ねむり姫またはいばら姫 ちょっとした事情でレンブラン家に身を寄せることになったその週末、夕食後にミオリネが持ち出してきたのはアニメーション映画のブルーレイディスクだった。
聞けば、「あんたと一緒に見ようと思っていたの」とのこと。何でも来月開催される学芸会で、五年生の出し物である劇の主役のひとり(前半後半で交代するWキャスト)に抜擢されたらしい(ちなみに、六年生の出し物は合奏だ)。例の映画はその件に深く関わりがあるそうだ。
「ふうん。五年生は何の劇をするんだい?」
「『眠れる森の美女』よ」
ミオリネがばーんと掲げて見せたブルーレイディスクのパッケージにも同じタイトルが書かれている。
「劇に向けて予習しておくの」
ミオリネがふふんと笑う。ということは、
「ねむり姫の役をするのか。君に似合うだろうね」
「――それだけ?」
期待に満ちた目をしてミオリネが俺をのぞき込む。
「似合うって思っただけ? 他に何か思わなかった?」
「他にって……。そうだな、主役だから台詞がたくさんあって大変だね」
訊かれたから素直に思ったことを答えたのに、ミオリネはぷうっと頬を膨らませた。ふくれっ面の理由にまったく心当たりがない。俺は、何か彼女を不機嫌にさせるようなことを言ってしまったのだろうか。
「台詞を覚えるくらいへでもないわよ」
「ミオリネ、口が悪いよ」
「うっさい!」
そうじゃなくて……と何やら言いかけたところで、ミオリネは口をつぐんだ。すっと立ち上がると、そそくさとレコーダーにブルーレイディスクをセットし、俺を振り返って言った。
「いいから! さっさとみるわよ!」
*
『眠れる森の美女』のあらすじは知っているけれど、アニメーション映画をみるのは今夜が初めてだった。有名なバレエ音楽の楽曲がふんだんに使用されたミュージカル仕立ての物語は、多少甘ったるくはあったもののそれなりに楽しめた。
「こども向けかと思ったけれど、意外とおもしろかったわ」と、ミオリネも満足げだった(自分だってまだ十歳と数か月のこどもだろうと思ったことはお口にチャック案件だ)。
実のところ俺にとっては、大きな瞳を輝かせたり心配げに眉を下げたりくるくる表情を変えながら映画に見入っていたミオリネの方が、映画の展開よりもよっぽど興味深かった(それもまたお口にチャック案件だ)。
「ね、シャディク」
少しばかりそわそわした様子でミオリネが俺のシャツの袖を引く。
「映画を最後までみて、あんた、何か思わなかった?」
「チャイコフスキーの音楽がうまく取り入れられていて素敵だなと思ったよ」
「音楽のことだけ? 他には?」
「絵がきれいだった」
「そうじゃなくて!」
ぶんぶんかぶりを振り、ミオリネは俺を睨めつけた。睨みつけられる理由にまったく心当たりがない。
そういえばミオリネはこの映画を俺と一緒にみようと思っていたと言っていた。わざわざ俺と一緒じゃなきゃいけない理由って何だ? いや、待てよ。ひょっとしてミオリネは俺にこの映画をみせたかったのか? でも、何のために? 学芸会の劇と関係あるのか?
あれこれ考えていると、しびれを切らしたようにミオリネが声を上げた。
「キスシーンがあったでしょ! お姫さまと王子さまの!」
「キスシーン? ……ああ」
確かに物語のクライマックス、悪い魔女を倒した後、いばらを巡らせたお城で眠り続けるお姫さまを王子はキスで目覚めさせるのだ。
「わたしは後半のねむり姫をするのよ! もしも映画と同じようにキスシーンがあったら、どこぞの馬の骨とも分からないヤツにキスされちゃうのよ! あんた、それでもいいのっ?」
――ああ、なるほど、そういうことか。
「王子役の子も同じ学年の子なんだから『どこぞの馬の骨』ってことはないだろ」
「シャディク!」
「逆に訊くけど、ミオリネは俺にどう思って欲しいんだい?」
「え……」
俺の問いかけにミオリネは目に見えてたじろいだ。
「ど、どうって……」
並んで座ったソファの上、俺を見上げるミオリネの額に自分の額をぴたりとつけて、俺はゆっくり切り出した。
「『キスシーンがあるなんてロマンチックだね。劇を観るのを楽しみにしているよ』とか?」
「っ!」
ミオリネの瞳が揺れる。
「それとも、『キスシーンがあるのなら、ねむり姫の役を降りてほしい』とか?」
「そ、そんなんじゃ……」
ミオリネの声が震える。こらえ切れないというふうにくしゃっと顔を歪ませて、
「……いじわるっ!」
「ごめん。確かにいじわるだったよ」
もう一度ごめんとつぶやいて、俺はミオリネの肩を抱き寄せた。
「お芝居でもキスシーンは嫌だな」
「ふっ……」
俺の腕の中でミオリネがしゃくりあげる。「最初から、そう言いなさいよ……」と、消え入りそうな声が聞こえた気がした。ミオリネが落ち着きを取り戻すまで、俺はずっと彼女の背中をさすってやっていた。
「シャディク……」
涙は止まったようだけれど、目の縁を赤くしたままのミオリネが俺の瞳をのぞき込む。
「わたしが他のひととキスするの、嫌だって思ったのね?」
「うん。いっそ俺が王子の役をやりたいくらいだよ」
バカ、と、涙目でミオリネが笑う。
「キスシーンなんて真似だけよ。本当にするわけじゃないわ」
「真似だけだとしても気に入らないものは気に入らない。――そうだ」
こちらも赤く染まったミオリネの鼻の先に自分の鼻をこすりつけて、俺はささやくように訊ねた。
「今から俺とキスシーンの練習をするかい? ねむり姫」
「――っ!」
トマトみたいに真っ赤になったミオリネが俺の提案にどんな答えを出したのか――それは俺だけの秘密だ。