谷底に降る。「戻る前に一つ相談がある」
そういって、彼……ヨルンはタイタス大聖堂の大広間に来るようロンドに告げた。──それは教皇さまからの後押しで選ばれし者と共に各地を巡り、フレイムグレースに向かう道中のことだった。
きっと言いづらいことだったのだろう。ロンドが約束の時間にかの場所に向かうと、彼はしばらくの間ロンドの到着に気が付かなかった。遠目から見ても大火の前に立つ彼の表情は重く、じっと手に握った何かを見つめている。
意を決してロンドが声をかけると、「あぁ、もう時間か」と彼は顔を上げた。その目は炎を目の前にしても光を通さない夜闇のように黒く、これからする話がそれだけお互いにとって重たく根深いことなのだろうことを知らせていた。
「これを」
前置きもなく彼はずっと手に握っていたものをロンドに見せる。それが赤い何かしらだと認識した瞬間、ロンドは目を見開き息を詰まらせた。
「……あの人の、髪留め。ですか?」
炎の様に赤く、血の様に艶やかな、──今は亡きサザントスを象徴する赤いリボンだった。
「いつの間にか荷物に入っていた」
「あの人らしいですね」
「はた迷惑な話だ」
全く面倒なことをしてくれる、と悪態をつきながらヨルンは息を吐く。彼は赤いリボンを手にしたまま背を照らす大火を見やり、じぃっと目を細めた。
「きっと」、彼は言う。
とても言いづらくて、それでも嘘をつけない時に出る言い回しだった。
「燃やしてくれと、そういう意図なのだと思う」
でないとわざわざ俺の荷物に入ってこないだろう、と。
ロンドは少しばかり胸が痛んだ。そのリボンが託される先が弟子であるロンドではなかったことと、不本意に処分を押し付けられてしまったヨルンのことを想っての痛みだった。
ヨルンは顔をしかめながら「奴の思い通りになることが癪だ。だが、独断で捨てるのも如何なものかと判断の迷ってしまった」と本当に確認を取るだけのようにロンドを見る。
「弟子であるロンドの意見を聞きたい」
すぐに答えることはできなかった。
ロンドがそれを処分してくださいと頼めば彼はそうするだろう、或いは別のことを頼んでも彼はそれに従ったろう。何よりもロンドに、どこかしらでそうするべきだという思いがあった。
元より自分にその資格はない。弟子という一番近しい距離にいたはずのに、師匠の……サザントスという人間の崩壊と暴走に気がつけなかったのだ。そんな自分に、そんな傲慢なことが許されていいはずがない。
理性がロンドを引きずる。やめておけ、やめておけと。預けてしまえばいい、彼もそれを受け入れるしそんなことにきっと何も思いやしないのだ。それぐらい些細で、ささやかなわがままだ。
だから、譲れなかった。
「僕が預かります」
しんしんとしたロンドの声が、確かに喉を揺らす。その答えを聞いたヨルンが、じっと見定めるようにロンドを見つめている。彼は聞いているのだ、『本音は?』と。
「……僕が、持っていたいんだと思います」
深く息を吐きながら、ロンドは大火を見つめる。聖火の蒼い火とは違い、真っ赤で大きな炎はごうごうとロンドの行く先を示すようだった。
「僕だって分かっているんです。この先、この赤いリボンは僕の足を引っ張るのだということも」
次の聖火長として期待されているロンドには、痛いほどそれがどれだけ悪手なことかも理解できていた。ロンドに注がれる目は今はこれだ。次の聖火長、サザントスの後継、”あの”サザントスの弟子。……世界に反旗したサザントスの弟子だ、信用できるのか? と。
教皇聖下や聖火騎士団長、事情を知るものたちは皆ロンドなら大丈夫だと励ましてくれるものの。それは決して拭えない不安の証明のようだった。
「サザントスさんの犯した罪は決して許されることではありません。僕が代わりに償うことも、許されないでしょう」
ロンドは、自らの意志で鉛を呑むこむような気分だった。
それはサザントス自身の罪だ、弟子だからと勝手に償っていいものでもない。個人の領分を越えた行為であることもそうだったが。
「そんなことしたら”お前は自分の人生を放棄するつもりか”ってどこかの誰かさんに叱られますし」
「そこまでのことは言わないつもりだが……」
「ほんとに?」
「……すまない、おそらく言う。もっと性悪な言い方をする」
「怖いなぁもう! ありがたいですけどね!」
お互い、本当によく分かっていた。ロンドがそうすると決めてしまったなら、それをよしとしたならば。ロンドがロンドでなくなるまで償いに身を投じ壊れるまで戦うだろうことを。
だからそれはできない。そうすることで哀しむ人たちがいる、そうすることで助けられなくなる人たちがいる。それはロンドがそう判断するに足る十分な理由だった。
自分のやりたいことを望むほどに、それと同じぐらい自分がやってしまいたいことが縛られていく。あちらが立てばこちらが立たず、なんだか自分で自分の首を絞めている気がしてくる。
「……難しい話ですよね、本当に」
「だが忘れていいものでもない」
「えぇ、これは聖火教団で背負うべき罪です。それに」
胸の内をこれ以上なく焼いたあの青い炎が、昔日と共にロンドを呼び戻す。
「僕が、忘れたくない……」
命を救ってもらったあの日、美しいものを見たあの日、夢を見つけたあの日。歩きたいと心の底から叫ぶ道を見つけた日。
僕はあの日、未来と目が合った。
あの日の衝動と熱を忘れたくないのだと心臓が叫んでいる。それでも僕はあの方に焦がれ、あの方のようになりたいと願った。あの日の価値は決して穢れず失われることは永遠にない、誰が何と言おうと決して譲るものか。あぁそうだ、サザントスさんにだって言わせない。
僕にとってあの出会いは、何があろうと、決して、間違いではなかったのだと。
「そうか」
意地を張るような噛み締めるような言葉を聞いてか、ヨルンはどこか呆れたような安心したような表情をしてみせた。”お前がそう言うんだったら誰にだって止められないな”となんだか嬉しそうに微笑んで、ロンドに赤いリボンを突き出すように差し出した。
「なら、お前の言うとおりこれはお前の足枷になるだろう。お前を偏見の目で見るものも、きっとこれから先増えていく。お前が功績を積むたびに、前に進もうとするたびに、それは何かとお前の足を引っ張るはずだ」
”それでもいいんだな”と、念を押すように彼が問う。
「……はい。それでも僕は、これを背負いたい」
ロンドは確かに頷き、赤いリボンを受け取った。そのリボンはあまりにも軽く、吹けば飛んでしまうほどありきたりなものだった。
「僕はこれから先もサザントスさんの弟子で、それと同時に皆のための聖火守指長になっていく。──僕の欲のために何かを犠牲にすることもあるでしょう。僕の存在がために、誰かが無辜の民に犠牲を強いることもあるでしょう。きっと沢山の願いや欲が、そうあれかしと僕を引っ張るのでしょう」
これに重たさを感じるのはきっと錯覚で、ロンドの心が生み出す欲そのものだ。
サザントスが黒ずむほど焼かれ焦げ落ちた欲望の谷底を歩くには余計なものなのかもしれない。多くの欲がロンドを焼き、いつかこのリボンを受け取ったことを後悔してしまう日だってやってくるのかもしれない。
けれども、その杞憂でさえロンド自身の宝物だ。
「この欲望の使い方は、僕が決めます」
欲の谷底に降りよう。
欲に塗れ、欲を制し、欲の骸の上を歩こう。積み重ねた罪悪と罪業の道は果てしなく暗く醜いものだろうけれど、谷底から見える星々はそう悪いものではないことをロンドはよく知っている。
「全てを見届けるつもりです。聖火のように、貴方が示してくれた星のように」
宣言というよりも、それはどことない諦めのような音だった。しかしロンドはそれを悪いものだとは思わない、これはいわばなんてことない……ただ一歩進んだだけのことなのだ。
踏み鳴らされた雪道のようなロンドの言葉に、ヨルンもまたどこかまんざらでなさそうな、それでいて憐れむような表情を見せる。それは彼が本当に本当に身内と認めたものにだけ見せる信頼そのものだった。
「好きにしたらいい。どうせいつか俺たちは同じ場所に行きつくだろうしな」
「先に行っちゃ厭ですよ。僕の後始末を貴方がするのが今のところ一番都合がいいんです、絶対逃がしませんからね」
「やれやれ、お前も言うようになったな」
”えへへ”とわざとらしく照れると、ヨルンは揶揄うように苦笑しては「おかげでもっと西方に逃げたくなってきた」とまたまた冗談じゃないことを言いながら肩をすくめてくれるのだからロンドも頭が痛いもので、それは困ります!とじゃれつくように声を上げた。
「だーめーでーすー!! せめてあと半年はいてください! その間に色々整えますから!」
「色々?」
「貴方を聖火教団に突っ込む準備です」
「すまない、隠居先はヴァローレにするって決めてるんだ」
「副業……!! 副業でいいですから……!! あぁ待ってください! ヨルンさん!! フレイムグレースも悪くない土地ですよ……!!」
手ひどいことを言い合いながらロンドとヨルンはタイタス大聖堂を後にする。守る側のことも考えてくださいと駄々をこねながら、旅する側の都合も考えてくれと駄々をこねられながら。わがまま同士雪でも投げ合う様に踏み固められた雪道を歩いていく。
そのうち本当に雪を投げ合って、お互いこどもみたいだと笑いながら歩いた。その道の先に何が待ち受けていようが、その道を歩いた時間が楽しかったことには変わりない。
その一瞬一瞬を自分は大切にしたいとロンドは胸に焼き付けつつ、笑いながら地獄へと続く門を潜った。