お題:舌 スマホを貸与されてからこっち暇なときよくそうしてるみたいにYouTubeで映画のトレーラーを流し見しながら、俺はもう見事なほどに集中できんでいる。隣の部屋で伏黒がずっとごそごそしているのがわかる。
準備しているのだ。
俺は通知も来てないのに伏黒とのトーク画面を何度も何度も開いては新しいメッセージがないか確認してしまう。朝から変わらん画面には俺が送った「了解!」のスタンプ、その前に伏黒から来た「届いた。今夜準備できたら連絡する」の文字がある。
早朝からそんなメッセージを送ってきたくせに今日一日の伏黒はいつも通りそのもので、俺ばっかり挙動不審だったと思う。座学のあいだもずっと眠れなかったし、せっかくの先輩たちとの手合わせの際も集中しきれなくて怒られるどころか呆れられてしまったんじゃないかと思う。釘崎なんか何か察してるんか知らんけど、もはやにやにやされてしまった。明日には何かあったんか訊かれちゃうかもだから、言葉を用意しとかないといけない……。でもこういうそわそわした気持ちで自分の集中が削がれるなんて考えたことなかったから、まあ実戦のときに自覚するよりだいぶマシか。
ほらやっぱり。
YouTubeがおもしろそうなサスペンス映画のトレーラーを流しているのに俺は別のことばかり考えてるし、またLINEを開こうとしちゃってる。
俺は準備が終わるのを待っている。
わー、そうしてるうちに隣室がはたと静かになって、いよいよかって思う。
予想通りに通知が来る。伏黒からのLINE。
すぐに既読にするのが躊躇われ、頭のなかで10数えてから開いた。
──来い
*
伏黒の部屋の扉をノックする。
「入っていいぞ」と声だけ返ってくる。「鍵はしてない」
俺は意を決してその扉を開く。
「うわ」
思わず声に出していた。
部屋の真ん中にいつも置かれているローテーブルは掃き出し窓に立てかけられていて、空いたスペースにはブルーシートが広がる。ブルーシートの下にはなにか厚手のものが挟まれていて──たぶん布団だ。ベッドは掛布団も敷布団も剥ぎ取られ、残ったマットレスも壁のほうに立てかけられているので、スチールの枠組みと簀を晒している。そして膨らんだブルーシートは縁を養生テープで床に固定されていた。壁際のテレビにもブルーシートがかぶせてある。
「なかなかがんばっただろ?」
と伏黒はいたずらっぽい顔をして言った。
「いやすげーよ」と俺は拍手までして言う。「でもどちらかっていうと死体処理とかするみたいね?」
「はは。部屋に醤油取りに戻るか?」
「ふ。誰を殺しちゃったん」
「俺たちが殺し合うのかもしれないぞ」
「まあいつかはそんな日が来るかもね」
なんて釘崎が近くにいたら思いっきり嫌な顔をしそうな会話をつなぎながら俺は視線を部屋から伏黒に移す。
いつも通りというか、いつもよりオーバーサイズなくらいのスウェット姿の伏黒がいる。
「けど、部屋を開けたら伏黒がやばいことになってるの覚悟してたから、ちょっと拍子抜けかも」
「は? なに想像してんだよ」
「手錠と目隠しと、なんかあの口に咥える丸いやつして部屋の真ん中に座ってるみたいな」
「なんでだよ」と伏黒が笑う。「まあお前にそういう想像されるっていうのは悪くないな」
「悪くないんかい」と俺もつられて笑う。「いやあSMって言うからそういうのかとね」
そう、SMのプレイをするために伏黒はこの準備をして、俺はここに来たのだ。
*
「悪いが、俺にはやっぱりお前とエロいことしたいって願望がある」
そう告げられたのは水曜、思いがけずたやすく終わった任務のあと伏黒の部屋で映画を見て、そのエンドロールの最中だった。俺も伏黒もベッドに背中を預けて床に座ってテレビ画面を見ていた。
「へえ……」と俺は気の抜けた返事をしたはずだ。「今それ言いたくなる要素あった?」
見ていたのはしゃべる動物たちが冒険を繰り広げるような子ども向けの映画で、エンドロールの曲も陽気で明るく、伏黒のセリフとのちぐはぐさに思わず笑ってしまった。
「いや? そのうち言おうとずっと思ってて、今たまたま勇気が出た」
「なるほど……? まあ子どもに勇気を与えるみたいな映画ではあった」
「確かにそうかも。子豚に感謝だな」
そこでちょうどエンドロールも終わるので、俺はテレビの電源を落とす。部屋はしんと静かに、真っ暗になる。テレビだけが光源だったから。
電気をつけるために立ち上がろうかって一瞬考えて、やめておいた。伏黒も同じ考えみたいで座ったまま動かない。お互いの表情が見えないほうがやりやすい会話っていうのもある。ついおちゃらけてしまいそうになるけど、真剣になるべき場面だ。
どうせよく見えないけれど、からだの角度を変え、伏黒と向き合う。
「でも、ごめんけど、俺はひととエロいことやり合うみたいなの向いてなくて」
「勃たないってのは前きいた。恋愛とか性欲とかがよくわからんってのも」
「うん。話した」
「でも俺がお前をこうやって好いたままでいるのはかまわないって言ってくれてる」
「同情とかそういうんじゃなくて、ふつうに俺が伏黒と一緒にいたいからだからね」
「それは知ってる」
「ならよかった。前は、体貸すみたいなのならできるけどって言ったんだっけ俺」
それですごく怒られたんだった。
「そう。自慰を手伝わせるような真似はしたくない」
「だけどどうしてもエロいことをしたくなってしまったと……。俺とお前で……」
やっぱり電気を消えたままにしておいてよかったって思った。どんな顔をしていればいいのかマジでわからん。
伏黒は「そうだ」とうなずいて、続ける。
「それで解決策を考えたんだが、BDSMはどうだろうと」
「え、SM……?」
「そう。嗜虐と服従のロールプレイだ。それなら俺もお前も相互にプレイヤーとして参加できるだろ」
「プレイヤーとして参加……」
と俺は鸚鵡返しにするしかできない。頭いいやつの考えることは難解だ。
だけど「ま、楽しみが得られるかはやってみないことにはわからないけどな」と付け足した伏黒の声があまりに明るくて楽しそうだったので、やっぱ電気つけておくんだったかなって気がした。たぶん俺もちょっとわくわくした表情をしてしまっていて、それを伏黒に見せたかった。
*
「それで、何をやるん」
SMをやるって宣言されて、準備ができたら決行すると覚悟させられてはいたものの、どんなことをするのかはきかされていなかった。
「これだ」
と伏黒は枠組みだけになったベッドの上の箱に手を伸ばす。
小さい段ボール箱をふたりで覗き込んだ。
「蝋燭……?」
箱には黒くて太い蝋燭が入っている。
「そう。一応、それ用のちゃんとしたものらしい」
「ちゃんとした……」
「職人がひとつひとつ手作りした」
「ふふ、エログッズ職人か」
「蝋燭職人だろ」
「それもそうか。でもいきなり蝋燭ってなんかレベル高くない? 大丈夫? こう、ほんと目隠し手錠で言葉責めとか、やってソフトに緊縛かと思ってた」
「俺ら絶対言葉責めの才能とかないだろ」
「言えてる」
「緊縛は素人がやると血流止めたりヤバそうだからやめた。鞭も音だけ派手で痛みがないのとかあるっぽいから考えたけど、寮で音響かすのもあれだしな」
「それで蝋燭になるもんなん?」
「なる。これは融点の低いプレイ用の蝋燭だからそこまで熱くはないし、小火にさえ気をつけたらいい」
「ゆうてん」
「溶ける温度な」
「はい」と俺は頷く。勉強になる。「ところでこれ正真正銘のエログッズなら、伏黒どう買ったん?」
「どう?」
「通販でも年確あるじゃん」
「ああ。五条先生に買わせた」
「先生に なんて言って?」
突然どうしてもSMがやりたくなったり、そのために部屋を死体処理現場みたいにしたり、先生にエログッズ買わせたり、ほんとおもしろいなこいつって思う。
「ふつうに、虎杖と使うって言った」
「うーわ。今度五条先生に会ったとき絶対からかわれるやつじゃん」
「でもSM用の蝋燭注文しといて料理に使うとか言うよりマシだろ」
「まあそうか。……そうか?」
「そうなんだよ」と伏黒は無理やり話をまとめる。「それじゃそろそろ始めるか?」
やっぱりなにもかも突然だ。
突然の権化こと伏黒が立ち上がって段ボールを部屋の隅に移動させ、ベッドサイドのキャビネットからまた別の道具を取り出す。
そしてブルーシートの真ん中に立ち、俺に向かって手招きし、
「こっち来て、脱げ」
なんて言う。
「えっ脱ぐの?」
「服を蝋でベトベトにして何が楽しいんだよ」
「えっと違くて、脱ぐの俺なん? その、伏黒ってネコやりたいみたいに言ってなかった?」
「それはそれだし、これはこれだろ」
「そういうもん? 伏黒のほうが蝋燭映えるんじゃん?」
「そうか……? いや、お前の裸見たいしとりあえず今日はお前がそっちだ。嫌か?」
「んー、嫌ではないか。伏黒のほうが女王様っぽいってか、調教師ってかんじだしな」
俺もなんだかわくわくしてるってことに気づく。部屋に来る前、俺は伏黒の期待に応えられるだろうかっていう不安が大きかった。だけど今は何か伏黒との新しい楽しみが増えるなら愉快だって気持ちが大きい。
「パンツも脱ぐ系?」
「パンツは履いとけ。使わないもんでもさすがにそこ怪我させるのはな」
「いや排尿には使うしね」
「確かに」
すごく頭の悪いこと言い合いながら、俺はパーカーとスウェットパンツを脱いでいく。部屋はブルーシートで覆われてるだけじゃなく、しっかり暖房を効かされているんだなとわかった。「お、勝負パンツか」と普段トランクス派の俺がボクサー履いてるのを目ざとく見つけた伏黒が言う。「そう、一応えっちなことをする覚悟で来たからね」なんて答えつつ空気にはセクシーなところなんてひとつもなくて、でも伏黒がそれでよさそうだからかまわない。
「別に女王様も脱いでもいいんじゃない?」
「脱がない。ふにゃちんの前で俺だけちんこバキバキにしてんの見られるのは恥ずいだろ」
「伏黒の恥じらい基準マジでわかんねえ」
最初に告白してきたときなんて顔面蒼白で死にそうになってたのにね、とも言いたくなるけど飲み込んだ。
うながされるままブルーシートの上に座ると、布団のやわらかさとブルーシートのしゃかしゃか感が同時にあってだいぶ不思議。伏黒も俺の前にしゃがみこんで、ブルーシート上から何かボトルを拾い上げる。さっきキャビネットから取り出してたやつだ。
「ローション?」
「そう。お前に塗る」
「なんで?」
「蝋が固まったとき剥がしやすいように。体毛ごと持ってかれてかまわないなら塗らない」
「塗ってください。横になったほうがいい?」
「そうしてくれ」
と言われて仰向けに寝転んだけど、いざ人肌にあたためられたぬるついた液体をお腹に垂らされてみるとくすぐったくてしかたがない。すぐに上半身を起こしてしまった。体のうしろに手をついて足を伸ばす姿勢で安定する。伏黒が俺の腰の上にまたがる姿勢でローション塗り作業を進めていく。
「くすぐったいか」
「すごくね」
「のわりに反応が薄いな」
「笑ったら雰囲気壊すとおもって我慢してんの」
「でもくすぐりだってそういう嗜好もあるくらいなんだから」
と伏黒が蘊蓄を語り始めそうになるのを、
「今はやめとこ伏黒」と止める。「伏黒の豆知識きいてると、釘崎と一緒に遊びに行ってる気分になる」
「ふ。勝手に辞書代わりにされる弊害がこんなところにあるとはな」
やっぱりエロいことをしているというか、エロいことごっこをしてるってかんじだ。ついでにローションまみれになってみるとこれはシーツの上ではむつかしいなってブルーシートの効用がわかるし、蝋燭を使ったらさらにその通りだろうって想像がつく。床に直に敷いたブルーシートだと固くてかなわなかっただろうからお布団を挟んどくのも正解……と語られなくても部屋中が伏黒の豆知識みたいにかんじられて、ほのぼのとさえしてくる。
そうやってほのぼのしてる俺を前に伏黒は目を細めて唾液を飲み込んだりしていて、思ったより余裕がなくてかわいいね、なんて思ったりもする。
「よし」と伏黒が再度立ち上がって、部屋を暗くする。キャビネットの上に置かれたなんか間接照明みたいなやつ──水曜日にはなかったはずだ。これもこのために買ったんかな──だけがぼんやり光っている。ぬるぬるにされた俺の肌ばっかり光を反射していてちょっとさすがにおもしろすぎないかって気にかかる。でも伏黒は満足げに俺を見下ろしてて、ならオーケーよ。
ブルーシートの端から黒い蝋燭を持ち上げた伏黒はポケットからライターを取り出す。古いライターに見えた。油の残りも多くない。とくにロックを外すそぶりも見せずちゃっと火をつける様子に、ずいぶん扱い慣れている、それか本当に古いもの──子どもの火遊び対策がとられる前の──親からもらったとか?とぼんやり考える。
溶ける温度が低いって説明された蝋燭は本当に見る間に溶けて、すぐ芯のまわりのくぼみに液体を溜める状態になった。今にもこぼれちゃいそうだ。
「腕出せ」
命令を受けて俺は右腕を持ち上げる。伏黒は俺の前に肩肘をついて、少し持ち上げた蝋燭から黒い蝋を俺の腕へとしたたらせる。
「いっ……」
思わず腕を引いてしまっていた。
「悪い、痛いか?」
「いや、痛くはない。全部反射、今のは」
「ならいい」
蝋が再度差し出した俺の腕に沿うように落とされていく。「ぁ……」とか「ぅわっ……」とか短い声を何度もあげて腕を跳ねさせてしまい、これはちょっと恥ずかしかった。本当に何も痛くないし、しっかり見えてるから軽い衝撃も予想できるのに、なんか過剰に反応してしまう。なるほどね。体の制御がむつかしい以上、暴れて落ちてもいけないからベッドに直接ブルーシートを敷くってわけにもいかなかったのだ。
簡単に溶ける蝋は簡単に固まって、俺の腕に黒い鱗の筋ができたようになる。
「どんなかんじなんだ」
と訊かれて、
「……こう、いま喋ってるときはふつうに人間なんだけど、すごい暗い湖とかになってて、そこに突然石が落ちてくるかんじ。落ちてきたところだけ体になんの」
と俺はずいぶん饒舌だ。我ながらなに言ってるのかわからん。
「ふ。突然文学的になるなよ」と伏黒にも笑われる。「そういや忘れてた。セーフワード決めないとな」
「また知らん言葉が出てきましたよ」
「ダメとか嫌とか言っててもそういうフリだと思ったらいけないだろ、本気で中止の合図を決めとく」
「そこまで過激なことやるかんじ?」
「過激じゃなくてもお前がやめたいならちゃんとやめてやりたい。だから決める」
「なるほど。それって一度決めたら永遠に変えれんとかある?」
俺は伏黒の右手で溶けていく蝋燭が気になって仕方ない。伏黒がちゃんど角度をつけているおかげで伏黒の手にかかる恐れはなさそうだけど、ブルーシートにどんどん落ちてしまっていてもったいない。あれ、これ「ちゃんと俺に使ってほしい」って思ってるのと同じかなって考えて、頬が緩む。
「なに笑ってんだよ。別にいつでも変えたらいいだろ」
「じゃあ……リョウメンスクナで」
「はあ」
伏黒が素で嫌そうにする。
「俺も嫌だよ? でもうっかり口にしたりとかしない言うのが嫌なくらいでいいんじゃん?」
「なら今日のところはとりあえずそれで。胴体行っても平気か?」
「うん。来て」
と答えると、やっと蝋燭が俺のもとに返ってくる。腕の次に伏黒のターゲットになったのは胸だった。俺はまたローションを塗られてたときと同じように床に両手をつく。さっきのおそるおそるした様子から変わって、大胆に蝋が落とされる。大丈夫ってわかってもらえたんだとうれしい。女王様と奴隷のごっこ遊びというよりかは、信頼を確かめ合うゲームっぽいような気がしてくる。終わったらそう報告しよう。今は蝋燭に集中する。暗い湖面に石が落とされていくようなことに、謎の安心感があるのだ。俺の目は黒い蝋が俺の肌に落ちて固まっていくのを見つめていて、俺の喉からはついつい喘ぐみたいな声が出てしまうけど、心はずっと遠い、すごく静かなところにある、そういうかんじ。ずっと、静かなひとりぼっちのところにいた心が、やっと今、少しの熱と痛みで揺さぶってもらえる。大事な友だちの落とした黒い火によって。
蝋が重なってくるとさすがに熱がたまるのか、はっきりとした痛みが出てくる。でも不快ではなかった。
「きれいだ」と伏黒が興奮に掠れた声でつぶやく。
きれいだろうか。
きれいかもしれない。
「なんかSMって赤い蝋燭のイメージだったけど」と俺が言うのがきこえた。
自分がしゃべっているってかんじがしない。
「赤は血みたいだろ」
「血みたいなのでやるほうがSMっぽくない?」
さすがに胸に血の色を垂らすのはトラウマを刺激するんだろうか。
「任務で流血したときにプレイを思い出したらことだろ」
「そっちか」
「は?」
「でも黒もいいね。伏黒の影を落とされてるみたいでさ」
「はあ?」
炎に照らされた伏黒の顔がさっと赤くなるのがわかった。
「えっ何。今のかわいい!」
もっと表情をよく見たくて、傾けていた上半身を起こしてしまう。胡座をかく姿勢になった俺に「そのままでいろ」と伏黒が言う。動揺を取り繕うみたいに低くした声がさらにかわいらしい。でも俺は従順に従う。座ったまま伏黒の行動を待つ。
次はどこだ。背中だろうか。それとも脚?と考えているうちに顎をすくわれて、上を向かせられる。
「舌を出せ」
「待って。ベロにやんの?」
「嫌ならいい」
「というか舌出した状態だとやばくなってもセーフワード言えなくない?」
「それもそうか……」
伏黒が考え込み出してしまう。ほらまた蝋がブルーシートに垂れる。もったいない。
だから「でもたぶん全然大丈夫。やってよ」って言う。
「悪いな」
俺は舌を突き出して伏黒を見上げる。伏黒が俺の顔にゆっくり蝋燭を近づける。
さすがに近すぎて落ちていく蝋を見つめるのもむつかしいんだけど、怖くはなかった。
反射で自分が舌を引っ込めちゃうのではないかっていうのも杞憂で、俺の舌はちゃんと蝋を受け止める。
「大丈夫か?」
俺が体を跳ねさせもしなかったので、伏黒が心配そうに訊いてくる。
舌を出したままでは喋れないので、舌を突き出したままにして、というかさらに伸ばして、「もっとどうぞ」という代わりにした。伏黒が息を飲むのがわかってうれしい。
「飲み込むなよ」と伏黒がまた蝋を俺に差し出す。
飲み込むわけないじゃん。でも屍蝋化した指を飲んでるから前科ありってことなのか? 笑いそうになってダメだ。
蝋が舌に落ちてくる。だばだばと舌の上にたまって、いくらかは唾液と一緒に流れおちていく。俺は体に細かい電流が走ったみたいにかんじる。新しい。湖全部に火がついたみたいだ。暗くなくて眩しい。
伏黒は舌を突き出したままの俺を揺れる炎の向こうから熱っぽく見つめていて、その視線も俺にとって微細な電流に変わる。
どうしたらいい?って訊きたい。何もかも言う通りにしてやりたい。
舌の上にたまった蝋をどうしたらいいか本気でわからないし、もっと命令してみてほしかった。
伏黒は無言で蝋燭を持った手首を振る。
ふっと火が消えて暗くなる。
まだ照明があるはずだけどずいぶん暗い。伏黒の片手で視界を覆われているのだった。ひたいにかすかにふれるてのひらが熱い。俺は目を閉じる。
すぐ近くに伏黒の息遣いをかんじる。躊躇をかんじとって「いいよ」って言いたいけど、それもかなわんのでただ「来い」って念じた。
伏黒は俺の舌を食べる。
いや実際は食べてはない。伏黒の舌が一度俺の舌の上の蝋をなぞって、それからきれいに並んだ前歯が俺の舌に添えられる。俺はよだれが垂れて伏黒の口に入っちゃうのも気にせず、できるだけ舌を伸ばす。伏黒の歯が蝋をこそげ取っていく。見えないから確定はできんけど伏黒はたぶんまた俺の腰をまたいでいて、俺の腹筋に伏黒の下半身が触れていて、ほんとにちんこバキバキじゃんってスウェット越しにもわかる。嫌じゃない。舌の上の蝋の塊が消えたぞってくらいでまた舌で舌をなぞられて、今度は蝋がないからその生っぽさがすごくよくわかる。
俺の視界を遮っていたてのひらが離れていく。
伏黒は伏黒で自分の口内に移した蝋の扱いに困っているみたいで、しばらく片手で口元を覆ってもごもごしていた。ぽかんと口を開けたままの俺と目が合ってから伏黒はやっと観念したように唾液と蝋とをそろえた両手に吐き出し、またちょっと考えたあとブルーシートの上に捨てる。ブルーシートにすっかり短くなった蝋燭が転がっているのもわかった。
「悪い、もうしまっていい」
俺がまだ舌を差し出しているって気づいたらしい伏黒がようやく許可をくれる。
「ありがと」と俺は言ったけど、舌がもつれてうまく発音できなかった。
「いや、こっちが付き合わせたんだから」と伏黒は俺の気持ちも知らんでちょっと申し訳なさそうに言う。「それに勝手にキスした。お前が嫌って言えないときに」
「ふ。あれは食べてただけでキスじゃないっしょ」
「そうか?」
「そうだよ」
「ならそれはそれで悔しいな」
「じゃあキスしていいよ。違う。キスしろって言って。大丈夫だから」
「は?」
「言ってよ女王様」
そう俺がうながすと、俺の女王様は大げさにため息をついたあと命令をくれる。眉間にしわを寄せて俺を睨んだままの顔に顔を近づけると鼻と鼻がぶつかって笑ってしまった。映画でめちゃめちゃ見た場面なのにうまくいかない。でも俺が本気で安心して笑っていて、本気でこの遊びに高揚しているって伝わればいい。
唇が触れる。
触れるだけが俺の精一杯なようで、たぶん伏黒の望む大人っぽいセクシーなものでは全然なかったはずだ。だけど伏黒は「よくやった」って俺を褒めてくれる。俺は思わずそのまま伏黒を抱きしめている。
「初めて好きって言ってくれたとき」とそのときの伏黒の震える声を思い出しながら話しかける。「俺とならなんでも、全部してみたいって言ってたよね」
「言ったかもしれない」
「あのなんでも全部のなかにこの蝋燭があるとして、他にはどんなんがあるの?」
「そうだな」
と伏黒はまた考え込む。今度は俺も急かさずに、黙って背中を撫でて返事を待つ。
伏黒も俺の背中をぽんぽんと撫でてくれるから、なんだかあやし合っているみたいだ。
「お互いいろんなことやりながら100歳とかまで生きて」と伏黒が俺の耳元でささやき声で言う。「いやなんか死なねえな俺たちって言いながら心中する」
「ふ。どうやって」
「盗んだ車で崖からダイブだな」
「100歳で? なにそれ。感動的じゃん」
本当に感動してちょっと泣きそうになるけど、同時に「次は緊縛の勉強をしてみるのはどうですか」って言い出しにくくなっちゃったなって恥ずかしい。
とりあえず五条先生に麻縄買ってって頼もうかな。伏黒と使うからって。