トㇰトㇰセそれは、俺がアシㇼパさんとアイヌコタンに帰ってきて暫く経った、ある夜の出来事だった。
「…もう、寝たのか…杉元」
その日、夕食を終えたアシㇼパさんはいつにも増して上機嫌だった。追い掛けていたユクも守備良く仕留め、美味いオハウに二人で舌鼓をうった。少し頬を赤らめながら敷いた松葉の上で満足気に微笑む顔といったら、他に例えようのない可愛さがあった。片付けもそこそこにして、明日の予定を立てつつの就寝前の会話はお開きとなったはずだったのだが…。
「…いや、まだ起きてるけど…」
「そうか…」
もう、とうに眠ったと思っていた焚き火を挟んだ対岸側から声を掛けられて、俺は瞑っていた目をうっすらと開いた。見ると、こちら側に背を向けて横になっているアシㇼパさんがモゾモゾと動いているではないか。
「大丈夫…?お腹痛いならオソマ行っておいで」
「フチみたいな事言うな…さっき行ってきた。でも、なんだか、そういうのじゃないんだ…ん~…」
そう言いながら丸めていた背を伸ばしてみたり、かと思えば今度は膝を抱えてギュッと丸まり、また左右に揺れてみたりと落ち着かない。…まさか、夕食に食べたオハウの中にニリンソウと混じってトリカブトが…いや、一緒に食べた俺がなんでもないのだから、それは無いだろう。風向きが変わり、身体が冷えてしまったのだろうか。
「こっちに来るかい、アシㇼパさん」
「……ん…」
小さな返事ひとつの後、アシㇼパさんはゆっくりと身体を起こすと、眠たげな顔で四つん這いで近付いて来たかと思えば、ゴロンと俺と向き合うように身体を近づけて横になってみせた。てっきり、背中をくっつけて来るものだと思っていたが、これでは背中が少し危ないだろうと身体を自分の方へ引き寄せてそっと背中に手を当てると、アシㇼパさんの口元が穏やかに緩んでみせた。
「杉元の手…あったかいな…」
「そいつは良かった…おやすみ、アシㇼパさん」
眠気もありつつの行動だったらしく、場所を確かめるように身動ぐと、やっと落ち着いたように静かな寝息を立て始めた。珍しく甘えたかったのかな…普段は凛としている彼女だが、こういう行動にはまだ幼さを感じてなんだかほっこりする。寝息と共にパチパチと薪のはぜる音、クチャの屋根を風が撫でる音…遠くで夜鳥が鳴いている声も聴こえる。なんて穏やかな夜だろうと、それらを耳にしながら俺は再び目を閉じた。
一連の金塊争奪戦が幕引きを迎えたのは早十数ヶ月前…。俺は当初の目的であった親友の最期の頼みを叶え、幼なじみでもある梅ちゃんへ目の治療費を渡すことが出来た。再会した梅ちゃんは既に再婚していて目の治療も済んでいたが、残された寅次の子供と、これから産まれてくるであろう新しい命の為にも金はあって困るものじゃない。なんとでも理由をつけて渡すつもりでいたが、梅ちゃんは特に深い理由も聞かずに黙って受け取ってくれた。
あぁ…これで漸く終いだ。これでやっと自分の役目を果たすことが出来た。囚われていた過去へ区切りがつけられる…迷い無く先へ進める。それがどんなに幸福なものかを教えてくれたのは他でもないアシㇼパさんだった。
『杉元も干し柿を食べたら、戦争に行く前の杉元に戻れるのかな』
『子供扱いするな、杉元っ!』
『相棒なら、これからは"するな"と言うな。何かを一緒にしようって前向きな言葉が私は聞きたいんだ』
アシㇼパさんは俺なんかよりずっと強い。金塊なんぞに頼らずとも自分達アイヌの生きた証を未来へと繋ぎ残していく為に今、自分に何が出来るか。眩しいくらい真っ直ぐで、輝いている。そんな彼女を相棒という枠をつけて、俺が一緒に居ていいものなのかと何度となく葛藤したことか…。アイヌだから、子供だから、そんな考えは毛頭なかったが、時々…アシㇼパさんはまだ幼いからと、そう思わなければ抑えられない自分がいるのも確かだった。
そう、色々と…。
パチンッ…
不意に弾けた薪の音に俺は微睡んだ世界から意識を取り戻した。どのくらいそうしていたんだろうか…外は未だに暗く、あまり長い時間では無かったのは確かだ。やれやれと俺は改めて寝る姿勢を整えようとしたが、ふと胸元あたりに妙にこそばゆい感覚があることに気がついた。
「………?」
声を漏らさないようにうっすらと目を開けて自分の胸元に視線を下ろすと、先程まで眠っていたはずのアシㇼパさんがじっと一点を見つめながら優しい手つきで俺の胸板を撫でているではないか。寝ぼけ…てる…?…いや、眼はしっかり開いてるみたいだし、表情はとても真剣だ。…と、言うことはさっきの落ち着かなかった様子も全部演技だったの…か?すっかり声をかける頃合いを逃してしまったし、ここは最後まで見届けようと俺は狸寝入りを決め込むことにした。
これが間違いだった…。
小さく柔らかいアシㇼパさんの手が胸元から腹に流れ、小さく円を描くように撫でては戻り、今度は肩から腕へと場所が移る。服越しでも分かるアシㇼパさんの手の感触は心地良かったし、嫌な気は全く無かったのだが擽ったいを通り越して完全な生殺し状態だ。
(頼むから…それ以上、下には触らないでくれよ…)
そろそろ止めてもらわないと、いい加減こっちも限界が近い…そう思っていた時だった。ふと、今まで撫でていた手が腹の辺で止まり、やれやれ助かったと安堵していると手とは別の圧を感じ、またうっすらと目を開けて見るとアシㇼパさんが顔を埋めているのが見えた。
「…もう、怪我するなよ…。お前が傷付くのを私は見たくないんだ…」
この距離でなければ聞こえなかっただろうアシㇼパさんの言葉に、耳がじんわりと熱くなっていくのが分かる。今まで撫でられていた全身の傷が心地良い熱を持って癒されていくような不思議な感覚だった。そして本当に眠くなってきたのだろアシㇼパさんは、そのまま離れることなく瞳を閉じて静かに眠りに落ちていった。
夢ならばもう少しだけ、この心地良さに浸っていても良いだろうか。目が覚めて、一緒に過ごすこの先で秘めた想いを口にできる日も、そう遠くは無いのだから。
【fin…】