舞え、蝕の火 嫌な予感はしていた。
北方の一揆鎮圧に向け、遠征に出た部隊からの連絡が途切れたこと。
蘭丸さまからも濃姫さまからも音沙汰がないこと。
街道沿いに拡がる、出会ったものを斬り殺す女の噂。
――その女の姿が、聞く限りでは市姫さまそっくりであったこと。
本能寺、寺中。
私は御堂のひとつを背に立っていた。久しぶりに刀を握った手が汗でぬるぬるとする。
松明と月の光のおかげで、辺りは明るい。先ほどまで聞こえていた味方の呼び合う声もなく、しんとした庭。
耳に届いたのは、敵襲というにはあまりにも頼りない足音だった。
赤々と燃える松明の炎の向こうに現れた、見知った彼女。
「市姫さま……」
「……ひさしぶり、ね」
ゆらり、柳の枝のように揺れて一歩を踏み出す彼女の右手には、いつか私が研いで差し上げた薙刀が握られている。
きっと、本能寺の門前からここまで、味方の兵を斬って斬って斬り続けてきたのだろう。その刃は血に染まり、てらてらと赤黒く輝いていた。
「あのね……あなたに研いでもらった刃、とてもよく斬れるの。ありがとう」
「市姫さま」
私は刀を構えた。力を入れた足元で、砂利が呻くように鳴る。膝が震えた。指先がわなないて、今にも刀を落としてしまおうとする。
彼女が、私やそこらの雑兵に太刀打ちのできる相手ではないことは分かっている。
けれど、もし信長公と戦ったら――市姫さまはきっと死んでしまう。
行かせるわけにはいかない。
私は彼女の瞳をまっすぐ見つめて言った。
「お通しするわけには参りません。市姫さま、どうか……どうかこれ以上は、おやめください」
「長政様が、兄様の首級がほしいって」
まるで聞こえていない。見つめた彼女の目の焦点が私に合わないことに気付いてぞっとする。
彼女が見て、聞いているのは、地の底に眠る幻だ。
どす黒い闇が、彼女の周囲の地面から湧き出るように溢れ出す。関節も筋肉もないいびつな腕の形をとってうねうねと踊った黒い影は、私を縊り殺そうと真っ直ぐ突進してきた。
とっさに横へ飛んで避ける。獲物を失った腕は、御堂の中の闇へと溶けるように霧散した。
「市姫さま」
「ひとぉつ、ふたつ、みつのいし……ふ、ふふ」
まるで夢でも見ているような口調とは裏腹に、こちらを斬ろうとする腕には迷いがない。いつかの優しくて頼りない姫さまはいったいどこへ行ったのだろう。こらえきれないというように笑いを漏らす口元は冷たくて、人間と対峙しているという感じがしなかった。それはまるで、
(信長公そっくりだ)
一撃目を頭を下げて避け、返す刀を一段高いところへ飛び上がってかわす。そのまま足元を突こうとする刃先を弾いた。がきん、という金属同士のぶつかる音。刃先が欠ける嫌な感触が指先へ伝わる。
「市の邪魔をしないで」
「駄目です」
私は改めて刀を構える。市姫さまも首をゆっくりと横に振りながら、薙刀を構え直した。
「あなたには、きっと市は殺せない」
「そんなことありませんよ」
「分かるもの。……あなたにはできない。でも、市は違うの」
飛び降りて、再び地上で市姫さまと対峙する。私はもう一度市姫さまの目を凝視して――気づいた。
市姫さまは笑っていた。笑っていたけれどそれはもう、冷たい魔王の血を感じさせるものではなかった。
遠慮がちで優しい、そして悲しそうな、いつかの市姫さまの笑みだった。
黒々とした両の瞳の中に真っ赤な火が燃えていた。哀しげに唇を歪めた彼女は薙刀を抱き締めるようにすると、
「お願いだから、ここから逃げて」
と、消え入りそうな声で言った。
「市、あなたは殺したくない。長政様も……きっと許してくれると思う」
虚空を仰いだ市姫さまの目元が、うっすらと光る。思わず構えを解いても、彼女が襲ってくることはなかった。
こちらをじっと見つめながら、彼女はつづける。
「兄様の下に連れて帰ってこられて、戦に出て、人を殺して……。毎日哀しかったけど、あなたに刃を研いでもらう時間は、哀しくなかったわ。市に関わると不幸になるけど、あなたはそんな感じがしない。きっと……そういう宿命なの、だから」
「……ずっと言おうと思ってたけど、今言いますね」
彼女の言葉を遮ると、市姫さまは不思議そうに首を傾げた。
「……なあに」
「周りを不幸にしてるのは、市姫さまじゃない。誰も市姫さまを恨んでなんかない」
みんなきっとわかってくれるはずだと思った。備前守も、蘭丸も濃姫さまも、ここまで殺されてきたすべてのひとたちも。
もし彼女が信長公の傀儡でなければ、きっと彼女はこんなに酷いことはしなかっただろう。きっと心を壊すことはなかっただろう。あんな顔で笑いながらひとを斬ることもなかっただろう。
ここで行かせてしまったら――誰にも支配されない幸せな生き方を知らないまま、彼女は鳥が首の骨を折られるように殺されてしまう。
「生きてほしい。そしたら、きっとわかるから。そのためにも……先に行かせるわけにはいかないんです」
私は構えを立て直すと、言った。
「これ以上は進ませません。どうしてもと言うなら――私を斬ってからにしてください」
勝負はあっさり決した。折れた刀、ざっくりと抉られた胸、止まらない出血、目の前がちかちかする。
仕えていた人間に向かってあれだけ大見栄を切った結果がこれだ、まったく笑い話にもなりはしない。ひざが、折れた。
吸っても吸っても空気の入らない胸を無理やりに動かして、私は言った。
「信長公は、この先の、本堂においでです。……火が回る前に、はやく」
「……」
名前を呼ばれた。ひなたの雪のようにかそけき声だった。ゆるして、とか細い声で言おうとするのを遮って、私は鮮血の溢れる口で笑って見せた。
「市姫さまのせいじゃないですよ」
折れた刀を地面に突き立て、それに縋るようにして座り込む。喋るのを邪魔する血の塊を吐き捨てると、私はつづけた。
「私の、運が、……悪、かっ……」
起きていられたのはそこまでだ。私は地べたへ横向きに倒れ込む。指先が冷たい。頭がくらくらする。何より、胸が熱くて苦しい。
(……いい仕事をした)
自画自賛してしまう切れ味だ。おまけにそれを扱う彼女の腕ときたら……なんなら、信長公も彼女は本当に斬ってしまうかもしれない。
我が身で自分が研いだ刀の威力を味わうとは思ってもみなかったけれど――有難いことに、これならそう苦しまずに死ねそうだ。
頬に、ぴたり、と雫が当たる。確か空は晴れていたはずなのに、と思って上を見上げた。
霞んだ視界の中、じっとこちらを見降ろす市姫さま。まだ立ち去っていなかったのか。
(……ああ)
雫が何であったか気が付いて、血まみれの胸の中に、別の苦い塊が広がる。
(泣かせてしまった)
私も備前守や信長公と変わらない。自己満足のために彼女の心を犠牲にしてしまった。
止められるわけもないのに刃を向けて、私を殺したくないと言っていた彼女に殺させてしまった。
悲しませたくなかったはずなのに。
彼女がくるりと踵を返すのが見えた。
「……ごめんなさい」
かぼそい声。謝ったのは私ではなく彼女だった。それ、私が言いたかった台詞ですよ。そう伝えたいのに、声が上手く出ない。
建物が燃える音、彼女の足音――周りのすべての物音が、遠くなる。
「ご、無事、で……」
無理やり唇から絞り出した血まみれの声は、私の最後の願いだった。
自分を殺した相手の無事を願うなど、道理が通らないにもほどがあるけれど――まあ、許してもらおう。何せ死に際だし。
痛みもなにも分からなくなっていく。私は、ほとんど光を失った両目を、静かに閉じた。
眠くて仕方なかった。