待ちあわせ - 後編 十九時という時間帯が夜と感じなくなったのはいつ頃のことだっただろうか。
子供の頃は夕焼けに染まる空を見て『もうすぐ夜だ』『帰ろう』と家路を急いだはずなのに、今では十九時を示す時計を見ても『まだ十九時じゃないか』と安心すらしてしまう。街中の明かりだって、十九時に消灯するようなところはそうそうなく、むしろ行き交う車のヘッドライトも街灯も、これからが本番だろうとでも言いたげに辺りを眩く照らしていくのだ。
だが、それはあくまでも街中での話だ。店の明かりとも車のライトとも無縁であるここ、高専に来てからというものの、伏黒の中の『昼と夜の境目』はまたも幼い頃まで戻っていくようであった。陽の高いうちに呼び出しを告げる携帯電話。焼けるような日照り、無人の待ちあわせ場所。遅れてきたその人はいつだって余裕そうな笑みを浮かべて、幼い伏黒をコテンパンに叩きのめしてきた。
『はい! 今日はここまで』
『っ、やだ! 次は絶対あてる!』
『ダメダメ。ほら、もう空赤いから帰る時間だよ』
『……やだ……』
『ほら、恵』
差し出された手を握ったことなんて一度もなかったが、それでも五条はいつだって楽しげに、伏黒と並んで一本道を歩いていく。そして機嫌が良い時は歌まで歌い出す始末だ。
ゆうやけ、こやけで、ひがくれて。
『カラスといっしょにかえりましょー。ってね』
『じじくさ……』
『あ? 言ったなお前!』
『っちょ、重い! 五条さん、重い!』
『はははっ!』
ふざけながら歩いて帰る夕暮れ時。それが二人にとっての一日の終わりであった。
──だから伏黒は知らない。
陽の沈んだ夜更けに待ちあわせること、その意味も、理由も。
「……なんでいるんですか」
「ちょっとー、呼び出しておいてそれはないでしょ」
「だってアンタ、時間に間に合ったことなんてないじゃないですか」
「それはほら、僕がホストだったから。今回は恵が誘ってくれたんだもん、待たせるわけにはいかないでしょ」
「な、んですか、誘ったって」
古びた街灯しか明かりのない道路沿い。高専へと続く山の入り口に立つ見覚えのある姿に、伏黒は顔を顰めながら近寄っていく。
気まぐれであった。ただの興味心と、ちょっとした期待。まさかそれが本当に五条の元に届くなんて思ってもみなかったし、言ってしまえば伏黒は今夜、念のためにここへ来たにすぎなかった。日付と時刻、明確ですらない場所の指定。自身が幼い頃に続けてきたやりとりとはいえ、五条はすっかりこんなこと忘れてしまっているだろうと思っていたのだ。だがそれでも、もし五条が待ちあわせ場所へと来てしまっていたら、こちらが不義理を働いたことになる。送ってしまったものは仕方がないのだからと、時間ギリギリに向かってみた結果がこれだ。予想外もいいところだろう。
「てか、よく分かりましたね。俺だって」
「トーゼンッ、僕を誰だと思ってるわけ?」
「いや、今日学校で会った時は何もなかったんで。気付いてないと思ってました」
「……あー、うん。あれねぇ、演技!」
「いや、絶対気付いてなかったでしょ。大方途中で思い出したかなんかですよね」
「あっはは」
楽しげな笑い声をあげる五条を冷めた目で見つつ、伏黒はその隣へと並び立つ。ようやく暑さを増してくるこの季節、まだ虫の音が聞こえるには早すぎて、ただただ静かな空気だけが二人の間を流れて行った。
何もせずに、ただ横に並び立つ。こんなに長い時間を共にしてきたというのに、そんな経験、今まで一度だってしたことがなかった。意図的でないとはいえ自身から呼び出した手前、この状況をどうしたらよいのかも分からず、伏黒は言葉を探るように視線をうつむける。
そんな様子を慮ってなのか、五条は至っていつも通りの様子で空を見上げた。
「今日ってほっとんど月見えないのね」
「え? あ、はぁ。そうですね」
「いつもこの時間に帰ってくるとさぁ、いい感じの位置に昇ってるんだよね。だから多分、新月かなんかなのかな」
「……あ、ありますよ、あそこ」
「え? どこ? ……うっわ、ほっそ」
「三日月ですかね」
「かもねぇ」
「……」
「こら、そこで会話を終わらせない」
「いや、無理でしょ」
どこかふてくされた様子で苦言を呈する五条の様子に、伏黒は思わず息を零して笑みを浮かべる。同時に全身の力がふ、と抜けていくのを感じた。柄にもなくkん超してしまっていたのだ。それがやけに恥ずかしく思え、慌てて次の会話を切り出される前に言葉を紡ぐ。
「てか、なんで解約してなかったんですか。無駄遣いでしょ」
「あーそれね。今日気づいた」
「今日かよ」
「でもいいんじゃない? そのまま持っときなよ、それ」
「いや、今は俺も携帯持ってるんでいらないんですけど」
「僕を呼び出す専用機にしてよ」
「っ……」
「また、今回みたいにさ」
言いながら笑みを浮かべる五条は、いつの間にアイマスクを下ろしたのだろうか、その類稀なる蒼玉を伏黒へと真っ直ぐに向けた。月明かりもない、古びた街灯しかないその場所で、それでも認識できるその色は、はたして本当に見えているのか、記憶の色を思い出しているだけなのか。どちらにしろ、吸い込まれそうなほど深い蒼の色は、伏黒の視線を捕らえて離さない。
「……なんで」
「ん?」
「稽古も、任務も、何もない呼び出しじゃないですか」
「うん」
「それでも来るんですか、アンタ」
「行くよ」
「なんで」
「恵が呼んでくれたから」
「……」
「それだけじゃ足りない?」
言いながらコトリ、と首を傾げる五条に、伏黒は「足りません」とだけ返す。その返事を受け止めながらも、五条はその穏やかな表情を変えることなく、次の言葉を促すようにじっと続きを待った。揺れる瞳が再び地面へと落ち、体温が上がっていく。
「だって、今まで一度もなかったじゃないですか、そんなこと」
「……」
「稽古も、任務も、何も理由のない状態で待ちあわせて、会うとか。だってアンタ、忙しいのに」
「恵」
「すみません、今回のもただの気まぐれだったんです。大掃除してたら偶然見つけて、懐かしくなって。そういえばアンタが一方的に送ってくるだけだったから、自分から送るのってどんな気分なんだろうなとか、そんな好奇心だけだったんです」
「……」
「そんなどうでもいい呼び出しに、応じていい人じゃないでしょ」
そう、それは幼いながらに覚えていた感情であった。
『僕ってあちこち飛び回ることが多いからさ、予め日時合わせて稽古とか難しいんだよね』
その時は一体何を言っているんだと思ったものだが、実際彼は津々浦々に飛び回っていたし、稽古と称して相対させられた呪霊は彼によってたった一瞬でチリとなった。
自分なんかにかまけていい人じゃないのだと、伏黒は無意識のうちに与えられたキッズケータイを自ら開くことをやめたのだ。理由があるときだけでいい、それしかいらない。だからそれ以外、何も知らないのだと。
俯けられたままの視線では、今五条がどんな表情をしているかを見ることもできない。ただ、少しの間を置いて頭上に吐き出されたため息で、大体の想像がつくようであった。だが、その後に続けられた言葉は想像もしない、予想外のものであった。
「君ってさぁ」
「……」
「つくづく面倒くさいよね」
「……ア?」
「何よ、どうでもいい呼び出しって。メール送るその一瞬、恵は僕に『会いたい』って思ってくれたってわけでしょ? それのどこかどうでもいいのさ」
「え、なんで怒ってるんですか」
「怒るに決まってんじゃん! 恵からのメールだって気づいて僕がどんだけ喜んだと思ってんの」
「は……? なんで喜ぶんですか?」
「恵の鈍チン! もう知らないっ!」
「いや、どこの女子高生ですかアンタ」
ぷい、と背けられた視線に伏黒は唖然としたままその横顔を見つめる。何もかもが分からない。いや、むしろ自身の気遣いを『面倒くさい』の一言で片されたこちらのほうが怒るべきではないのか? そう思いながらも、伏黒の目に映る五条がひどく子供っぽく見えて、自然と呆れたような笑いがこみ上げてくる。あぁ、もう。この人といるとまるで感情が整理できやしない。隠すこともなく笑っていると、五条の視線が再び伏黒へと向けられた。
「恵」
「なんですか」
「君が呼び出してくれる、それだけで僕には十分な理由になるんだけど、それじゃあ足りないっていうんだよね」
「はい」
「じゃあ、もう一つ理由を作ろうよ」
「は?」
「昼でも夜でも、それこそ二十四時の待ちあわせでも納得できるような理由」
「何言ってるんですか」
五条の言葉の意図が分からないと、伏黒は首を傾げながらその顔を見上げた。視線の先、ひどく楽しそうに笑った五条は、伸ばした右手で伏黒の頬に触れると再び「恵」と唇を動かす。
あ、と思った。耳に届いたその声色に、一気に体温が上がっていくのを感じる。慌てながら「先生」と口にしつつ後ろへと一歩、足を引いたが、五条の行動はそれよりも早かった。瞬きをする間すら与えられずに、視界が一瞬で暗くなる。
五条の影によって、街灯の明かりがぷつり、と途切れた。
ねぇ、恵。
次の待ちあわせ、いつにしよっか。