せかいでいちばん「世界一の朝ごはんを食べに行くわよ」
いつもならどんなに遅くても期限の五日前には課題の提出を済ませているミオリネが、「講義はおもしろいけど、本人はどうもいけすかないのよね」とこぼしていた教授より課せられたレポートをタイムリミット五分前にアップロードしてから数時間後、『世界一の朝食』を食べるために、俺達は自宅から六百キロメートルほど離れた場所に在る、とあるホテルを訪れていた。
*
時間は少し遡り、本日午後三時過ぎのこと。
ノートPCのふたを閉めて伸びをするミオリネに「お疲れ様」とホットレモネードのマグを差し出す。疲労回復を助けるハチミツ入りだ。
「レポート、めずらしく手こずっていたみたいだね」
ありがと、とマグを受け取りながらミオリネが肩をすくめる。
「学生のくせに生意気だって目の敵にされてるの。あの教授、まったく大人げないんだから。今回のレポートも粗探しできないくらい完璧に仕上げてやろうと思っていたら、思ったより時間がかかっちゃって」
でもこれで晴れて自由の身よ、あんたと一緒においしいものを食べたいわ。
そうして冒頭の台詞へ続く。
ホットレモネードを飲み干した後、ミオリネはスマホ片手に、ビーズソファにもたれてくつろぐ俺の膝の上で猫のようにごろごろしていたが、
「取れたわ。四十分後に出発よ」
ものの五分もしない内にすべての手配が終了していた。俺の論文の中間発表とミオリネのレポートが終わったらどこかへ遠出しようという話は前からしていたし(ちなみに中間発表は先週滞りなく終わった)、思い立ったが吉日とはいうけれど、君の行動力と実行力に脱帽だ。
新幹線から在来線に乗り換えて約三十分、降り立った駅から高架沿いに少し進み、右へ折れる。旧居留地から山手に向かってゆるやかに続く坂の途中に建つそのホテルは、赤レンガ造りの外観が印象的な、重厚感漂う洋館だった。少々遅い時間の到着となったが、建物正面側の屋根を見れば、三つ子みたいに並んだドーマーウィンドウに琥珀色の明かりが灯っており、まるで「当ホテルへようこそ」と俺達の到着を待ちわびていたかのような雰囲気を醸し出していた。
チェックインを済ませて通されたのは、アンティーク調の調度品が揃えられたツインの客室。ツインといっても、ぴたりと寄せた状態でベッドが配置されているので、見た目の幅はキングサイズよりも広い。落としたコインが跳ね返るんじゃないかと思えるほどぴしっと整えられたベッドは寝返りを数回重ねても転げ落ちる心配はないだろう。
「ふうん、まあまあね」
口ではそう言いつつ、深い青色で統一された貴婦人の寝室めいた部屋を見るなりミオリネが目を輝かせたのを俺は見逃さなかった(あえて指摘はしないさ、勿論)。
金色の蛇口がついた猫足のバスタブは可愛いらしいけれど、ふたりで入るには小さくて、浴槽からお湯が溢れて大変だった。湯冷めしないように、風呂から出た後は広いベッドで互いをあたため合った。
翌朝は午前七時に起床。
睡眠時間はそれほど長くなかったものの、質の良い眠りを取ることができたのだろう、久しぶりにすっきりした朝を迎えた。
くっついたまんまもう少しまどろんでいたいけれど、そうもいかない。隣で眠る可愛いお寝坊さんを起こさなければ。
朝の光を受けて白く光るまぶたに口づける。
「おはよう、ミオリネ。よく眠れたかい?」
「う……ん……、眠れたけど……」
あんたのせいで足腰立たないわ、なんでそんなに体力おばけなのよと、ふかふかの枕に頬をうずめながらミオリネが顔をしかめる。しかめっ面も可愛いと思っていると、ミオリネは寝ぼけまなこのまま俺に向かって「ん」と腕を伸ばした。小さな子どもが抱っこをせがむようなしぐさ。華奢な身体を抱き上げシャワーブースへ運ぶ。
目覚めのシャワーの後は、洗顔、着替えをアシスト。
「おなかぺこぺこよ」
「俺もだよ」
身支度を調えて、この旅の目的――世界一の朝食を食べるためレストランへ向かう。
総料理長の名前の頭文字を冠したレストランはホテル一階のパティオにあった。店内に足を踏み入れると、そこはオープンテラスのような造りになっており、高い天井から明るい陽の光が降り注いでいた。朝食を囲んで談笑している先客の姿も見える。
どうぞこちらへと案内されたのは緑がまぶしい窓際のテーブル席。二人用のテーブルに敷かれた白いテーブルクロスの上には、すでに『世界一の朝食』が用意されていた。
「きれい……」
席に着いたミオリネが、思わずといった調子で感嘆の声を漏らす。
まず目を引くのは、五つ並んだグラスに注がれた、まるでフルーツドロップみたいにカラフルなジュース。テーブルの傍らに置かれたメニュー表によると、『飲むサラダ』と呼ばれる野菜と果物をふんだんに使ったジュースらしい。
バスケットにこんもりと盛られたパン。色とりどりのコンフィチュールとバター。グラノーラ。コンソメスープ。生ハム。タピオカとココアの冷製スープ。ヨーグルト。季節のフルーツの盛り合わせ。エッグスタンドに立てられたゆで卵はとろとろ半熟だ(エッグシェルブレーカーという卵の殻を割る専用の器具を使う。なかなか楽しい)。
繊細な絵付けが施された白磁の食器に盛りつけられた朝食は芸術作品のように美しく、味も絶品だった。
「おいしい……」
何これ、何これ、味が違ったら止まらないんだけど、と、コンフィチュールをたっぷりつけたパンをぱくぱく食べて、ミオリネが舌鼓を打つ。
「バターも三種類あるなんて、ずるいわ」
「生ハムうま……。塩味が絶妙だ」
「タピオカのココア・オレなんて初めて」
「え? これ、冷製スープじゃないの? てっきり甘いスープかと思ってた」
「やだ、パンのバスケットがもうすぐ空になっちゃう。いつの間にこんなに食べちゃったのかしら」
気づいたら、バスケット以外の皿も、フルーツを残してほぼ空っぽになっていた。
いつもの朝食の軽く五倍はあろうかという量を前に、食べきれるかしら、と漏らした不安は杞憂だったようだ。もっとも、昨夜はたっぷり体力を消耗したから(正確には『消耗させたから』かな?)、無意識の内に空腹感を覚えていたのだろうけど。
「ミオリネはいつも紅茶とヨーグルトだけだしね」
「もともと朝ごはんにそれほど執着あるわけじゃないし、本当は食べなくたって平気なんだけど、あんたが淹れる紅茶、おいしいから……」
あんたの紅茶を飲まないと一日が始まらない気がするのよねと、可愛いことを言ってくれる。はからずも、朝が弱いミオリネが寝過ごして余裕がないってときでも俺の紅茶を欠かさない理由を知って、胸の底がくすぐったくなる。
「何ニヤニヤしてんのよ」
ちょっとね、と軽く笑って、俺は言葉を続けた。
「今朝と同じ量を毎日食べろとは言わないけど、朝食は脳と身体のエネルギー源とも言われているからね。俺としては、これを機に君の朝ごはんのラインナップにバターとハチミツをたっぷりかけたトーストを付け加えてくれたら嬉しいな。そこに、ゆで卵か目玉焼きもプラスされたらなおのことだよ」
「それって、わたしに『もっと肥えろ』って言ってるわけ?」
ミオリネが片眉を上げる。
「そこまで極端じゃないけど。ただ、君は華奢すぎるから、もっと肉をつけたほうがいいとは思っているよ。それに……」
「それに? まだ何かあるっていうの?」
「――ときどき骨が当たって痛い」
ほね? と、ミオリネは一瞬目をぱちくりさせたが、
「なっ……!」
言葉の意味を理解したのだろう、すぐに頬を赤らめた。
「朝からなんてこと言うのよっ」
信じられない、と頬をぷりぷりさせたまま、ミオリネはアプリコットとニンジンのジュースをがぶがぶ飲んだ。
「ごめんごめん、冗談だよ。めっぽう美味い朝食を食べているから、気分と一緒に口も弛んじまったのかもしれないな」
ひとつ隣のテーブルは空いていたけれど、少し声を潜めて、
「君の抱き心地は何ものにも代えがたいよ」
「口がうまいんだから」
ふんっと鼻を鳴らしながら呆れたような目で俺を見やると、ミオリネは空になったグラスをテーブルへ戻した。そのままフォークを取ろうとしたが、フォークの柄に指が振れる直前、その手をすっと引っ込めた。瞬間、長い睫毛の下の瞳が陰る。どこか思いつめたような表情が気にかかった。
「ミオリネ?」
「……うんざりって思ってる?」
いまにも切れてしまいそうな細い声。
――うんざり?
ひと口サイズにカットされた梨を食べながら俺は首を傾げる。
「どうしてあんたが豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしてるのよ」
「だって、びっくりしたから。逆に訊くけど、俺がうんざり思うって、一体何に対して?」
俺の顔を見つめた後、少し目を伏せて、ミオリネは言いにくそうに口を開いた。
「中間発表とレポートが終わったらどこかへ行こうって話をしていたのに、おいしいものを食べたいってだけで行き先をさっさと決めちゃったわたしに対して、よ。ふたりで計画していた旅行だもの、ちゃんとふたりで話し合って旅行先を決めるべきだったわ」
ああ、そういうことか。
俺は肩から力を抜いた。
「うんざりだなんて考えたこともなかった。俺の心情と対極にある感情だから」
口の中に残っていた梨のかけらを飲み込む。テーブルにフォークを置き、俺はミオリネに向き直った。
「俺は君にぞっこんだけど、別にイエスマンってわけじゃあない。これまでも自分を押し殺したり我慢したりせずに、嫌なことは嫌だってちゃんと君に伝えているし、やりたいことや行きたいところがあれば、ちゃんと主張してきたよ。違う?」
ミオリネが首を横に振る。「違わないわ。でも……」
「もしも君が後ろめたいと思っているのなら、それこそ違うと断言するよ。俺は、君があのレポートに何週間も手を焼いていたのをこの目で見ていたし、無事に提出が済んだら存分に羽根を伸ばしてほしいと思っていた。それに、俺と一緒においしいものが食べたいって言ってたろ? 行き先を『世界一の朝食』に決めた理由を聞いて胸が震えたよ。なぜなら君の行動原理には、確かに俺が含まれているってことだから」
「シャディク……」
ミオリネが睫毛を震わせる。
いますぐにでもミオリネの手を取り、その細い指に自分の指を絡めて握りしめたかったけれど、生憎、テーブルに挟まれていてそれは叶わない。代わりに、俺はミオリネを真っ直ぐ見据えながら、声に力を込めて言った。
「世界一の朝食を食べる相手に俺を選んでくれてありがとう。いまこの時間を君と一緒に過ごせて、俺はこのうえもない果報者だよ」
「幸せだって思っているのはあんただけじゃないわよ、シャディク」小さな女の子みたいに目を潤ませ、ミオリネは俺を睨めつけた。「どんなにおいしい朝食でも、ひとりで食べるんじゃあ味気ないわ。世界一と言われている朝食も、あんたと一緒じゃなきゃ、その時点で世界一から格下げよ。あんたと一緒じゃなきゃ、どんな称号も意味がないの。だって……」
自信たっぷりに胸を反らし、ミオリネはにやりと笑ってきっぱり言い切った。
「だってあんたはわたしの愛しいだんなさまだし、わたしはあんたの奥さんだから。わたし達は夫婦よ。あんたと一緒に体験することで初めて『世界でいちばん』は成立するのよ」
「ミオリネ……」
耳の底に響くミオリネの言葉が喜びの水になり、俺の胸を満たしていく。
気を抜くとすぐに弛んでしまいそうな口を片手で押さえて、俺は深呼吸を繰り返した。
「ね、ミオリネ。『世界一』って何だろうね」
料理の味が世界一だったり景観が世界一だったり、何をもって世界一とするのか、その定義は千差万別だ。
「この朝食は確かに絶品だ。『世界一の朝食』と謳われるのも頷けるよ。でもね、俺にとっては、君と一緒に食べる朝食が――たとえばそれがトースト一枚と紅茶一杯のシンプルなものであったとしても、世界一の朝食なんだよ」
「前から思ってたけど、あんた、わたしが絡むと途端に判定が甘くならない?」
「君に関することなら甘くもなるさ。だって、君は俺の可愛い奥さんだし、俺は君の夫だから。君自身を甘やかしたいし、君を想う俺の気持ちも甘やかしたい。世界中が眉根を寄せたとしても譲れないね」
白磁のティーポットを手に取る。ミオリネのカップにおかわりの紅茶を注ぎ入れながら俺は言葉を継ぐ。
「誓って言えるよ。俺の『世界でいちばん』は、この先もずっと更新され続ける。君といる限り、ね」
鼻の脇にきゅっとしわを寄せて、ミオリネが面映ゆそうに口を引き結ぶ。
「――ばか。わたしだってそうよ」
つぶやくと、ミオリネはミルクを注いだ紅茶を口へ運んだ。こくりとひと口熱いお茶を飲み、ほうっと息を吐く。
「ここの紅茶もおいしいけど、やっぱりあんたの紅茶が恋しいわ。ねえ、だんなさま。明日の朝、わたしのためにとっておきの紅茶を淹れてくれる?」
目もとにいたずらっぽい笑みを浮かべて、ミオリネが俺に問いかける。
「勿論だよ、奥さん」胸を張って、俺は答える。
明日の朝もこの先も、いつかあの門を叩くそのときまで、とびきりの一杯を愛しい君へ届けると約束しよう。