飛ばない風船 僕にとって恵は風船みたいな存在だった。
僕が空気を吹き込んで、ふわふわと浮き始めたそれの紐を指先に、手首にと巻きつける。
そうして空に飛んでいこうとするそれを地上へと繋ぎ止めながら、僕は悠々自適にこの世界を歩き回るのだ。
その紐がどれだけ長くなろうとも、木に引っ掛かろうとも構わない。
ただ、僕がこの紐の先を手放しさえしなければいいのだと。
そんなことを考えながら、僕はこうしてずっと、空の青に映える緑色を真っ直ぐ見上げ続けていたのだった。
「あっ」
少女の声が耳に届くと同時に、彼の体はぴょん、と地面から浮かび上がっていた。小さな手を離れ飛んでいってしまいそうなそれから伸びる紐を難なく掴むと、そのまま少女の元へと歩み寄っていく。そうして目の前にしゃがみ込み、紐の先を少女の手首へとちょうちょ結びにした。
「気をつけろよ」
無表情のまま告げられるその言葉は、けれど少女の表情を輝かせるには十分であった。「うん!」と勢いよく返事をした彼女の表情は、先ほどまでの曇りなど一切感じられない、満面の笑みである。
「おにーさん、ありがと!」
パタパタと音がなりそうなほど勢いよく振られた手は、僕の掌におさまってしまうんじゃないかというぐらい小さく、ふっくらとしている。なるほど、その指だと細い紐を持つのも一苦労だっただろう。隣に立つ母親らしき女性が何度も頭を下げながら、二人は手を繋いで噴水の向こうへと歩いていった。その後ろ姿をぼんやりと見つめながら、ふと僕は揺れ動く風船の姿に恵のことを重ねてしまって、結果「お待たせしました」と帰ってきた彼にそんなことをポツリとこぼすに至ったのだ。
「……はぁ?」
「え、なにその反応。さすがに淡白すぎない?」
「いや……いつにも増してわけ分かんねぇなって」
「君ってほんと、さらっと失礼なこと言うよね!」
言いながらカラリと笑ってやるが、当人は未だ顰めっ面のままこちらを見据え続ける。あぁ、別にそんな深く考えてくれなくていいのに。若干の後悔をしつつも、言ってしまったものはどうしようもない。僕は空を見上げながら「うーん」と一つ唸って、口を開いた。
「風船ってさぁ、ちょっと目を離すとあんな風に飛んでいっちゃうじゃない」
「はぁ、そうですね」
「先についた紐をずっと握っていればいいんだけど、でもそれだと風船はずっと縛られたまま、風に吹かれて気ままに飛ぶこともできないで、ずっとここに留まっていなきゃいけなくなる」
「まぁ、風船ですしね」
「ねぇ、もうちょっと情緒のある返しできないの?」
「アンタがそんな語りをすることの違和感で鳥肌立ちそうなんですよ、我慢してください」
恵の言葉に思わず反応しそうになるのを、ため息一つで押さえ込む。遠く、石畳の上を歩いていく二人の姿はもう、噴水の水に紛れて見えなくなっていた。
「僕にとっては、紐で繋がった関係が『恋人』だったんだよね」
小さな音を立て、ひゅうと風が吹き抜けていく。青々と生い茂った草木が葉同士を擦り合わせ、噴水の音と混ざり合い耳まで届く。地面から照り返してくる陽の強さも相まって、やけにそれらの光景が瞳に焼き付いてくるようだった。
「だからさ、恵が自由になりたいって言うんなら、手放して空に返してあげるべきだと思っちゃったんだよね。そのまま空に飛んでいかせて、まぁ僕はそんな君を眺めつつ、時々風を送ってやったりしてさ」
「随分と強靭な風船ですね、俺」
「そうねぇ。大気圏までいけそう?」
「焼け落ちます」
「でもさぁ、結局飛んでいかないんだもん、お前。ずっと僕の傍でぷかぷかしてるし」
言いながら視線を動かしてみると、恵は僕の斜め前に立ったまま、先ほどと変わらないしかめ面をしてこちらを真っ直ぐ見据えていた。本当に可愛くないガキンチョだ。どれだけこっちが言葉を重ねたところで自分を曲げないその立ち姿に、僕がどれだけ見惚れてきたかも知らないで。
「……傍にいるんだったらさぁ、やめなくていいじゃん。頂戴よ、僕に。ぜんぶ」
視線を合わせたまま紡いだ言葉は、きちんとこの子に届けることができたのだろうか。少しだけ見開かれた瞳の中に、反射した陽光が一筋差し込んでいるのが微かに見てとれた。その色が、光が、どれだけ美しいものなのか。邪魔なものに遮られてばかりの僕の目では純粋にそれだけを認めることは一生できないのだと思うと、初めてこの眼を呪ってしまいそうになった。
パシャパシャと水面を叩く水の音と、遠くから聞こえてくる子供達の喧騒。それらが響き渡る中で流れる沈黙を切ったのは、恵の口からこぼれ落ちた一つのため息であった。
「まず、前提が違っています。俺は風船なんかじゃありません。人間です」
「え? 当たり前じゃん。マジの話にすんなよ」
「いや、最後まで聞けよ。例え話だったとしても俺は風船にはならねぇし、誰かに手綱を握らせるつもりも毛頭ありませんって意味です。そもそもなんで風船なんですか。そんなふわふわしてるように見えますか、俺」
彼の後ろで飛び散る飛沫は、陽の光を受けてキラキラとガラスみたいに輝きをみせる。その光景に少しだけ見惚れつつ、僕は少しだけ首を傾げて「ふわふわはしてないね」とだけ口から零した。
「そもそもアンタが空気なんて吹き込むタマですか。勢いよく水を流し込むか、いっそ砂場の砂をこれでもかとパンパンに詰め込むタイプでしょうが」
「言うねぇ」
「言いますよ。アンタが紐を持っていようが離そうが、俺は五条さんと同じ地面に這いつくばってんですから」
だから、その前提を履き違えないでください。
そこまで言ってようやく、恵の眉間からシワが消えた。どこか困ったような、呆れたような表情で浮かべられる笑みは、出会った当初から時折見てきたものと同じそれであった。
「だから別に、この関係に名前なんてなくていいかなって思ったんです」
──あぁ。敵わないなと思った。
「そっか」
「まぁでも、必死そうなアンタはちょっとだけ面白かったです」
「は? なんて?」
「いや、なんでそこでキレんですか。自分のことでしょ」
「僕がこの一年どんな思いでいたと思ってんの?」
「知りませんよ。承諾したのは五条さんでしょ」
「あんなスッキリした顔で言われて断れるわけないだろーがぁ〜?」
「はは、ウケる」
「ウケねぇよ」
即座に否定した僕の正面で、恵はカラカラと声を上げて笑う。まるで彼の笑い声が形になったかのように、飛び散る水飛沫は眩しいほどに光り輝いていた。
「あげますよ、全部」
「……は」
「だから、俺にもください。全部」
傾き始めた太陽が、恵の後ろにゆっくりと落ちていく。わずかに影になった恵の顔が、それでも鮮やかに視界へと映り込むのは、ひどく胸のすく思いであった。気がつくと僕の口端も持ち上がっていて、発した声だってやけに上機嫌な色を纏っていた。
「ねぇ、それも気まぐれ?」
「さぁ。どうですかね」
「はぁ? お前、そこは否定するところだろ?」
「すみません、嘘はつきたくないタチなんで」
「っはー、もう本当、お前さぁ!」
「ははっ」
言いながらくるりと方向を変えた恵の背中に、僕は一歩二歩と近づいていく。そのまま真っ直ぐ、噴水の外周に沿うように歩いて、僕たちは少女と同じ道を辿って行った。
青く晴れ渡る空の中、先ほどまで見つめていた緑色が再び脳裏をよぎっていく。
あぁ、それでもやっぱり僕の指先は、あの風船から伸びる紐へと縋りたくなるのだと。
もうどこにも飛んでいかないようにと、彼の指先を自身のそれで絡めとった。