エスケープ ちょっとこっちと袖を引かれて連れていかれた先は、招待客の控え室として提供されている幾つかの部屋の内の一室だった。部屋の隅に置かれた、規則正しく振り子を振る柱時計に目をやる。開宴してまもなく二時間が経過しようとしていた。宴たけなわな今となっては、浮つくばかりの喧騒から遠ざかろうとする者などひとりもいやしない――俺達ふたりを除いては。
こんな人気のない場所――それも、パーティー会場から一番離れた部屋に俺を連れ出すなんて、もしや逢い引きでもしようって魂胆かい?
「は? バカ?」
予想通りの一蹴がいっそ清々しいくらいだ。
「人に酔ったの。視線に酔ったの。何なのよ、あいつら、ひとのこと舐めるような目で見やがって。キモいキモいキモいキモすぎっ! 気持ち悪いったらないわ」
口が悪いよ、ミオリネ。
「今更でしょ、そんなの」
そうだな。今夜の君は、いつにも増してとても魅力的だから、みんなして目を奪われていただけでは?
「それも今更よ」
ふんっと俺の言葉をはねつけると、ミオリネはヒールを派手に鳴らしてこちらへ近づいてきた。幾重にも折りたたまれた青いプリーツがふうわりと広がる様子は、まるで打ち寄せる波を眺めているようだった。
距離にして約五十センチ、俺と向かい合う位置で足を止めると、ミオリネは無言で両手を広げた。
――何の合図だろう?
試しに、鏡に映したように同じポーズを取ってみると、間髪入れず懐に飛び込まれた。
――本当に、何の合図だろう?
ミオリネが顔を上げる。毛を膨らませた子猫みたいな顔で俺を睨めつけながら、そして、シニョンに結った髪からのぞく耳の先をほんの少しだけ染めながら、素っ気ない口ぶりでぽつり。
「消毒、しなさいよ」
――え?
「だから消毒! しなさいよね!」
ああ、そういうことか。
頷いて、上体を屈める。コーンフラワーブルーのドレスの背中に腕を回し、華奢な身体を抱きしめる。壊れものを扱うようにそっと。
これは何かの罠で、手を触れた途端に爪でひっかかれるかもしれないと思ったのは杞憂だった。ミオリネの強張っていた身体が弛緩するのを感じて、俺の欲が増長する。ミオリネを抱きしめる腕に力を込める。
俺の腕の中で、とくとくとくとく、加速する鼓動。やわらかくてあたたかい、小動物を抱きしめているような心地。
故意なのか、はたまた無意識なのか、ミオリネは俺の胸に頬をすり寄せてきた。満足したという合図だろうかと腕を弛めた途端、
「まだよっ」
ネクタイを掴まれ、ぐいっと身体を引き寄せられた。
「まだダメよ。全然足りない。全然消毒されてないわ。わたしがいいって言うまで離しちゃダメなんだから」
そうはいっても、誰かがこの部屋へひと休みしにきたらどうするつもりだい?
「そのときはそのときよ。誰かに見られたって別にどうってことないし。それに――」
ちゃんと鍵かけてるしと、いたずらっ子のようにミオリネが胸をそらす。
おやおや。
まったく、君ときたら抜け目がないというか用意周到というか小賢しいというか。
「あら、聡明って呼んでほしいわ」
消毒の続き、早くしてよね……とミオリネが俺をせっつく。
ねえ、ミオリネ。
続きをするのは構わない。けれど――
消毒は匙加減ひとつで、いとも容易く汚染に為り代わることができるって理解しているのかい?
一度汚染が始まれば、君は君自身の意思を越えて、君自身を蝕む刺激に依存してしまうことになるって自覚しているのかい?
――俺は警告したよ?
「シャディク」
焦れたようにミオリネが俺の名を呼ぶ。
待ちぼうけを食らって痺れを切らした彼女から爪を立てられる前に、俺は近くの長椅子に腰を下ろした。ミオリネに向かって両手を広げる。自ら俺の懐に飛び込んでくる生意気で可愛い子猫。頼りないほど華奢な肩甲骨をするりと撫でて、俺はミオリネを抱き寄せた。