ほんの気の迷いの迷いとある百貨店の一角。フロアの隅に設けられたアクセサリー雑貨のコーナーには、色とりどりのサングラスがずらりと並べられていた。きらびやかなライトに照らされて、フレームもレンズも小洒落た輝きを放っている。
そのディスプレイの前に、クロバはいた。
いつものようにカモメッシュをかぶり、平然を装いながら、さりげなく手にしたサングラスを試す。鏡に映る自分の顔に視線を走らせては、そっとため息を漏らす。似合っているのかどうか、判断がつかない。だが、手は離せなかった。──そんな時だった。
「……あ」
背後から、呆けたような声が響いた。
「……あ」
クロバも反射的に振り返り、声の主に気づく。
サクレだった。見知った顔に、気まずい空気がその場に流れる。
「…………」
「…………、じゃ」
クロバはわずかに身を引き、踵を返した。立ち去ろうとするその肩をサクレが鷲掴む。
「おい待てクロバ、帰るな。今手に何か持ってただろうが」
「何のことだ?」
振り返るクロバの表情は無垢そのものだ。しかしサクレの目は誤魔化せない。
「グラサン、持ってただろ?」
「持っていない」
「嘘付いてんじゃねぇよ」
「持っていない」
ひたすら無表情を貫こうとするクロバに、サクレは呆れたように溜め息をついた。
「お前、この店に10分前からいただろ」
「…………、いない」
「そんで5分くらい前にこのグラサンコーナーの前に来ただろ」
「き、来てい、な……」
「そして数分前に、さっき手に持ってたグラサンをそこの鏡の前で試着──」
「お前いたな⁉ ずっとこの店にいただろう⁉」
裏返った声に、サクレはもう我慢できなかった。吹き出しながら、腹を抱えて笑い出す。
「ぶはははははは!」
店内に響くほどの豪快な笑い声に、「……ぅッ……」とクロバは顔を伏せる。みるみるうちに頬が赤く染まっていくのが、帽子の下からでもよく分かった。
「あー! なぁに真っ赤になってんだよ、おっもしれー♪」
サクレは涙目になりながら笑い続ける。クロバは視線を逸らしたまま、かすれるように問う。
「い、いつからいた……」
「さっき言ったろ。10分前」
「……なんですぐに声をかけなかった」
クロバの声には、わずかな怒りと羞恥が滲んでいた。
「そりゃお前がこの店に何買いに来たのか気になったからじゃねぇか。俺が声かけたらお前すぐ帰っただろ」
悪びれる様子もなく、サクレは肩をすくめる。からかわれていると分かっていながら、クロバはもう何も言い返せなかった。
「……もう帰る」
一言だけ吐き捨てるように言い、クロバはサングラスを棚へと戻す。棚に置く手は乱暴にならないよう注意深く、それでもその動作にはどこか拗ねたような力がこもっていた。
「おいおい、それ買わねぇのか?」
「買わない」
足早に立ち去ろうとするクロバに、サクレがさらに茶々を入れる。
「それもけっこう似合ってたぞー?」
「買わない!」
珍しく張り上げられたクロバの声が、売り場のフロアに小さく響く。その上にサクレの笑い声が大きく重なった。それでもどこか楽しそうな顔で、ふたりは並んでエスカレーターの方へと歩いていった。
Fin.