ビチャッ。扉を開けたチャーリーの顔に飛沫が飛んだ。手で触れてみるとそれは血だったので、脳味噌じゃなくてよかった、そう思いながらハンカチを取り出す。アレ目に入ると痛いのよね。顔を拭ってからポケットにしまう。
「えーと、今大丈夫かしら?」
大丈夫じゃなさそう……くずおれた男を見下ろす。これって人間の死体じゃないの?しかも出来たてホカホカのやつ。
「……君の方こそ大丈夫?」
チャーリーが現実逃避気味に思考を飛ばしていると、男の声が響く。
カツ、カツ、と靴音を立てて現れた男は白シャツにきちりとベストを着て、清潔感のある出で立ちをしていた。真面目そうな、ともすれば神経質そうにも見えた男は、眼鏡の弦を上げて彼女を見やる。片手に持つ血濡れたナイフだけが違和感を放っていた。
「まあいいか」
扉の前に立つ彼女に近づいてきた男はナイフを振り上げる。チャーリーはいきなりの凶行にびっくりしてぎゅっと目を瞑った。とん、と彼女の身体に衝撃が伝わる。心臓を一突き。しかしいつまでも痛みはやってこなかったのでそろそろと目を開いた。男が握るナイフは彼女の胸に刺さらなかったのだ。物理法則が通用しない存在に動揺した男が後退る。
「あの……!ここはどこで今っていつかしら!?」
チャーリーはその分の距離を自分から詰め、男の腕に縋る。殺されかけたとは思えない彼女の呑気さに、男は呆気にとられた。
「……ここはニューオーリンズで、今は1931年だよ」
彼女の手を引き剥がして男が答える。そして足元に倒れているものを見やり、ため息をついた。
「で、君はどうして俺の家にいるのかな?鍵は閉めたはずなんだけど」
「私にもよく分からないの」
本当に分からないのだ。いや、原因は分かる。あの本、もとい魔導書だ。
チャーリーは今日、ルシファーの跡継ぎとしてとある貴族との会合に臨んだ。直近のエクスターミネーションによる影響を伝えるためだ。ホテルについても話したかった彼女は張り切ってその貴族の屋敷に向かい、応接室にて待たされる事になる。待っている間手持ち無沙汰になったチャーリーは本棚に並べられた本を手に取って──そこで記憶は途切れている。おそらく、魔導書によって人間界に召喚されたのだ。しかし召喚理由も召喚方法も、地獄に戻る方法もさっぱり分からない。
「あ〜!!どうしようどうしようどうしよう」
「本当に傷がつかないな……」
男が頭を抱えていたチャーリーの頤を持ち上げ、その頬にナイフを押し当てる。刃を食い込ませるようになぞっても彼女には傷一つつけることすら叶わないのだ。
「やめて」
興味深そうにべたべたと触ってくるのを、チャーリーは押し退けて軽く睨む。両手を上げたものの全く懲りたような素振りを見せない彼は、どこか……「彼」を思い出させた。
「ああ、ごめんね。……それより、行くあてがないならここにいるといい。部屋も空いてるし」
「いいの?」
私としてはすごく助かるわ!とチャーリーが瞳を輝かせているのを男は愉快そうに見つめている。
「君って警戒心がないんだね。人間じゃないから?天使、それとも悪魔なのかな……殺せなくて残念だ」
「ハハハ……」
チャーリーは目を逸らす。だって嘘をつくのは苦手だしどこまで言ってもいいのか分からないのだもの。しかし、とりあえず暫くは彼の家に厄介になるしかない。どうにか地獄への帰り道を見つけなければ……そう内心考えながら手を伸ばし、男の手をとった。
「ええーっと、まずは挨拶からよね!はじめまして、私チャーリー!しばらくお世話になります」
「はじめまして、俺はアラスター。どうぞよろしく」
「……そう、じゃあアルって呼んでいいかしら」
驚きで呑んだ息をどうにか誤魔化した。似ている、とは思っていたが……目の前の彼は、いつかあのラジオデーモンになるのだ!
「……逃げなかったんだ」
翌日、アラスターは彼女を残し仕事へ行った。夜更けに帰ってきてリビングの扉を開き、目を瞬かせる。あの頭のネジがとんだ、男のような格好をして男みたいな名前を名乗った美女はてっきり姿を消したものだと思っていた。とはいえ逃げ出した彼女が昨夜の自分の行いを触れ回ったとしてもどうにかできる、といつも通り出掛けたのだが……
「おかえりなさい、アル。逃げないわ、行くところなんてないもの」
キッチンから出てきたチャーリーが腕を組む。彼女はエプロンをつけ、何か料理をしていたようだった。が、いきなり頭を下げる。
「ただ……ごめんなさい!キッチン汚しちゃった」
「好きに使っていいって言っただろう、構わないよ」
薄く微笑んで返したアラスターがキッチンを覗き込んで固まった。残念なことに人間界の道具も食材も地獄よりずっとずっとヤワだったのである。見事なまでの大惨事。
「…………随分派手にやったな」
「ごめんなさい!!!!」
どうにか片付けてるところだったの……そしたらこんな時間になっちゃって。そう眉を下げる彼女を見ながらアラスターはジャケットを脱ぎ袖を捲った。
「アラスター?」
「先にディナーにしよう。君、ジャンバラヤはいける?」
「ジャンバラヤ?好きよ!」
「アルはどうして人を殺すの?」
「それ今聞くのかい?本当に面白い子だな……」
スプーンでライスを掬いながらチャーリーがアラスターに尋ねた。確かにディナーに相応しい話題かと聞かれたら殆どの人はノーと言うだろう。しかしチャーリーはあらゆる暴力沙汰が日常茶飯事な地獄生まれのプリンセスだったし、アラスターはその殆どに該当しない人間だったため気分を害することなくその話題を続ける。
「逆に聞くけど、どうして人間を殺しちゃいけないんだい?こうやって手間暇かけたら美味しく食べられるのだって他の動物と変わらないのに」
鶏肉をフォークで刺す。うん、美味しくできたと満足げに笑う彼は、いつもなら何の肉を使うんだろう?チャーリーは皿の上を見下ろした。
「えーっと……」
チャーリーはもぐもぐと口を動かしながら暫く黙った。ジャンバラヤはとても美味しかった。ホテルで振る舞われたあの味と同じくらい。
「あなたに納得してもらえそうな答えを言えないわ、ごめんなさい」
「そう。じゃあ違う話をしようか」
一日過ごしてみて、何か必要なものはある?いいえ、大丈夫。あなたのラジオを聴いたのだけど……二人の会話は尽きることなく続いていく。