てしまっていた。するとアーギュストは見るからに喜ばしいといった表情を露にし、すぐさまヨルンは己の声を恨んだ。あぁこんなところにまでやってきたというのにバカなことを繰り返している、あの日の己たちと同じように。
「あれは代役だ。まぁ、あれも私だがね。きみこそあのような茶番、見ていられないだろう?」
「やはり貴様の脚本ではないか。変だとは思ったんだ、どうして変なのかは……分からないが」
「言いたくないの間違いだろう。恥ずかしがらなくていい、私ときみの仲だ。さぁ……どう思った?」
「……、」
アーギュストの骨の様に細く白い指先が、閉じかけた口を遮るように喉を伝う。人の急所であるその筋を愛しい愛玩物のように触れるアーギュストの行動に、扇情さよりも大きく上回って寒気がした。題材を目にしたときのアーギュストの目とは、つまりそういう方向性の欲求が瞳の形に凝縮されたものである。
不快さに顔をゆがめたヨルンはアーギュストの手を振り払った。死んだ人間にとやかくいうつもりはないが、いくらなんでもそういった目を生きた他人に向けるのはどうなんだと。
「くたばれこの変態劇作家野郎。貴様の悪癖に人を付き合わせるな」
「マーヴェラス! きみの奥ゆかしさは美点だよ、ヨルン」
あぁ何を言っても通用しない。死んでも治らないということは、もうそういう存在なのだろう。期待するだけ無駄だとヨルンは己に対してため息をついていた。
……ヨルンにとってアーギュストとは、己の中の破綻を……殺人者としての側面が彼の言葉で引きずり出してくる嫌な人間だった。しかしそれをヨルン自身が明確に理解しているわけではなかった。人を殺した人間は必ずどこかが破綻する、そしてその破綻を己自身が理解できなくなる。その認識できない破綻箇所に触れられる感覚は決して気持ちのいいものではなく、ただ理解できない不快さだけが感情を揺らすのだ。
「退屈か? 拙い寓話の読み聞かせも悪くはないが、刺激が全くないというのも良くないな。ここは別の話をしよう……と、言いたいが生憎なことストックがなくてね」
「あれだけやっておいて……?」
「ここは題材探しに適さないのだよ」
「……あぁ、みんな死んでるからか」
「正解だ。やはりきみとは話が合う」
「……。」
答えるんじゃなかった。
生前のアーギュストと会話したことは殆どなかったが、やはり好かないというべきか。出来るだけ話していたいとは思わないような人間だ。もう黙っていようとヨルンは意地になって口を閉ざす、その子どもじみた意地も長くはもたないことを知りながら。
「きみの話を聞かせてほしい。きみは私の劇に快く乗ってくれたが、その本音を私は知らない。聞かせてはくれないか? きっと良い刺激になる……」
──それも理解しながらアーギュストは煽るように物語を……刺激をせがむ。彼がこの提案を断ることが出来ないということも、すぐではなくとも二つ三つ先の台詞で承諾することも、アーギュストにはよくよく分かっていた。予想のできる会話というものは本来退屈なものだが、本当の期待通りの言葉を投げ返してくれる存在というものは退屈よりも心地よさが勝る。
──劇作家は、制御できない期待が手の内にあることに何よりも安堵する生物なのだ。
「……、」
──意地になって口を閉ざしたヨルンはアーギュストの誘いから目を逸らすように寓話を見やる。しかしその内容は毒にも薬にもならない退屈なものだ、すぐに他に目移りしては落ち着かないように顔を背ける。
「聞かせてくれたらここを通してあげよう。雇い主にはきみを通すなと言われてはいるが……何、うまくやるのは私たちの専売特許だ。何も難しいことはない、きみの思うままに動いてくれればいい」
──わかりやすい報酬をちらつかせる。彼はあまり文学や芸能に触れてこなかった人生だったのだろう、作家が展開するような思惑と政が複雑に絡み合う物語はとっかかりがなく難しい。だから出来るだけわかりやすい、大衆向けの物語を書いてあげた。彼のために書き出したシュワルツの復讐劇は普段の物語よりも非常にシンプルなものだった、表に出すには少々気恥ずかしいぐらい真っすぐで書き出すことも躊躇うほどのものだった。
「…………、」
──報酬に釣られてヨルンが一度だけアーギュストに目線を向ける。しかしその目は別のことを期待しているようだった。アーギュストにとってはそれはたまらなく心地のいい、期待による刺激だった。
──シュワルツの復讐劇を書きあげることは、以前からの課題だった。いつ書き出すべきかさえ迷っていたアーギュストだったが、あの目を見た途端にアーギュストはそれを書き上げることへの躊躇いがなくなった。走り出したら筆が止まらない、節が痛み爪が剥がれ指が折れても書くことが止められないほどだ。いい作家はいい読者を持つ、彼は口数は少なかったけれども、とても良くアーギュストの描く物語を読み込んでくれたのだ。
──すべて見ていた、ずっとそばで演じていたから。
「共に夢を見ることはきみと、私の……”本懐”だ……」
──きみは、離れの小屋の扉に手をかけたときどう思った? ハイネンの死に様を書き残した頁を読んで、さっさと次に進んでもよかったはずなのに、きみは続きを読むことを選んだね。あの時の表情と指の震えをよく覚えている。吐き気をこらえながらもアリッサの物語に目を通して、引き返すこともできたというのにシュワルツの誘いに乗った。
──もっと見える形で手記を残してあげればよかったと、作家としての欲が疼いた。余興で用意したものだったとしても、テキストの端から端まで咀嚼してくれる人間は多くはない。私の書いた物語は楽しかっただろうか? きみもそうだったならば喜ばしいことこの上ない。そうしてきみの言葉で私の物語をどう表現するだろうか? アーギュストの興味は尽きることはない。……文字通り、死んでさえも。
「………………はぁ。わかった、わかったから。その気持ちの悪い口説き文句をやめてくれ」
──ほら、乗ってきた。
「何を話せばいい」
「全部」
「欲張りだな」
「人は欲深くなければ生きられない生物だよ。私たちがよく知るようにね……」
口車に乗せられたヨルンは、致し方なく。本当に仕方なく……当時のことを振り返ることにしたのだ。
「……言いたくないことばかりだ」
「誰も聞いてはいないよ。捨てていくつもりで話すといい、私だけが憶えておくよ」
「出来るだけ忘れてくれ」
……盗公子の指輪を奪還するという目的はあれど、シュワルツに同情したという理由も立てることが出来たとしても。アーギュストの残した最終公演に向けての手がかりと案内状を追いかけ続けてしまったのは、結局すべてがアーギュストという男への興味が原因だった。
シュワルツの言動は不可解な部分があまりにも多いと警告を促す仲間がいた。別邸の相鍵がその辺の小屋に隠されているあたりでそれは懸念とは言えなくなる、何かがある、罠だ。シュワルツと行動すべきではないと自身でさえも訴えていた。だがそれでもヨルンはシュワルツと行動することを選んでいた。いつだって引き返せたはずだ、いつでも降りることのできる話だった。
まぁ、多分、あまり認めたくはないのだが。
「続きが、気になって」
彼の描く物語に見惚れてしまっていたのだと、思う。
悪趣味な殺人を記録した手記の頁をめくる手を止められなかったように、シュワルツの復讐劇という台本の頁をめくり続ける。初めての体験だった、そこに己が立っているのにいないような感覚。世界から切り離された場所で、他人を見ている。
……昔師匠と旅をしていたころ見かけた、子どもたちのごっこ遊びが過った。
あれは確か騎士のまねごとをしていたのだったか……当時のヨルンはごっこ遊びというものが理解できず、師匠に『あの子たちもいつか人を斬るのですか?』と聞いたものだ。師匠は首を振ってそれを否定し『あれは遊んでいるんだ。誰かになりきって、物語の中に入る。そうするとどこにいても、あの子たちは何にでもなれて、どこまでもいけるのだ』と。
あの子どもたちが何になって、今どこにいるのかを考えた。今に思えば、その遊びは楽しかった。シュワルツとの旅はそれとよく似ていたのだ。──目の前で死人が出ているはずなのに。
あの日。フランセスカの死体が目の前に転がったあの瞬間、ヨルンはアーギュストの狂気とフランセスカの愛に慄きながらも……次に何が起こるかを想像して身構えていた。
きっと、これよりもひどい何かが起こることを。
「いけないことだとは分かっていた」
「でもきみは続けた」
「……貴様と同類なのだろうな、俺は」
「誰だって同じさ。みんな刺激的なものが見たいんだ、だから劇という虚構を通じて死体を見る。そのために金だってつぎ込む。おかしいことは何もない」
この話をするのは嫌だ、とヨルンはそれを口にすることを躊躇う。両手で顔を覆い、か細く息を吐く。どうにかこの話をうまく切り上げる方法を探したが、あまり文字を書かないヨルンにはそういった気の利いた台詞は浮かばなかった。
逃げられない袋小路に追い詰められてしまったような気分だった。
……言葉にすることも悍ましい、盗餓人狩りとしては決して口にしてはいけない文字列が一つだけある。
シュワルツの復讐劇、そのラストシーン。落ちた緞帳の内側で起きた、特別席に招かれた当事者だけが目にすることが出来た最期の舞台。劇作家アーギュストの、そしてシュワルツの最後の物語。
自らが見たものを信じるか? あの時、何も考えずにヨルンは信じると答えた。シュワルツの復讐を止めるか? あの時ヨルンはシュワルツの心情を想い、止めないことを選んだ。アーギュストの手記の続きを読むか? あの時迷った、けれども指は頁を捲っていた。シュワルツと共に舞台に上がる? 目の前の敵を倒す? 戦う? 逃げる? 進む?
正体を現したアーギュストを、どうする?
「多分初めてのことだったと思う。憎しみだとか、そういう類のものではなくて。ただ……」
多くの選択の数々が、これは決して遊びではないことを突き付けられた。
己自身が選んだ果てに転がり込んできた結末は到底想像したものよりも醜くて、その醜さは己と同じ形をしていた。シュワルツの抱えるそれらに気が付けなかったからだろうか、それとも彼の願いを叶えてやりたかったのか、それよりもただただ居心地の悪いその舞台の上から逃げたかっただけなのか。
形が浮き彫りになったその破綻は、確かにあの日笑っていた。
「殺してやりたいと、思ったんだ」
彼が読み聞かせてくれた物語は──あんまりにも面白くて、愉しかったから。
だから。
人の形を失ったアーギュストの姿が、どうしようもなく、■しく見えて──……。
「……だめだ。これ以上を口にしたら……戻れなくなる……」
ヨルンは途端に血の気が引いていくのを感じ、毒でも貰ったかのように冷や汗をかいている己に衝撃を受けた。指先が白く、呼吸がうまくできない。熱にうなされるように視界がぼやけ頭がぐらつくと、それを見かねたアーギュストがヨルンの背を撫でた。
どうしようもない吐き気がするというのに、吐いてしまうこともできない感覚が肺を叩いた。
「十分だ、わが友よ。そこから先はいつかに取っておくとしよう」
「……、いつか?」
「あぁ、またいつか。きみがきみの物語を終えて、ここにやってきたら」
ちょうど寓話の読み聞かせが終わったから、とアーギュストが本筋に戻ることを促す。不快さが抜けきらないままヨルンは席を立つことを選んだ、少なくともこの席に長居はしたくなかったのだ。
「とっておきの紅茶を用意して待っているよ。新作もね」
振り返ろうとは、思わなかった。