伏翼ねむる鳥篭獣すら鳴き声を潜める真の闇夜の中。
夜明けまではまだ間があったが、ラルフはすでに寝台を抜け出していた。
手早く身を清め、暗闇でも過たず獲物を手に取り身に付けていく。狩るべき闇のものが息づく夜は狩人にもまた生きる場所なのだ。
寝台へちらりと視線をやると、共に横たわっていた影が起き出す気配はない。
(だいぶ強めにしたからな…まあしばらくは起き上がれないだろう)
ただでさえ本調子ではない相手に悪いとは思ったが、罪悪感よりもしばらく会えぬであろう名残惜しさの方が強く、どちらも表には出さず飲み込む。
ラルフ・ベルモンドの名は、ドラキュラ討伐によりこの地に広く知れ渡った。自身は一介の狩人であることから変わる気はなかったが、それまで排斥されていた者が一転英雄扱いされたことも、新たに守りたいものができたことも大きな変化だ。
敵地で出会い、そして帰る場所を失ったかけがえのない仲間──宿敵の息子であるアルカードに、ワラキアを離れ共に暮らすことをラルフは提案したのだ。闇のものへの恐れはどの地にも残るが、元凶である城の近くにいれば残党狩りの憂き目にも遭うだろうから。
承諾はしたものの、予想通りというかアルカードは素直にラルフと『人らしい』生活を共にするつもりはなかったようで、「地下に棺をひとつ用意してくれればそこで眠る」と冗談ではなさそうに言う。「起きてこない気がするからやめろ」と家の中に引っ張り出し、寝食を共にするうち、自然とわりない仲になっていった。
だが予想と違ったこともある。
アルカードは、いまや昼夜を問わず隙あらば寝ているような状態なのだ。
吸血鬼の特性が失われた訳ではなさそうだが、人と同じような日常生活を送る程度で疲れてしまうらしい。どうも、自らの魔力が体にうまく馴染んでいないようだという。
それはどうやら悪魔城の消滅が原因だった。
おそらく、生まれつき強い闇の魔力を持っていたアルカードは、悪魔城というより大いなる魔力に満ちた場所と自然に融和することで力を過不足なくコントロールしていた。それが魔力の薄い場所で暮らすようになり、全て自らの身の内で処理しなければならなくなったのだろう。
とはいえ、蜘蛛は自分の糸には囚われず、毒を持つ生物は自分の毒で死ぬことはない。魔力が身に馴染むまで大人しく過ごすのが最善であると判断しているらしいアルカードに、見守るつもりでそばにいるのがラルフの精一杯だ。
(…それが存外…心地良いと言えばいいか。誰かと毎日を過ごしたいと、思うようになるとはな)
力に特化した一族として、孤独は慣れていたことだ。だがひとたび他人の心地よさを知れば強いて以前に戻りたいとは思わない。アルカードの存在がそれを教えた。
「……フゥ」
だが、今回はそうしてばかりもいられない。
緩みそうになる意識をラルフは引き締める。再び、ドラキュラに関わる地へ赴くのだから。
討伐から三年。
ドラキュラという目に見える脅威が除かれても、世の中の乱れはむしろ増していた。独自に調べを進める中でラルフは暗躍を始めた悪魔精錬士の噂を聞き、ドラキュラの残り香に群がる存在を野放しにはできないと、再びワラキアを訪れることに決めた。
そして、それにはアルカードを巻き込まないことも決めていた。
「………ラルフ」
「!」
思考の隙をつくような、するりと闇の中から忍んできた一声に狩人の心臓が跳ねる。
「…起こしたか」
けほ、と軽く咳込む声と僅かな衣擦れの音が答える。多少弱っているとはいえ、ダンピールの感覚を誤魔化すことにそもそも無理があったようだ。
「急ぎだ。すまんが出掛けてくる」
「……どこ…へ 」
頭を起こそうとして、くら、と肘をついたアルカードの額に名残のキスを落とし、再び寝台に沈ませる。
「寝てろ」
「……?」
アルカードは当然まだ問いたげな様子だったが、努めて無視をした。説明すれば同行すると言うだろうし、行き先を悟られれば置いていったとしても間違いなく現地で再会する羽目になる。
ドラキュラの遺恨残る地に、どの程度戦えるのかも分からない今のアルカードを連れていこうとは思えない。何より、目的の相手がいれば戦いは避けられないだろう。
(相手は悪魔精練士…つまりは人間だ。できれば人を殺す手伝いはさせたくない──お前が覚悟して父親を手に掛けたように、人同士の汚れ仕事くらい俺が引き受けてやる)
勝手にそう決めて、勝手にアルカードを置いていくことにした。それが自身の傲慢であることに気付いているからラルフは何も言えなかった。
「しばらく戻れないかもしれないが…ゆっくり休んでいろよ。まあ、いつものことか?」
ラルフの革手袋の感触がアルカードの髪を漉き、離れていく。ぐったりと重い体に逆らいラルフの微笑みを追い、その姿を瞼に焼き付けたまま、アルカードは再び目を閉じた。
気怠さに任せてそれで終わりにしてしまった。
ラルフが『無事に』戻ることがないなどと、到底思いもしなかった。
✵ ✵ ✵
(どのくらい──経ったと思っている)
窓の外から姿が見えないよう気をつけながら、アルカードは苛立ちを拳の中に握りしめ空を睨んだ。
いつになっても戻らないラルフを探す手段もなく、アルカードはただ臍を噛む。
焦燥が増すばかりの日々の中で、ラルフを引き留めなかったことを繰り返し後悔していた。時間の流れがこれほどに辛いと感じることを初めて知り、こんなことなら人の世に残るべきではなかったと嘆いた。
──ひとりは怖い。ひとりで生き続けることは、膨大な時の中に放り出されることは、いつか訪れることだとしてもこれほど耐え難いことなのか。
ラルフに恨み言を言いたい。
お前が俺をひとりにしたのだと。ひとりの孤独を教えたのだと。お前がいる限り、俺はここにいたいのだと。
(なのに…肝心のお前がいなくてどうする、ラルフ……)
起きていても眠っていても時は平等に過ぎるが、どれだけ眠ったのかを教えるものは、相変わらず太陽と月の移り変わりしかない。
季節も変わろうかという更に長い時を経て、ようやくラルフは戻ってきた。開口一番に侘びを口にしたラルフへ、アルカードは何も言えない。精彩を欠いた動きにそれとわかるほど衰えた体。命の危機に晒されたことが明白な姿を見て、唖然とするばかりだった。
「……………」
ラルフの左胸に増えた傷にあてる包帯を替えながら、アルカードはまた後悔の苦味を味わう。
左胸と背を一直線に貫いた鋭利な傷──父母譲りの医学知識を持つアルカードには、これで心臓や肺が無事であったことや、失血で命を落とさなかったことが信じがたい。辛うじて戻ってこられる程度には癒えたものの、失った生命力が戻るまでまだまだかかるだろう。
一体何があったのか。問い詰めても、ラルフはばつの悪い顔をするばかりでなかなか詳細を口にしない。
「 ……不服そうだな」
アルカードの表情が余程に曇っていたのだろう。さすがにラルフが口を開く。
「ああ。お陰ですっかりお前よりも体調は良くなった」
「そう言ってくれるなよ。少なくとももうドラキュラ復活の心配は…」
「どうして俺を連れて行かなかった」
「……」
ドラキュラにかかる不穏な噂を聞いてワラキアへ発ったこと、三年前に施した城の封印を解かれたこと、現れた城は再び崩壊したこと…いまだアルカードが聞き出せたことはそれくらいだ。というか、封印はどうしたとラルフを問い詰めて白状させた。
ラルフが応えて重い口を開く。
「──無間回廊に入るにも城の復活にも魔力が必要だ。俺ならその恐れはないと思った」
「ああ、お前の血は回廊を開く鍵だが、それさえ手に入れてしまえばあとは魔力を持つ者を送り込めばいいだけだからな。…だから俺も行くべきだった。回廊内で動ける者が必要だったのだろう」
アルカードが歯噛みする横で、ラルフは懺悔を飲み込む。
(そうだ、仲間に頼るべきだった。そうしなかったのは…お前を遠ざけておきたかった俺の身勝手だ)
そのために城の復活を許し、世界を危機に晒すところだった。英雄が聞いて呆れる。
「……俺のせいだな」
ラルフがぽつりと零した言葉の重苦しさにアルカードははっと顔を上げた。
ラルフを責めてしまったと密かに慌てたのがわかるが、結果論だ。ラルフもアルカードも、これほど早く悪魔城やドラキュラ復活の危機が訪れるとは予想していなかった。魔王ドラキュラを倒したことのある者はこれまで誰もいなかったのだから。
「…地獄に戻った城へ至る回廊をベルモンドの血で封じる。それが、ドラキュラを滅ぼした直後、あの場での最善だった筈だ。それが完璧ではなかったとて誰のせいでもない」
慰めを言ってから、アルカードは自らの手を見つめ、悔しげに握りしめる。
「むしろ…城の復活にも気付けないほど…俺は衰えていたのか」
悪魔城が復活したことなど、戻ってきたラルフに聞くまで気付きもしなかった。共に行くべきだったとは言いつつも、魔力の不均衡に翻弄される己では果たして役に立てたかどうか。
ラルフがそれを案じたのであろう事も、本当は分かっている。
「…ドラキュラ自身ではなく、単なる魔力の残りカスだった。土地も離れているし無理もないだろう」
「お前は気付いた」
「たまたま当たりだったに過ぎん」
ラルフは人心の乱れを人としての経験から感じ、自分の足で解決策を探した。人の世の経験に乏しく、満足に出歩けもしないアルカードにはできなかったことだ。
どちらかだけでは足りなかった。
そもそもひとりの力でどうにかできることではないと知っていた筈なのにと、水掛け論のようなかばい合いも途切れ、部屋に沈黙と重い空気が流れる。
「──…ラルフ、俺は、…お前が、生きて戻ってきたことが、本当に…嬉しいんだ。本当に、それだけで……」
苦いものを多く抱えつつ、最も単純な結論をアルカードは口にした。
生きて帰ってくるだけでいいとは狩人への侮辱かもしれない。ただ、紛れもなくアルカードの本心だった。そしてそれを咎める気持ちもラルフにはまるでない。
「……ああ。俺も、死にかけて真剣に思った。何としてもお前の元に戻りたいと。…あのまま死んでいたら、ゾンビになってでも戻ろうとしたかもな」
悪趣味な冗談だとアルカードが眉を顰めたのを見て、ラルフの心はようやく解れ始める。
結果だけ見れば、ラルフは生きている。
死神に比肩する脅威であったふたりの悪魔精錬士はもう『いない』。ドラキュラが遺した、人の世を蝕む呪いとやらは消えた。
──それらをアルカードの過去に触れずに説明することはできない。だが、勝手に相手の傷を推し量ることはもうやめなければ。
「…俺はな、魔女に助けられたんだ」
ぴく、とアルカードの秀眉が歪む。
「魔女…?」
それだけで母親のことを思い出すのだろう。だからラルフも、人の世にまだ魔女狩りが横行していることはずっと伏せていた。
「だが事の発端はそっちじゃない。ドラキュラの元にいた悪魔精錬士のことは知っているか?」
「……ああ。二人いたはずだ。俺たちがドラキュラと戦ったときは姿を消していたが…生きていたということか?」
「そうだ。これから俺が知ったことを順を追って話す。…お前には辛い話もあるかもしれないが、聞けるか」
アルカードは躊躇わずにこくりと頷く。
ラルフはアルカードを守るつもりだった。できうる限り、彼を傷付けるかもしれない全てから。
だがそのために真実から遠ざけた。
傷付き弱った翼で飛ばぬようにと、篭に閉じ込めるように。
戦いの後のアルカードの憔悴を考えるに、それはある意味間違いではなかったのだろう。ドラキュラを失い生きていけなくなった者は確かにいた。だが同時に、拠り所を失くしても自らの生きる道を選び取った者もいた。
強大な庇護と居場所を失わせたと嘆くより、自分の力で進む強さを信じるべきだった。
すう、と息を吸い込み、決意とともに吐き出す。
「なあアルカード……これからも俺の側で、生きてくれるか?」
予想外過ぎる言葉に、アルカードはただただ目を瞬かせる。
「……事の次第を話すのではなかったのか」
「話すさ。だが、こっちを先に確認したくてな」
アルカードは再び目を瞬かせる。誤魔化されているように思ったか、なんと答えたものか迷っているのか。
「…さあな。先に死にかけたのはお前の方だろう──次を許すつもりはないからな」
ふい、と視線を逸らしながら返された言葉に安堵し、ラルフはアルカードにもたれかかる。
「ラルフ…休む前に話を聞かせろ」
「わかってる」
耳元で催促する声と抱き締めた体と抱き返す腕が全て心地よくて、そのまま目を閉じてしまいたくなった。
アルカードなりに、共にいると答えてくれた。
それで十分だ。
ただお前の側で生きている、それだけで。