カリンパニの咲く頃カリンパニの花が、頭上に愛らしく咲いていた。時折、風がそよいで木々や若葉を揺らし、まるで小さな波の音のように繰り返す。この花が咲くと鹿の毛も生え変わり、肉も美味くなる頃合だと教えてくれる。長い冬を終え、次の季節への喜びを感じるはずなのに…少しだけ心がざわざわする。
『金塊が見つかったら、どうするんだ…?故郷に戻って、好きだった人と暮らすのか…?』
私が杉元にそんな質問をしたのも、この花が咲いた頃だった。金塊争奪戦の最中、自分の気持ちには薄々と気がついていたがとてもそんな事を口には出来なかった。私には私の、杉元には杉元の『やらなければならないこと』があったからだ。杉元本人はさておいて、周囲の一部の人間には勘づかれていたらしく、それとない助言や遠回しに内心どう想っているのかと聞かれたこともあった…それも、今となっては良い思い出だ。
『故郷へ帰ろう、アシㇼパさん』
権利書を手に入れ、争奪戦に決着をつけた後に杉元は寅次という親友との約束を果たし、北海道に帰ろうと私に言ってくれた。自分が幸せになれそうな場所をやっと見つけたんだと語る口調は穏やかで、嬉しくて少し泣いてしまった。杉元の言う幸せになれそうな場所に私もいて良いのだと、傍で見ている事が出来るのだと。…もう、それだけで私は充分だ。
「すぎもとー、どこだー」
北海道に戻ってから数ヶ月が経ち、私達はいつものように狩猟へとやってきた。頃良く獲物である鹿を追いかけていると私の使っている弓矢にほつれが見付かり、修理する間に杉元は先に追いかけていってはぐれてしまった。大声で呼んでいると獲物が逃げてしまうだろうが、そうなったらまた一緒に探せばいい。まだ日も高いし、陽気も良い。杉元の狩猟の腕も随分と上達してきてはいるが…勝率は五分五分といったところだ。
「すぎもっ……」
二、三度と茂みをかき分け進むと、目印となる帽子が見えたので再度、声をかけようとしたのだが名前を呼び終わる既で言葉が途切れた。
(寝てる…のか…)
私はそんなに待たせてしまったのだろうか。そよぐカリンパニの木の根元に背を預け、目を瞑って浅く呼吸を繰り返す胸の動きをみれば、生きていることは分かる。以前の、あの頃の殺伐とした雰囲気を思えば今この表情は穏やかそのもの。自分らしく生きていけているという確かな証拠で大きな進歩だ。
『大丈夫だ…、こんな傷じゃ…俺の魂は抜けていかない…』
あの時、お前はそう言ったな…アイヌの文化では誰かが死ぬと、その持ち物に傷をつけて魂を抜いて役目を終わらせ、持ち主の元へ送ってやるのだ。
「あの時、もしも…魂が抜けたとしたら、お前は何処にかえったんだろうな…」
呟くようにこぼれた言葉をかき消すように、私は杉元へと歩み寄り、起こさないように左横へ静かに腰を下ろした。視線を上げて見上げると傷はありはするものの、整った顔立ちが静かな寝息を繰り返し気持ちよさそうに眠っている。私はそっと左頬の傷に指を伸ばした。
私には誰にも言っていない秘密がある。
それは私だけの秘め事。
不死身の杉元。歴戦の中で負った傷は全身に及び、その中には私の知らないもの、私を守ろうとして負ったものがある。傷を負って、痛みが無い事なんてある筈が無い…もしも、この沢山の傷から少しずつ、少しずつ…お前の魂が漏れ出してしまっていたなら…そう考えると、途方も無く胸が苦しくなるんだ。
私の知っている傷くらいは…せめて……
傷に触れる既で指を止め、私は静かに多く息を吸い込むと、目を閉じて唇を杉元の頬傷に合わせた。
「……んっ……」
ピクリと微かに頬が微かに動き、小さく声を漏らしはしたものの未だに起きる気配は無く、そのままの静かな寝息を保っていた。そのまま息を止めながら、杉元に息を吹き込む動作を思い描きながら少しの間を置いて離した。
お前の魂が、負ってきた傷から漏れ出してしまっていたとしても、私が新しく魂を吹き込んでやれたら良いな。それが、たとえ鼬ごっこだとしても杉元には生きていて欲しい。言葉には願いが込められ、名前には力が宿る。それならば言葉にする前の息にも願いや想いを込めれば効果はあるはず…そんな願いから始めた行動だった。
1番大切な人を失いたくない…秘めた私の我儘だ。
ガサガサッ…ッ
その時、風に揺れる葉の音とは違う、物体を伴った重い音が茂みから聴こえ、すかさず其方へ視線を向けると、草陰から細い足と茶色の毛並みが見えた。先程まで追いかけていた鹿だろう。私は寝ている杉元の肩を掴んで声を掛けた。
「おい、起きろ、杉元」
「…っ……んーっ…あれ、アシㇼパ、さん…?」
私の問いかけに欠伸を噛み殺しながら、薄らぼんやりと杉元は漸く目を覚ました。
「何を寝コケているんだ、覇気がまるでないぞ」
「いやー…春風があんまり気持ち良かったんで、つい」
「全く…それだけ休めばあと半日は山を走れるよな…?」
徐々に寝ぼけのとれてきた杉元へ視線で茂みを指すと、獲物も此方に気が付いたらしく、軽高な足音と共に姿を消そうとしている。
「先に行って仕留めてくる。お前は完全に起きてから来い。そうじゃないと危ないから」
そう伝えると、私は弓矢に手をかけながら先をゆく鹿の足取りを追い始めた。今、まじまじと杉元を見たらボロが出てしまうだろう。思い出して熱くなり始めた頬を春風がそっと撫でるのさえむず痒いほどに…。
この先、カリンパニの花が咲く頃になると私は思い出すだろう。自分が始めた事の大きさを…ずっと杉元のことが好きだったって事を…。
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「あれっ…」
頬に違和感を覚えた俺がそっと指を這わすと、小さな可愛らしい花弁が1枚くっついていた。頭上のカリンパニの木から風で吹き落ちたものだろう。指先で摘み取り、まじまじとその花弁を見つめながら俺は大きな溜息をついた。
「また聞きそびれちまった…アシㇼパさんに…」
甦る頬の感触と、彼女の熱を伝える唇の温度。顔や指先が火照って熱い…きっと、顔は真っ赤だろう。
全て見ていたのは、この小さな春の花だけ。
【fin?】