スワンプマンの夢スワンプマン。
とある哲学者が提唱した思考実験のひとつだ。
とある男がハイキングに行ったが、沼の側で雷に打たれて死んでしまう。ところがもう一つ雷が沼に落ち、沼の汚泥と奇跡的な化学反応をした。その結果、死んだ男と原子レベルで同一の体で、雷に打たれるまでの記憶等もまったく同じ人間が生まれた。
この雷によって生じた男をスワンプマン(沼男)と呼ぶ。
スワンプマンは死んだ男を沼へ置き去りにして、死んだ男の家に帰り、死んだ男の家族へ電話をし、死んだ男の読みかけだった本をしおりから読み始め、死んだ男のベッドで眠り、翌朝に死んだ男の職場へ出勤した。
さて、スワンプマンは元の死んだ男と同一か否か?
「……………えー………っと…つまり?」
小難しい話にナツメは長時間首を傾け、反対に傾け、もう一度傾け直してソファーの隣の座る男に問う。カブラギはナツメの長考を受けて、つまりの続きを答える。
「俺がちょうどそのスワンプマンと同じだ、ということだ」
「えー…あー…、…なる、ほど」
「わかってないな」
目がコアファイトの選手を追いかける時のレベルで泳ぐナツメを遠慮なく追撃するカブラギ。それにムッとしてナツメはどうにかわかる範囲で言葉を紡ぐ。
「ちょっとはわかりますよ〜!
アレでしょ?組長が一回、その死…壊れたから、そーゆー事を言いたいんですよね?」
「だいたいそうだ。
スワンプマンとやらは沼の有機物が雷で同一の人間に変化したという表現だが、俺の場合は復旧不可能な状態から、バックアップデータで死ぬ直前の俺と同一の記憶や人格をミナトやジルが復元したからな」
「人間の私からしたらすごい事してますよねぇ…」
「…まあ、本来はサイボーグでもタブーだが、そこは置いておこう。…で、だ。その人間のお前からしたら、今の俺は誰なんだろうな、と思ってな」
「え、あ…うーん…」
ナツメはもう一度首を捻る。捻って、今しがた聞いた話と合わせて考え直す。
確かに、ナツメは目の前でカブラギの素体と本体の死を見た。
腹を貫かれて血を噴き出した肉体の重さも、へしゃげた茶色の機体から稼働音が尽きるのも確かに覚えている。
それでありながら、3年の月日を経て当時のまま(厳密にはあの戦いの終盤の記憶はない)カブラギが帰ってきたのだ。だが、死んでしまったのと同一のカブラギではないし、本人も死んだ事あたりの事は覚えていない。ではこれはカブラギではないか?と問われると、そんなことはない、と咄嗟に答える自信がある。
「………相当ややこしい話ですよね?」
「ジルからメンテナンスがてら聞いた哲学じみた話だからな。科学理論として結論が出ない故、考え損という話もある」
「じゃあなんで聞いたんですか〜?」
「人間は、特にナツメは理論だけで生きてるものじゃない。お前の考えを聞いておきたかった」
「どーゆー感情なんですかそれは。というか私だからってなんですか???」
「さあな」
どこ吹く風で誤魔化す男の腕を右の手で小突く。大したダメージにならないだろうが、何もしないのも癪だ。
「…でもまあ、私は組長が組長だって思ってますんで。それでいいんじゃないですかね?」
「俺が昔のカブラギでなくてもか?」
「お医者さんに聞いた話だと、人間の体も5年くらいで細胞がほぼ全部入れ替わっちゃうらしいですし?あんまりそのスワンプマンってやつと変わらないんじゃないですか?」
「そういうのは…テセウスの船っていうらしいがな」
「てせうす?」
「旧時代の神話に出てくる船で、壊れる度に一部ずつ船の部品を入れ替えていたら最終的に元のパーツが一切無い全くの別物になってしまった船だそうだ」
「へー、…じゃあ、あと2年経ったら組長と会った最初の頃の私は居なくなっちゃうんですねぇ…私は何になっちゃうんでしょう?」
「いや、お前は何年経ってもナツメだろ」
「ハイ、つまりそういう事です。
私と組長も、何年経っても私と組長です」
「……………そうか、そうか」
「そーですよ。沼だか船なんだか知りませんが、世界に変わらないものなんか無いんですから、知ってるものがどんどん変わっていく事に慣れてくもんですよー」
ナツメはそう言い切ると、話はそれで終わりだと言うようにソファーの隣からカブラギの膝の上に移動してぽすんと収まった。「おい」と非難じみた声が頭上の喉から響くが、ナツメのお気に入りの場所がここなのだから仕方ない。
それに、カブラギは難しい表情をしつつ自分を本気であしらったりしない。そこは3年前と変わらないが、この距離感は昔の師弟関係には無かったものだ。
昔のものも、そこから変わるものも、ナツメからしたら全て大切なものなものだ。と伝わっただろうか。
「…お前は、相変わらずすごい奴だな」
「何回でも言いますね、ソレ」
「何度でもそう思うからな」
カブラギは伝わったかどうかをはっきり言ってくれない事がほとんどだ。が、今回はナツメを撫でる大きくて優しい掌が答えらしい。
それ自体は不満ではない、が。
「…組長はいつも言葉が足りないんですよ」
「………善処する」
「そこは変わってください。速やかに」
「……………」
「返事をはっきりしてくださいよ。ちょっとー?」
こういったなんでもないやり取りが、沼で死んだ男が生きたかった日々であると良いな、なんて。
カブラギが誤魔化しで降らせてきた唇の感触に付き合いながら、ナツメは願うのだった。
完